シューベルトの「大ハ長調交響曲」と“歓喜の主題”

横 山 英 行

これから述べる事柄は、あくまで一つの推論に過ぎない。その時代から既に170年を経過した 現在、それを証明するには、最早充分な証拠がない。作曲者の友人の全てが世を去り、作曲の 草稿のほとんどが散逸してしまった今、それを確定するための決定的な材料は、既にこの世 からは消え去ってしまっているからである。 それはまた、その事柄の性質上からも、証明され る可能性の極めて薄い事柄である。なぜならそれは、秘すれば秘する程その真価を発揮する 事柄であり、まさに世阿弥の言うように「秘すれば花、秘せずは花なるべからず」的に存在する 事柄だからである。「山路来て何やらゆかし」程偶発的に、まったくの偶然の一致的に発見する 時にのみ、光を発する事柄であり、おそらく証明したなら、その瞬間立ちどころに価値を失う ような秘事の事柄である。
   シューベルト自身、それを目立つ形では表現していない。彼は、全くそれを、彼自身の音楽の 中に溶かし込み、言わば彼自身の音楽の根から芽生えさせている。しかも彼は、それを彼自身 の音楽の最も重要な部分でのみ使用しているのだ。恐らく聴者のためというよりも、彼自身のた めに、彼はその事柄を必要とし、実行に移したのであろう。しかし、一切の友が消え果てた後の 絶対の友 ―― 神、彼岸、汝、英雄、いかなる名で呼ぶにせよ、絶対の理解者のためにも彼 はその事柄を楽譜の中に掲げざるを得なかったのだ。
 最後、にそれはシューベルトの音楽の理解には、それほど多くのものを付加しはしないけれど も、シューベルトの人間を理解する際には、一つの切り口を与えるかもしれない。しかも、それは 、1825年3月に作曲が開始された“ザ・グレイト”と呼ばれる「大ハ長調交響曲」が、外ならず 伝説の「ガスタイン交響曲」と同一であるということの可能性を開くかもしれず、また彼がこの「大 ハ長調交響曲」を作曲するに至った理由の一つをも、探り出すに至るかもしれないのである。  1824年3月。シューベルトは全く救いようのない絶望のどん底にいた。時間が苦く空間が窒 息するようであり、世界の全てが暗く凍てついていて、虚無のみが視野を徘徊していた。昼の世 界では、もちろんサービス精神の豊かな彼はしいて明るく振舞っていた。2月13日付の友人の 手紙。「シューベルトは今、2週間の引き篭り断食療法を続けている。かなり良くなってきたよう に見えるし、とても明るい。そして四重奏曲やドイツ舞曲、変奏曲を書いている。」同じく22日付 の手紙。「シューベルトはとても良い。カツラをつけるのをやめて、愛らしい白鳥のうぶ毛を見せ ている。」別の筆者による ―― 婦人宅の読書会に、シューベルトも出席しました。彼は大変 良く、とても陽気でしたから、私も嬉しくなりました。」
 これらの手紙は表面的に読むと、ひたすらシューベルトの健やかな健康状態と明るい心理状 態のみを記録しているように思われる。けれどもよく読むと、ここには共通の異様な雰囲気がた ちこめている。即ち、どの報告もが「とても良い」「とても明るい」と、そのことの確認こそが極めて 重要であるかのような、筆致をにじませているからである。これは逆に言えば、シューベルトが 以前に極めて悪い健康状態、極めて沈痛な心理状態にあったことを前提としているような表現 であるとも言える。
 事実、前年の1823年11月には、彼の病状はかなり悪化していた。彼の病とは、おそらく梅 毒であっただろうと、今日の医学者たちは報告している。そのせいもあったのだろうか、彼の友 人たちは、このころ次々とウィーンを去り、シューベルティアーデはもはや開かれなくなった。寂 しさに耐えきれぬシューベルトは、ついに11月30日付の友人への手紙で「健康はついに完全 に回復したように思われます。」 とまで書いている。
 確かにこの病は直線的には進行せず、むしろ一進一退、螺旋状に進行するから、そのような 瞬間もあったであろう。しかし、徐々にではあるが、梅毒は彼の中枢鬱まだら状の振幅が生じ始 める。そして肉体的には、先の手紙にもあるように、1823年12月までにはほとんど完全に脱 毛し、禿頭になっていたから、カツラを着用していた。「カツラをつけるのをやめて、愛らしい白鳥 のうぶ毛」云々と言う先の手紙は従ってカツラを取った時の頭部の状態を表しており、「白鳥の うぶ毛」とは白髪、もしくは銀髪の可能性さえ考えられる。そして1824年4月2日付の友人の手 紙。「昨日私達の読書会は、正式に中止することになりました。……シューベルティアーデもこの ところほとんど開かれていません。シューベルトは歌えなくなったし、フォーグルは上流社会や 金持ちの会でしか歌おうとしません。シューベルトは相変わらず、骨の節々の痛みを訴えていま す。」宮廷少年合唱団(コンヴィクト)の時代から常に歌い続けて来た、シューベルトの美しい声 にまで、病は追撃の手を延ばして来ていた。身長154cmの小さな彼のからだの関節を病魔は キリキリと締め付けていた。
 昼の光の中の交友においては、彼は明るく陽気に振る舞い、ハ長調の正常性と素朴を維持し たが、夜の闇の中では、孤独と絶望に喘いでいた。それは、彼が表現者としてのペンを執る時 には、イ短調のリリシズムの中で、「アルペジョーネ・ソナタ」の“詠嘆的な伝説”になったり、「大 ハ長調交響曲」第2楽章の飄々とした“哀愁の前進”になったりするのだが、一人の人間として ある時には、容赦なく彼に襲いかかった。
 3月31日付で、ローマにいる友人に宛てたシューベルトの手紙。
「ずっと以前から手紙を書こうと思っていましたが、なかなか書けませんでした。でも、いま私の 心の内のすべてを打ち明けることのできる機会が来ました。君はとても誠実な人ですから、きっ と私のいろいろなことを許してくれるでしょう。
一言でいえば、私自身この世の中で、もっとも不幸で、もっともみじめな存在だと思っています。 もはや健康がほとんど回復する見込みのない男、その絶望の中でますます悪い方向へと考え が向いてしまう男のことを考えてもみてください。輝かしい未来の希望も消え、幸福だった愛や 友情の恩恵にも浴すことのできなくなった男のことを考えてごらんなさい。
『安らぎは去り、心は悲しい。そしてもはや決してそれを見出すことはできないだろう。』と夜毎歌 って床に入り、二度と目覚めなければよいと願うのですが、朝起きると、前日の悲しみがよみが えって来るのです。このように、楽しみもなく、友人もなく、毎日を過ごしているのです。今はシュ ヴィントもほとんど訪ねてはくれず、ただ過去の甘い日々を追想しているだけです……。
 歌曲はあまり作曲をしていませんが、いくつかの器楽曲を作りました。二つの弦楽四重奏曲 や八重奏曲などで、そのほかもう一つ弦楽四重奏曲(ト長調D887)を作曲しようと思っています。 またこのようなやり方で、更には大交響曲の作曲に私の気持ちが傾いています。
 また、こちらウィーンでは、最近ベートーベンの新しい交響曲、新しいミサ曲から三つの楽章、 それに新しい序曲がのコンサートが開かれる予定です。うまくいけば私もこのようなコンサートを 来年にでも行おうと考えています。
 五月初めにハンガリーのエステルハージー家に行きますので手紙はザウアー・ウント・ライデ スドルフ社気付でお願いします。」
 人間としては、全く救いようのない絶望のどん底にあるシューベルトが、一端作曲家としての 自覚に戻ると、突然旺盛な創作意欲を述べる様が、手紙からうかがえる。「神は私に、悩みを 歌にする術を与えた」と言うゲーテの言葉が想起される。作曲内容も、歌曲から器楽曲主体に 移り、このころ孤独の中で彼の精神が、内省を深め、自分自身との闘いに真向かっているとい うことが知れる。1823年は、劇場音楽というジャンルの彼の挫折と断念の年であった。しかし 一方では「美しき水車小屋の娘」というリートの傑作を生み出していたから、彼の内部では、歌 曲と言うものに対する一つの割り切りは着いていたと思われる。従ってその後に、彼は自分自 身の不安な内面の中に一つの秩序を構築せんとして、器楽曲の作曲に向かったのかも知れな い。
 弦楽四重奏曲を書く仕方と同じ仕方で、彼は大交響曲に着手したいと述べるのであるが、こ れはまさにハイドン=ベートーベンの仕事の系譜を継ぐ姿勢の表明である。事実その後で、彼は 近くウィーンで開かれるベートーベンの「第九」初演コンサートのことについて言及しているが、 それは、全体に暗いこの手紙のトーンの中にあって、唯一見える光明の方向である。

