「新世紀への布石ー母国語によるシューベルトー

前に「地引憲子頌」にも記した通り、「どこの国に生まれ育った人であろうと、自分の母国語でシューベルトの歌に舌鼓を打つ権利を保証される、これこそがまさに”基本的人権”である」。この信念が私の単なる個人的確信ではなくて、新世紀の「定説」になること、これがこれからの目標でなければならない、と私は考えている。そしてこの目標を新世紀に向かって高く掲げる真の同志として、地引憲子氏とかの女の歌う「母国語によるシューベルト」の歌を真っ先に挙げたい、と思っている。

昨年来予告しているように、今回を前夜祭として、かの女は本邦初の「女声による冬の旅全24曲」に挑戦するわけだが、これは二重の意味でまさに「新世紀への布石」となるチャレンジであると言える。「冬の旅」が男の歌であることは、原詩を読めば誰でも理解できるだろう。”男の歌は男声で、女の歌は女声で”、というのが”常識”だとするなら、「女声による冬の旅全曲」という試みは、この常識を無視する無謀な企てということになるだろうし、”コーラン”の原文は他国語に翻訳してはならない、というような”原理主義者”にとっては、シューベルトの歌をあらゆる民族がそれぞれの母国語で味わう、ということすら”冒涜”だということになってしまうだろう。われわれシューベルトマニアはこのような”ピューリタン”とは異なり、”男と生まれたからには歌ってはならない歌”というようなものがあるとは思わないし、シューベルトの歌の歌詞は、たとえ何語で歌われようと、その真価をいささかでも減ずる事はありえない、と確信している。ーシューベルトの音楽があるかぎり。

かれの絶筆とされる「岩の上の羊飼い」(D965)は、歌詞を見るかぎりどこまでも「男の歌」であることは一目瞭然である。しかし、これを男声で歌った例を私はまだ寡聞にして知らない。理由はしごく単純で、これがもともとA・ミルダーという女性歌手の求めに応じて作られた曲であって、ソプラノの音域で歌われる時にはじめてその真価を余すところ無く発揮できるように作られているからである。

では「冬の旅」はどうなのか?これはすべて高声(テナーまたはソプラノ)の音域で歌われる時に、最もその魅力というか真価を輝かせるように作られている作品なのだ。アインシュタインは、「ソプラノが歌うかテナーが歌うか、ということは問題ではない。しかし、アルトの歌はまさにアルトのための歌であり、バスの歌はまさにバスのための歌なのだから、これを単なる音程調節の問題だ、と考えるような歌い手は、その曲を知らないも同然だ」、と言っている。もしも「冬の旅」をソプラノやメゾソプラノが歌うことが無謀だというなら、F・デイースカウやH・プライのようなバリトンが歌うことの方がもっと無謀だといえるだろうし、ましてやH・ホッターのようなバスが歌うのは、まさに犯罪行為であるというほかはないだろう。幸いにして、われわれシューベルトマニアは、こんな主張をするほどの田庫奴(分からず屋)ではないつもりだ。

今夜会場に流れる「女声による母国語のシューベルト」を聞いて、一人でも多くの人が上に述べたことに賛同してくれて、いつか近い将来、万人に「定説」だと認められるようになったら、筆者も安らかに往生することができるだろう。その日の一日も早いことを祈っている。

99・12月吉日

實吉晴夫(国際フランツ・シューベルト協会代表)。

 

 

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