即興曲集 作品90ー3(D899ー3) 変ト長調」

シューベルトには「即興曲集(Impromptus アンプロンプチュ)」と名付けられたピアノ曲集が二つあり、一つがこの「作品90(D899)」であり、もう一つが「作品142(D935)」である。この曲を含む前者は1827年の夏から秋にかけて作曲されたと推定されており、後者はもともと続編として追加されて、同じ年の12月に完成したが、後にシューベルト自身が別の独立した曲集として分離したことが明らかとなっている。どちらもアインシュタインが「シューベルトがピアノで語った最後のコトバ」、と評している優れた完成品であって、アインシュタインの形容を借りれば、一つ一つがそのまま「小宇宙」を形造っている。「作品90(D899)」の方はその年(1827年)のうちにT・ハスリンガー書店から刊行されているが、「作品142(D935)」の方は、1839年(死後11年)になってはじめて、カッピ&デイアベリ社から「遺作」として出版されるという悲運に遭っている。

この不思議な蠱惑に満ちた第3曲「変ト長調(Ges)」は、冒頭の出だしから最後の1小節前まで、一貫して三連符(トリオール)の連なりからなっている。”スコアメーカー”という音楽に無理解なエンジニアが開発した楽譜作成ソフトでは、この三連音符を読み取る機能がないので、何十小節どころか、時には何百小節も三連符が続くシューベルトの多数にのぼる曲目を再現する苦労は、それこそ筆舌に尽くし難いものがあり、そのたびに「まさに悪魔のトリオールだ」と罵り続けなくてはならなかった。むろんこれは作曲者の罪ではなくて、開発したエンジニアの罪である。テンポは「アンダンテ(歩く速さ)」と指定されているが、機械のテンポで”Andante"を指定すると、全体としてあまりにもゆっくりし過ぎる感じがしてしまう。最近のピアニストはやや速めに演奏する傾向があるようだが、あまり速すぎても今度は逆に、この曲の折角の嫋嫋(ジョウジョウ)たる「たをやめぶり」、というか情緒纏綿たるムードを破壊してしまう怖れがあるだろう。”絶対音楽”というものがない以上、テンポの”絶対的基準”というものもまた存在しないので、演奏者によってもかなりの「バラツキ」は許容されるだろう。曲想の表現としての演奏法に関しては、それこそ個々の演奏者のパーソナリテイーを自由に発揮してもらうのが当然だが、どんな演奏者であろうと、あらかじめ絶対に頭に叩き込んでほしいのは、これは絶対に”ピアノ小品”ではない、ということである。芭蕉の俳句や禅の公案を見れば明らかなように、”短いから軽く扱っていい”、などということは絶対にありえないのだ。これを演奏する人はすべて、そこには一つの「小宇宙」がある、ということを知らなくてはならない。シューベルトが、ピアノという最も身近な楽器の性能と表現力をギリギリまで追究した末に、ついに引き出した究極の表現、これがこのわずか81小節の中に結晶しているのだということ。これを知らないピアニストには弾いてほしくない、とさえ思う。

この曲の拍子は「4/2 アラ・ブレーベ」という特殊なもので、「アラ・ブレーベ(alla breve)」というのは、「四分音符ではなく二分音符に従って数える拍子」ということだから、全体にわたって「(譜面つ”らの)倍の速さで」ということになる。そしてさらに調号(♭が6つ)の隣に¢(2/4拍子の符号)が2個並んでいる。これは作曲者自身による記譜であって、残念ながら”スコアメーカー”では再現することができない。さらに、五線上の同じ位置に四分音符と八分音符とを同時に重ねることもできないから、まるで同一時空の座標軸に二つの物体が位置を占めるようなこの曲の独特な味わいを、電子の音で再現することも不可能なので、未だにこういうことはすべて、生で演奏するピアニストの手腕と力量に期待するしかない。

右手は五本の指が二つに分かれて、流れるような抒情的・官能的なメロデイーと、3等分ないし6等分された分散和音とを同時に奏で、左手は主に低音部の和音を通奏するが、時に応じて右手の分散和音も引き受ける、という形の進行が、無限を思わせるような長期にわたって続いて行く。まるで無期限の時空を流れて行くようなこういう楽想は、すぐにはっきりした”起承転結”を求める性急な聴衆には、粗雑な耳で聞くと何度も同じことを繰り返すように聞こえるから、「くどい音楽だ」という印象を与える場合がままある。だがこれはまったく「耳の不自由な人」の見解である。誰でも注意深く耳を傾けていれば、何度も何度も繰り返されるように思われる音の流れが、実はそのたびに微妙に色あいを変え形を変えて登場し、そのたびごとに「変身」し再生していることが分かるはずだ。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」、という有名な日本人の名セリフがあるが、これこそこの曲の本質を射抜いたコトバだと言ってもいい。

悠久の時の流れに翻弄される、というよりもむしろ、とりとめのない時空の広がりの中へ投げ出されたはかない命が、まさに寿命が尽きようとする蝋燭の炎のように、消えかかってはまた燃え上がって、甘美な夢の余韻を追い求めて瞬くように、消え入る瞬間に闇を照らしつつ天空に輝く星に変容する。この曲全体をコトバで形容するとすれば、およそこんな風になるだろう。むろん聞いた人がどんなイメージを思い浮かべようと、それはその人の自由であるが、ここでどうしても言っておかなくてはならないのは、音楽を音楽以外のものに仮託して表現することを、すぐに”邪道だ”と決めつける「原理主義」の弊害についてである。キリスト教でもイスラムでも、「原理主義者」ほど始末の悪いものはないが、音楽界の原理主義者、つまり”絶対音楽”の信奉者たちほどタチの悪い存在はない。宇宙人の見解としては、音楽を絵画に変えようと文学に変えようと、建築に変えようと踊りに変えようと、彫刻に変えようとドラマに変えようと、そんなことはすべて自由だし、その結果優れた作品が生まれるのなら、むしろ大いに奨励すべきことだ、と思うからだ。また、およそ芸術作品であるかぎり、それには必ず作者の伝えようとするメッセージというか「思い」があるはずなのだから、その「思い」ないしメッセージを、他の人々に分かるコトバで伝えることがなければ、どんなに優れた作品でも、空しく埋もれたまま朽ち果てるほかはないだろう。そういう意味で、どのジャンルだろうと「原理主義者」はすべて追放して、作品を他の分野のすべての人々に開かれたものにしなければ、いつでも即座に滅亡する危険があるのだ。もしも音楽を滅ぼすものがあるとすれば、それは音楽を比較を絶した”絶対のもの”として崇める「原理主義者」たち以外にはない。

 

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