                           

 それはおそらく、シューベルトの苦悶が最悪の状態に達したころのことであった。1824年5月 7日、ウィーンのケルントナートール劇場では、ベートーベンの「交響曲第九番ニ短調・合唱付」 が初演された。「交響曲八番」から実に11年振りのシンフォニーの初演である。“彼はまだ闘い 続けている!まだ闘い続けている彼がここにいる……” シューベルトはそう思ったに違いない。 青春時代から、自分たちの音楽の旗手であったベートーベン。新しい音楽の可能性を次々切り 開いていった英雄ベートーベン。彼がなお、一切無駄のない、簡潔な必然者の歩みを1…2… 3…と進めつつ、ついに神の領域にまで接せんとする“9”の地点まで登攀を続けていたのだ。  たとえ絶望が極限に達したとしても、5月までは……死への衝動が、いつか自己を撃ち負かす としても、5月まではと、シューベルトは思っていたに違いない。一時ベートーベンは、ロッシーニ の音楽に酔い痴れるウィーンでは、「第九交響曲」を初演すべきではないと考え、ベルリンと交 渉し始めた。そんなことを知ったなら、シューベルトはどれ程動揺したか知れない。 けれども多 分、シューべルトはそれに気づくことなく、「第九」はウィーンにもたらされた」。「第九」はシューベ ルトにもたらされた!
 けれども、シューベルトがこの演奏会を聞きに行ったか否かは、残念ながらわかっていない。 記録と言う形では、何も残っていないからである。ただ、この時期、シューベルトがウィーンにい たことは、ほぼ確実である。しかも、「5月初めにハンガリーのエステルハージ家に行きますの で」という先の手紙の文面を反故にしてまで。実際には、予定を3週間程も遅らせて、5月25日 の定期馬車便で、彼はハンガリーへ旅だっている。
 シューベルトはこのころ、出版者からの入金もなく、部屋代を支払うにも事欠くような状態であ った。オーストリア共通通貨で、1か月100フローリンというエステルハージ家の音楽教師代は、 大いに魅力があったはずである。また、エステルハージ家のあるゼレチェは美しい自然に恵ま れていたから、シューベルトの療養にも格好であっただろうし、何よりもそこには、「魅惑的な星」 と彼が呼ぶエステルハージ家の次女カロリーネがいた。従って、延期する必要の何一つないこ の旅を、延期した彼の胸には、やはりベートーベンのコンサートのことがあったに違いない。  もう一度、先の3月31日付の手紙を見てみよう。その中で彼は、自分の作曲内容が最近 器楽に傾斜してきている旨を述べている。こうしたシューベルトが、器楽曲の最高峰、ベートー ベンの「第九交響曲」の初演を聞き逃すはずはない。また、街頭のポスターなどを通じて、それ が声楽の入る大交響曲であるということを、シューベルトはあらかじめ知ったはずである。(実際 、街頭のポスターには、「大交響曲、終楽章にはシラーの詩、歓喜に寄す、による独唱ならびに 合唱の入るもの」と表示されていた。)さらに、「うまくいけば、私もこのようなコンサートを来年に でも開きたい。」という彼であったから、その参考のためにも、出席せぬはずはないのである。 のみならず、彼はこのコンサートに二度まで出かけている可能性も考えられる。と言うのも、 5月7日の初演から2週間後の23日にコンサートの再演があったのだが、シューベルトがウィ ーンを発ったのはそれから更に2日後の25日だからである。仮に初演に出席できなかったとし ても、彼は再演には必死で駆け付けたはずであり、(再演にはかなり空席があった)その衝撃と 余韻を噛みしめながら、初夏のハンガリーへと旅だったのである。

                                  

 広々としたプスタの平原を走り行く馬車のリズムの中で、彼は遠くベートーベンのいるウィーン を振り返った。ああ、この世界にはまだベートーベンがいる!ベートーベンが闘い続けている! 音楽家としての自己に与えられたもっとも過酷な運命と真向かいあいながら……。
 そして目を閉じ、あの衝撃的な夜のことを想った。
 夕刻七時、ケルントナートーア劇場の舞台には、すでにオーケストラが陣取り、緊迫した雰囲 気の中で指揮者と作曲家の入場を待っていた。会場は、貴賓室以外はぎっしり満員であり、 蝋燭のシャンデリアに照らし出されてざわめく聴衆は、ロッシーニのコンサートにはない或る種 厳粛な気分を孕んでいた。指揮者ウムラウフに従いて、ベートーベンが入場してきた。濃い深緑 のフロックコートに身を包み、笑いもせず一礼した彼は、以前街角で見かけた時よりいくらか肥 えたようにも見え、表情の険しさは慈味へと移ろっていた。けれど、あのなつかしいづんぐりとし た意志的な姿勢は変らない。指揮者の脇に名誉指揮者として、彼は聴衆に背を向けて着席し た。
 「献堂式」序曲ハ長調が響き渡った。どこから見てもベートーベンの響きである。厳粛で意志 的でプロメテウス的なこの響き。強さ、光、精神のオリンピア……そんなものを感じさせる。  「荘厳ミサ」は、教会の検閲を回避するために、キリエ、クレド、ベネディクトゥスの三曲のみが 演奏され、しかもタイトルを「三曲の大賛歌」と変更してあった。キリエの冒頭を聞いただけでも、 それは革命的なミサ曲だった。それは、神に慈しみを希うミサ曲ではなく、神に昂然と慈悲を要 求するミサ。陰鬱な室内空間における祈りではなく、晴天白日の宇宙大聖堂のもとで、天の父と 直に向き合うような祈りであった。実際そこには、神に対する人間の理性の対等な関係のみが あり、卑屈な被造物の哀願の響きは微塵も存在しなかった。そして、ベネディクトゥスの終わり に、ヴァイオリンが独り朗々と慈愛の歌を歌った時、初めて人間の感情は艶やかなものとして 解放され、歌そのものが聖別された。器楽という理性の目を通した、いかなる祈祷文からも自 由なものとして。そして、このような新しさの故に、それは教会当局の検閲で全曲を演奏するこ とをゆるされておらぬのだ。それが真_新しい世紀のミサであるが故にこそ、それはミサという名 を冠されることなく、「三曲の大賛歌」という名に甘んじているのだ。
 “ああ、ベートーベンよ、この世は実に不当な所だ。”シューベルトは心の中でそう呟いた。“け れどあなたは、唯ひたすら表現し形成し、その後ろ姿を以って私に語りかける――シューベルト よ、歌は聖別された。歌は、人間のものであるが故にこそ、神のものなのだ。ひたすら唯歌うの だ! と……”
 そしてとうとう、「第九交響曲」が始まった。混沌たる虚空五度の響きの中に、星の光が点り、 漣がおこり、それが方々に連鎖反応のように拡大して、忽然と悲劇的な宇宙が出現した。それ は束の間踏みとどまるかに見えて、躍動し、躍動するかに見えて一瞬に0の中に消えた。しかし そこからまた、それは意志ある者のように、己自身の運命の悲劇の中へ向かって驀進して行く。

     世界の初めに混沌たる理念があった
     止みがたい創造の欲求から、神は
     それに向かって命ずる、成れ! と……
     すると一切は、悲しい呻吟と共に
     それぞれの運命の道を辿り始めた。
 ゲーテのそんな詩を、シューベルトは想い起こしていた。この音楽は、何と広く大きいのだろう 。何と世界そのもののように、命を網羅し、しかも簡潔な原子で構築されていることだろう。こん な音楽の中にあっては、私の苦悶もまた宇宙全体の悲劇の一段片にほかならない。私の悲惨 と罪を、この音楽は深々と抱きとってくれる。しかも、この楽章は、こんなにも悲劇と闘いを含み つつ、なお冒頭の宇宙開闢に輪廻して終わるのである。……
 第2楽章・スケルツォの躍動と衝撃力にもシューベルトはショックを受けた。このような弾力性 こそ、「未完成交響曲」には無かった力であるに違いない。このように打ち降ろすティンパニー の打撃力こそが、前進の力、生を軽々と跳躍して行く力になっているに違いない。(この発見は 実際「大ハ長調交響曲」の第2楽章、第3楽章形成のヒントになっていると、筆者は考えている 。) そしてこの人類史の原始――舞踏にも似た、闘争と葛藤の前進は、聴衆にも深い感銘を 与え、楽章の終わりで大喝采が一時シンフォニーを中断した。
 第3楽章がシューベルトにもたらしたものは、一口に言って“彼岸の力”であろう。美しい理想 主義時代の夕べ――クロード・ロランの絵のような、あの人類史の恩恵の時代に、今音楽はさ しかかっている。主題冒頭、弦の下降音形が、「大ハ長調交響曲」第2楽章・第2主題の冒頭 4音に似ていると感ずるのは想い込みが過ぎるとしても、双方の間に何らかの響き合いがある と信ずるのは、あながち無謀な推理とは言えまい。
 そして轟然たる悲劇的カタストロフィーとともに第4楽章が来る! ここに、シラーの詩で代表 されるロマン主義の“現在” が来るのであるが、それはさながらヘーゲルの歴史哲学の先取り のように第1楽章から第3楽章までを回想する。さらにいえば、それはダーウィンの進化論の先 取り――個体発生は系統発生を模倣すると言わんばかりに、宇宙開闢からの記憶を辿る。 語り出す独りの英雄のDNAの中に封じ込められている、先祖達の遺伝形質の記録であると言 いうるかも知れない。ともあれ、そこから導き出されたのは、奇跡のような虹の円環構造を持つ 順次進行のメロディー、ミミファソソファミレ……であった。そしてそれが一通り展開して、再び悲 劇的なカタストロフィーが回帰した時、バリトンが歌い出した歌詞は、

     おお、友よ、このような音ではない
     我等はもっと心地好い
     もっと喜びに満ちた歌を歌おう!

であった。そして徐に、シラーの「歓喜に寄す」を歌い始めた。

     歓喜よ、神々のうるわしい火花……

     O Freunde, nicht diese Toene !

と、ベートーベンは言った。 Freude … と彼は続けた。それは黒々とした唯の寡黙な後ろ姿 だったが、何よりも啓示のように、シューベルトの心に言葉を射かけた。「友よ、心を調律せよ。 このような音ではない。喜びを目指すのだ。私もまた独り、沈黙の中にいる。悲劇的規定の中 にいる。君とともに!」
 シラーの詩には、すでに彼自身何度も曲を付けていた。けれど、かくまで壮大に壮麗に、あた かも天上から慰撫するもののように、シラーの韻律が力を持って響いたのは衝撃であった。
Goetterfunken!の叫びの後に、オーケストラが当時としては可能な限りのプレスティッシモで 天上へと駆けのぼった時、劇場にもう一度拍手大喝采が起こった。けれどベートーベンにはそ れが聞こえないらしく、依然聴衆に背を向け、総譜に見入っている。「だれか、早く……」 とシュ ーベルトが思う間もなく、ソプラノの独唱者ゾンタークがベートーベンの肩に手をかけ、聴衆の方 に向きを変えさせた。聴衆は誰も、彼の耳が聞こえないことに気づき、手を振りハンカチを振っ て喝采の意を表した。しまいには、万歳を叫ぶ者もいた。ベートーベンは初めはただ静かに会 釈していたが、やがて目頭を押さえ、この沈黙の喝采を感じていた。
 群衆に揉まれつつ、春の夜のケルントナー通りに出ると、ひんやり涼しい闇と満天の星々が 彼の身を包んだ。去り行く馬車の音。参会する人々の声。それに混じって、なおも彼の胸に直接 呼びかける声があった。
 Freunde! Freude! (友よ! 喜びを!) ―― それを彼は、この世に生まれて来た ことの最大の恩恵だと信じた。

                                  

 5月31日付で、シューベルトの親友シュヴィントは、レオポルド・クーペルヴィーザーに書いて いる。「シューベルトは、エルンスト・シュルツェ作の『魅惑的なバラ』の台本を持ってハンガリー に出かけました。……(中略) それから交響曲を一曲書こうと思っているが、すでに目処は ついているとのことです。」
 日付から推定して、これはシューベルトがハンガリー出発直前にウィーンから発信した手紙の 内容を受けて、書いていると思われる。そして、伝聞形ではあるにせよ、この手紙にはシューベ ルトの心の転換点が記録されているように思われる。即ち、3月31日の手紙では、「大交響曲 の作曲に私の気持ちが傾いています。」とあったのが、ここでは、「すでに目処はついている」と ある。また、先の時点では、器楽曲一辺倒に傾斜していた彼の心が、ここではまた歌曲へ、 オペラ台本へと触手を延ばし始めているからである。
 それは或いは旅先で読む軽い読み物というニュアンスを帯びていたかも知れない。また、エス テルハージー家のカロリーネに対するロマンチックな気持ちを駆り立てるための読み物かも知 れない。
 しかし、いずれにしても、ここには何か一つのことに割り切りがついた者の、妙に飄々とした軽 い気分が感じられる。即ち、もうここでシューベルトは、自分の内部の歌と器楽の対立に関して、 徒に葛藤してはいない。彼は明らかに、自分の内部に歌と器楽を棲み分けさせ、またそれらを 一つに交流させる独自の個性的な地点を自覚し、確信している。わずか2か月足らずでのこの 変貌ぶりは一体何なのだろうか? その原因はやはりベートーベンのコンサート以外に考えら れない。
 このコンサ−トで、例えば「荘厳ミサ」ベネディクトス終結部のヴァイオリン独奏は、器楽であり ながら、限りなく人の声に近いものであった。 (こうした伝統は、すでにセバスティアン・バッハ の受難曲中のアリアなどにも見られるものであるが、メンデルスゾーン再演までは、それはまだ 未知の彼方に眠っている。)
 「第九」の歓喜の主題は、器楽を通して発見される順次進行の単純なメロディーだが、それは またバリトンの人の声によって再度提示され、また限りなく器楽の中へと投げ返されて、変奏さ れ展開されるのであった。総じてこのコンサートは、ベートーベンが器楽を通して或いは器楽と の格闘を通じて、内なる声としての歌を創造するという一面を有していたから、それはシューベ ルト自身の問題解決にも多大なインスピレーションを与えたと推定される。
 ことに「大ハ長調交響曲」冒頭のホルンは・テーマは、先の論文でも述べたように、その一見 の単純さの中の構築性において、歓喜の主題からの影響を感じる。ただ根本的に異なるのは、 それが歓喜の主題のように順次進行的でも循環構造的でもなく、むしろドレミとラシドの対立を 内包した上での潜在的な循環性を持っているという点である。またその旋律はシンフォニー全 体の先頭に立ち、音楽を導いて行くという点では、歓喜の主題と共通だが、それほどには教導 的ではなく、むしろ一人の歌人が呟いた一節の調べが自然と皆の胸琴を震わせながら広がっ て行くという趣を有す。ただしそれは、もはや「未完成交響曲」冒頭のテーマのようにエピソード 的でもなければ、モチーフてきでもない。それは明らかに一本の歌の調べとして完結している。 この点で、それはより歓喜の主題的であり、かつ、よりシューベルト的である。即ち「未完成」の テーマはすでに充分シューベルト的な歌心を持っていながら、シンフォニーとしての展開を意識 するあまり、モチーフ的断片に墜してしまった感があり、それが逆にシンフォニーとしての展開を 食い止める形に作用してしまったのではないか? それに比べ「大ハ長調」では、言わばベート ーベンとの対比を通して自分自身の個性に対する“悟り”が生じ、ここに彼の “歌を骨格とする 大交響曲” 作曲の展望が開けたと言えよう。
 「すでに目処がついている」 とは、まさにその意である。この目処を基に、彼はハ長調のドに 始まってドに終わるシンフォニーを構想した。それはまた自らの内面の短調=ラシドを克服する ためのシンフォニーであった。「未完成交響曲」を超越するためのシンフォニーであった。そして 行く行くは、ロ短調からハ長調を経て、ベートーベンの「第九」のようなニ長調の至福の輝きに到 達せんと考えていたのかもしれないが、 (事実、彼は死の年1828年の秋にニ長調の調性を 持つ交響曲D936Aに挑戦している。これは対位法的な構造を持ち、多くのスケッチを残しなが ら、3楽章までの未完で終わっている。) それはまた先のテーマである。しかし、彼の魂を救済 し、彼に彼自身の一回性の個性を自覚させてくれたベートーベンに感謝し、彼はその「大ハ長 調交響曲」の第1楽章の3箇所に歓喜の主題の金色の記念碑を掲げている。
 最初の箇所は、それが最も顕著に現われている。それは冒頭ホルンによって開始されるアン ダンテの序奏がアレグロへの導入に向けて力を得てくる頃、59小節目〜61小節目にかけて現 われる。54小節目からファゴットがオクターブのラ交互に吹いている。それを受けて57小節目 からホルンがオクターブのドをまた交互に吹く。それに続けて歓喜の主題がフルート、オーボエ 、クラリネット、ホルンの合奏で登場する。ミファソファミレ……と歌い ドレミラシド……とシュー ベルトのテーマに接続する。即ちここには、ミミファソソファミレドドレミ…という歓喜の主題と ド レミラシドファレミ…というホルンの主題が一つに手を結んで現われる。すると初めて、ヴァイオ リンは細かな三連符を刻み始め、これが即ちアレグロへの飛翔力となってゆくのである。
 二度目は、展開部の228小節目からだが、ここでは初回と異なり、弦の合奏も伴う。すでに 199小節目から、トロンボーンがゆったりとした詠嘆的なラシドの音形を歌っている。これはテ ンポが緩やかな分だけ極めて「未完成」的だが、それでも冒頭ホルン主題中ラシドの符点リズ ムを継承しているだけ躍動的であり、明暗の中を揺れている。やがてそれが2倍のテンポにな ってラシドを4度連呼するとき(この時ラシドは全く肯定的な意味に変容している。) 歓喜の主 題が3度、ミファソファミレ・ミファラソファミレ・ミファドラソファミレド… と、中に ソ…ラ…ドラ と 上昇する音素を含みながら順次進行的に連結されて登場する。しかしこれは、後のコーダへの 導入伏線にほかならない。
 三度目に登場するのは、545小節目からであるが、これは先程の再現である。しかし、ここで の役割は、迅速なコーダの力強い導入である。即ちシューベルトは歓喜の主題を、自己のシン フォニーの中の最も重要な部分で使用している。音楽のポテンシャルを上げる部分。上昇し、高 揚し、躍動する部分、それを導く天使や虹のような存在として、敬い聖別している。なぜならあの 日、彼は実際にそこから生きる力と霊感の翼を得たのだから。

                                  

 美しいゼレチェの自然の中で、シューベルトは楽興の時を持った。やさしい乙女達と共に。ま た、自らの心の中で。… シューベルトはゼレチェの自然を愛し、「天国がゼレチェと同じように 美しいところでなければ天国なんか決して行かないね。」 と冗談を言った。「大ハ長調交響曲」 第2楽章の、あのホルンが導く天上的なテーマは、まさにこうした時に得られたテーマだろうか。 楽想が次から次へと沸いてきた。「魅惑的な星」 とシューベルト自身が呼ぶ、エステルハージ 家の次女カロリーネと弾く連弾用のピアノ曲も「大ソナタ・ハ長調」「創作主題による変奏曲変イ 長調」「ハンガリー風ディヴェルティメント」「四つのレントラー舞曲」「六つの大行進曲とトリオ」  といつのまにか増えて行く。その傍ら、懸案の「大ハ長調交響曲」のスケッチを着々と進めてい ったと、私は確信する。「大ハ長調交響曲」の揺籃はゼレチェにある。
 しかし、そんなさ中にあっても、彼はウィーンを忘れない。シュヴィント宛ての8月の手紙。「神 様の御蔭で私は元気ですが、でももし君やショーバー、それにクーぺルヴィーザーと私が一緒に いるなら、ここでもどんなにか心地よいでしょうに。ここには“魅惑的な星” がいるにもかかわら ず、私はしばしば忌まわしいほどウィーンに憧れます。」 彼がウィーンの街行くラベンダーの花 売り娘の歌を思い起こしたのは、まさにこんな時であっただろうか。
 「今は、この五か月ばかりの間、たいへん良い健康状態です。」 と9月21日付のショーバー の手紙にもあるように、ゼレチェでのシューベルトは心身とも極めて健やかな多産の日々を過ご し、10月17日、憧れのウィーンに帰ってきた。
 明けて1825年、ウィーンのシューベルトのもとにはかつての友人達がどんどん帰還し、再び またシューベルティアーデが頻繁に開かれるようになった。友とあることを、共同体と共にあるこ とを何より心の支えとするシューベルトは大いに力を得、ゼレチェでスケッチした草稿を一つの シンフォニーにまとめようと思いたったに違いない、従って、「大ハ長調交響曲」の書き下ろしの 中心は、1825年3月〜5月20日頃まで(5月20日から、彼はガスタインを初めとする上部オ ーストリアへの旅に出ている。)の3か月足らずの期間なのであるが、これはあれだけ長大な作 品を仕上げる時間としては、短すぎるように思われる。そこで、スケッチの大部分は既にゼレチ ェで終えられていたのではないか、という推論が成り立つのである。私としては、第1楽章は既 に24年の晩夏までにはこうそうがまとめられたのではないか、と考える。この楽章にはベートー ベンの「第九交響曲」 の体験が強く影を落としているから。また、同年10月までに第2楽章と 第3楽章が構想されたのではないか、と考える。これらの楽章には田園の風景と秋がたっぷり と浸透しているからである。けれど第4楽章だけは、何か都会的な、ウィーンの新しいシューベ ルティアーデの気分を湛えている。ここには、久々に友と再会したシューベルトの歓喜が爆発し ているのかもしれない。「第ハ長調交響曲」 は、ベートーベンの「第九」発想母体とし、スケッチ の大半をゼレチェで仕上げ、書下ろしはウィーン、そして仕上げはグムンデン・ガスタインの旅 の途上においてであると、今の私は考えている。
 1825年5月20日から、シューベルトは上部オーストリア地方への旅に出た。名高いグムンデ ン・ガスタインの旅である。旅程を概観するなら、まず6月4日までは、シュタイアを本拠地として リンツ、ザンクト・フローリアン、クレムスミュンスターを訪問している。ちなみにこの年、アントン・ ブルックナーはまだ生後9ヶ月である。シューベルト通過の余韻は感じたであろうか、彼一流の 神秘的霊感で。6月4日〜7月15日の間はグムンデン、7月15日〜25日はリンツ、7月25日 〜8月13日は再びシュタイア、8月14日〜9月4日がガスタイン、その後9月17日までもう一 度グムンデンに行くが、この間9月12日頃、彼はモーツァルトの故郷のザルツブルグを訪れて いる。そして9月17日〜10月1日までシュタイアにおり、その後リンツ経由でウィーンに帰って いる。  
 この旅の目的は、いくつか考えられるが、まず一つは病気療養を兼ねた避暑であろう。次に は、各地に点在する彼のパトロンや楽友に対するケアー、及び普及し始めた彼の作品の人気 の確認であっただろう。しかし何よりも重大な旅の目的は、この旅の途上における「大ハ長調 交響曲」の完成ということにあっただろう。前年夏から秋にかけて、彼はゼレチェの自然の中で そのスケッチを進めていったが、このシンフォニーを完成させる時にもまた、美しい自然からの 霊感が必要だったに違いない。あのゼレチェの “至福の状態” を、彼はもう一度再現しようと した。そしてまた彼は「大ハ長調交響曲」の御披露目の旅とも考えていたかもしれない。と言う のも、この段階では、交響曲は恐らく九割方出来ており、ほとんど校正や標識の付加の段階に 入っていたと推定されるからである。というのも7月19日付のオッテンヴァルトからシュパウン 宛ての手紙の中に「 彼はグムンデンで一曲の交響曲を仕上げました。それはこの冬、ウィーン で演奏されることになっています。」 と言うのがある。旅の比較的初期の段階で、このシンフォ ニーは完成もしくはそれに準ずる状態にあると見倣されていたのである。 またグムンデンの 後、彼はリンツを訪れるが、その目的の一つは旧友のシュパウンに会うことにあった。ところが 、シュパウンはシューベルトがリンツに来る直前にレンベルクに転勤してしまっていた。がっか りしたシューベルトは、7月21日、リンツからシュパウンに宛てた手紙の中で「君のいないリンツ なんて、ちょうど魂のない肉体、あるいは塩の入っていないスープのようなものだ。」 と嘆いて いる。ここには、完成したシンフォニーを見せられなかった彼の落胆のようなものが感じられる ではないか。それは若き日からの“約束のシンフォニー” であったかもしれないから。…
 しかし彼がこのシンフォニーを御披露目したいと考える人が、恐らくもう一人あった。それは既 にこの世の人ではないが、彼が終生敬愛して止まぬヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト であった。すでに19歳の時、彼は日記にこう書いている。「僕の一生を通じて今日の日は、明 るく澄み渡った、美しい日として残るだろう。まだ僕の耳には、遠くからモーツァルトの音楽が、 魔法のこだまのような音をかすかに伝えてくる。何と力強く、また優しく、シュれージンガーの奏 くヴァイオリンが心に染み渡ったことだろう。こうして心に押された美しい刻印は、どんな時間も 状況も消すことはできない。それは我々の存在にいつまでも恵みを及ぼすのだ、こうしてこの世 の闇の中に、明るく澄み切った美しい“彼方” が開かれる。僕たちは、そこに希望を託すのだ。 おおモーツァルト、不滅のモーツァルト、このように明るく、よりよい生命の恵みの刻印を、どん なに沢山、我々の心に与えてくれたことだろう。」 (1816年6月13日) そしてその気持ちは、 今も全く変らなかった。あの頃、モーツァルトの音楽の中に見いだした“彼方” を、今彼は携え て来たシンフォニー第2楽章のあの“天上の思い出” (シューマン)のメロディに見いだしていた のだから。…シューベルトの亡くなった翌年、シュパウンは追悼文中で「1825年の夏に、シュー ベルトはガスタインで一曲の大交響曲を書き上げたが、彼はこの曲に特別の愛着を持っていた 。」 と述べている。だが、先のオッテンヴァルトからシュパウン宛ての手紙では、シンフォニーは グムンデンで完成されたことになっており、ここではガスタインとなっている。両者の間には約 1〜1.5ヶ月の隔たりがあるが、これは単にシュパウンの記憶違いだろうか?それもあり得る。 上部オーストリア一帯をおおまかにとらえ、名高い景勝地ガスタインの地名で代表したと言うこと も考えられる。だが、シュパウンの「ガスタインで」と言う言葉を重んじるならば、次のようにも考 えられる。即ち、シンフォニーはこの旅の出発時(5月20日)の時点で、ほぼ九割方完成してい た。そしてそれは最初、7月15日のリンツ着に向けて完成を急がれていた。なぜなら、そこには シュパウンがいるはずであったから。シュパウンはシューベルトのコンヴィクト(帝室・王室 首 都神学校)時代からの親友である。共にベートーベンやモーツァルトのシンフォニーを語り、また 自作のシンフォニーを演奏した間柄である。「ベートーベンの後に何ができるだろう」 と、シンフ ォニー創作についての悩みを、シューベルトはシュパウンに語ったことがある。このシュパウンと の再会時に自分と友の何十年来の交友の成果である「大ハ長調交響曲」を御披露目したいと 願うなら、完成はその直前にグムンデンで成されたはずである。(7月19日付のオッテンヴァル トからシュパウン宛ての手紙は、この間の消息を物語る。) ところが残念ながら、リンツではシ ュパウンに会うことはできなかった。そこでシューベルトは、その後もこの総譜を持ち歩くことに なるのであるが、その間にも推敲はどんどん進められていった。現在ウィーン楽友協会に残さ れているこの草稿は、通常のシューベルトの楽譜よりも訂正や書き込みが多くなっているが、そ れはこの際の痕跡であると、私は考えている。
 まさに、このシンフォニーそのものの“天上的な長さ” のように、推敲もまたいつ終わるとも知 れなかった。そんな時シューベルトは、ふと思ったに違いない。そうだ、このシンフォニーをモー ツァルトに捧げよう1 と…。今度の旅で、シューベルトはモーツァルトの故郷ザルツブルグの目 と鼻の先まで来ていた。8月半ばから9月初旬まではガスタインに行く。その後グムンデンに戻 る前に、ザルツブルグに立ち寄ろう! そしてモーツァルトにこのシンフォニーを捧げる!感謝 を込めて……。そのためには、ガスタインで最後の仕上げが成されねばならない。そうシュー ベルトは考えたに違いない。その間の事情を、シュパウンは恐らく手紙か、あるいは直接シュー ベルトに聞くかして知っている。一度はオッテンヴァルトからの手紙で、グムンデンにおける交響 曲の完成を聞いているシュパウンである。その彼が、ガスタインでの完成を語るのには、それ 相当の理由があると考えた方が自然である。
 1825年9月12日、シューベルトはモーツァルトの故郷ザルツブルグの丘の上に立っていた。 先程見て来たモーツァルトの生家。あのように平凡な中産階級のアパート街の中から、あのよう に天使的な才能が生まれて来ると言うことが、奇跡のようにも摂理のようにも思えた。見渡すと 、ザルツブルグ大聖堂やペーター寺院の尖塔の向こうには、さながら中世のパルテノン神殿の ようなホーヘン・ザルツブルグ城がそびえ、その彼方にはザルツ・カンマー・グートへ連なる山並 みが、さながらジュピター・シンフォニー最終楽章のフーガのように幾重幾重に連なり響いてい た。さわやかな初秋の光が山々をも、空をも静穏な市街をもぬらしている。……ああ、モーツァ ルト!私はようやくここまで来た。このシンフォニーは、あなたの足元を飾るにふさわしいものだ ろうか? あなたの、あの澄み切った“彼方” の余韻を、一端でも担っているものだろうか?  ……ヨゼフ・ランゲにもこの四月、私は会った。そしてあなたの神話の数々と、あなたの生々し い人間としての日々を耳にしたはずだ。 けれども、それらのすべてさえもが仮初と思えるほど 今の私はあなたの故郷の心象の中、あなたの心のただ中に立っている。……
 「1825年の夏に、シューベルトはガスタインで一曲の大交響曲を書き上げたが、彼はこの曲 に特別の愛着を持っていた。」シュパウンの語るこの報告の前後には、このような風景が横た わっていたと私は考えている。従ってこの「大ハ長調交響曲」は、ベートーベンからの励ましによ って書き起こされ、モーツァルトへの感謝の印として捧げられたということになる。シュパウンの 言う「特別の愛着」とは、まさにこの故なのであり、シューベルトはこのシンフォニーによってモー ツァルトとベートーベンを結び、その間に自分自身の個性を確立したと信じたが故にこそ、愛着 もまたひとしおだったのである。
 シューベルトがこの曲に注いだ愛着は、死の1828年の3月に催された彼のコンサートの折に も、次のような形で現われている。即ち、彼が長年念願していたコンサートは3月26日、オース トリア音楽協会所属の“赤いハリネズミ”と言われるホールで開かれるのであるが、この時彼は 、このコンサートと相前後する頃に「大ハ長調交響曲」を演奏してくれるようウィーン楽友協会に 打診している。しかし実際には、この曲はあまりに長くかつ難しいからと演奏を断られ、代わりに 十年前作曲した「交響曲第6番ハ長調」D589を提供することになった。
 ここから容易に想起できることは、4年前の1924年、ベートーベンのコンサートを前にしてシ ューベルトが言った次の言葉である。「うまくいけば、わたしもこのようなコンサートを来年にでも 行おうと考えています。」
 そしてこの後、彼はベートーベンの「第九」を聞き、「大ハ長調交響曲」に着手し始めるのであ る。また1825年7月19日付のオッテンヴァルトからシュパウンへの手紙。「彼はグムンデンで 一曲の交響曲を書き上げました。それはこの冬ウィーンで演奏されることになっています。」  おそらくシューベルトは、希望的観測を述べたのであろう。なぜなら、1825年〜1826年に かけての冬、「大ハ長調交響曲」がウィーンで初演されたという記録は見られないから。しかし、 これらの途切れ途切れな意欲の行跡の中から見えてくるのは、シューベルトが描いてていた ある理想的なコンサートの形態である。それは、どんな形で始まり、どんな曲を経過するにせよ 、最後は「第九交響曲」 のような大交響曲 ――即ち「大ハ長調交響曲」で終わるのである。 そして、1828年のコンサートのために、彼が思い描いていた理想的なプログラムは、概ね次 のようなものであったろう。

 1. 弦楽四重奏曲15番ト長調 D877 から第1楽章
 2. 歌曲及び合唱曲多数
 3. 大交響曲ハ長調 D944

 最初に彼は、序曲ではなく弦楽四重奏曲を置いた。ここには、先にも述べたシューベルト晩年 の器楽の尊重、即ち弦楽四重奏曲から大交響曲へと言う流れが現われている。この15番の 弦楽四重奏にも、彼は自信を持っていたのだろう。しかし彼は、これをあくまでコンサートの“序 曲” 的意味にとどめるため、一楽章のみの演奏にとどめた。
 そして中央は、彼の独壇場の歌曲群をたっぷりと聴かせる。
 最後に、彼が最大の自身と愛着を注ぐ大交響曲ハ長調。しかしこの計画は、シンフォニーの 長大さと人件費の超過ゆえに、主催者当局によって当然のごとくに否定された。 (プログラム の1と2は実現されたが) だがシューベルトはこれを断念し切れなかったのだろう。それが、 「コンサートと相前後する頃に大ハ長調交響曲を演奏して欲しい」と言う彼の発言に、痛いほど よく現われている。「ベートーベンのコンサートでは、あの器楽と声楽を融合した長大な荘厳ミサ 三楽章の後に、なお第九交響曲が演奏されているではないか」 そうシューベルトは思ったに違 いない。そのように、この自作演奏会のプログラミングの背景には、ベートーベンのコンサート からの影響が感じられてならない。ちなみに、冒頭の弦楽四重奏曲を奏したのは、シュパンツィ ッヒ弦楽四重奏団の面々であるが、彼らはベートーベンともゆかりの深い四重奏団であった。 (この四重奏団の名の主シュパンツィッヒはベートーベンの「第九」初演時のコンサートマスター である。) この辺りにも、シューベルトのベートーベンへのこだわりは出ているように思われる。

                               結語

 以上によって、我々が推定するのは以下の通りの事柄である。
@シューベルトが「大ハ長調交響曲」の作曲を決意したのは、彼が精神的にも肉体的にも最悪  の状態にあった 時期 であり、それは彼が自己のカタルシスを求めて器楽へ傾斜していった  時期であった。
Aシューベルトは、1824年5月の「第九交響曲」の初演を聞いた。それが5月7日か23日であ  るかは確定でき ない が、とにかく彼は「第九」を聴いた。
Bシューベルトは、「第九交響曲」から多大な感動と影響を受けた。それはほとんど絶望からの    救済と言っても いい 程の衝撃的なものである。
Cシューベルトは、「第九交響曲」によって「大ハ長調交響曲」作曲への言わば始動の力を得た  。それは、 この曲の 第1楽章に折り込まれた“歓喜の主題” 似よっても証明される。
D「大ハ長調交響曲」は、1824年夏から秋にかけて主にゼレチェで構想され、1825年春ウィ  ーンで書き下ろ され、 同年夏からの上部オーストリアへの旅で完成された。
E「大ハ長調交響曲」は、伝説の「グムンデン・ガスタイン交響曲」そのものである。
F「大ハ長調交響曲」は、敬愛するモーツァルトにささげられるべく、一度ガスタインで完成を見  た。けれど実際 には、 そこからも推敲は重ねられ、1828年3月、彼のコンサートを前にし  て最終的に脱稿した。(その手稿扉頁にある 1828年3月の日付は、いつも書き起こしの日  付を記す彼の習慣とは例外的に、 この脱稿の日付を意味する。)
G「大ハ長調交響曲」は、理想的には、1828年の3月の自作演奏会の掉尾を飾るものと考え  られていた。(1825 年3月を、1828年3月に訂正した最大の理由は、それがコンサートの  ために書き下ろされた最新作であることを示 すためのものであると考えられる。)
   (シューベルトのこの意図は実現しなかったが)
Hこの点からも、シューベルトがいかにベートーベンのコンサートから影響を受けていたかが知  れる。即ち、「第九」 のような大交響曲で締めくくられる自作演奏会を、彼は最後まで夢みて  いた。 シューベルトがかくまで手塩にかけ、言わば自らの胸の血潮で養った「大ハ長調交響  曲」を、今我々はシューマンらの努力によって、難なく聴ける恩恵に浴す。その一曲が抱えて  いる余りにも広大な青春と、ベートーベンとの縁を思う時、我々は交響曲の通し番号の問題  などは一切超越して、これこそがシューベルトの「第九交響曲」であったのだと宣言してみたい  衝動に駆られるのである。

                                       1996年7月15日 記




 

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