セレナーデ(Staendchen)

(D957ー4)

L・レルシュタープ詩

Y・C・M邦詩

d(ニ短調)、3/4拍子、50小節。

Maessig(ほどよいテンポで)。

 

人気(ひとけ)ない真夜中に、きみを呼ぶ

静かな町角に出ておいで!

ささやく梢に月の光、月の光

人に見られても、気にはするな、気にはするな!

ナイチンゲールの鳴く声も、きみを呼ぶ

やるせないこの恋を歌ってる

鳥も知っている恋の悩み、胸の痛み

銀色の声で胸をゆすり、ハートを刺す

心があるなら聞いてくれ!

震えて待つぼくを、迎えてくれ、迎えてくれ!

やさしく

音楽データ : 

d(ニ短調)、3/4拍子、50小節。

Maessig(ほどよいテンポで)。

5小節目から36小節目までは2連(シュトローフェ)の構造をなす変形有節リード。
邦題ではどちらも「セレナーデ(=本来ラテン系の語で[夜の音楽]の意)」だが、D889の「朝の歌(聞け、ヒバリの声を)」と対をなすこの「セレナーデ」は、文字通り人気ない真夜中に歌われる「夜の恋歌」として代表的な作品である。ヨーロッパの音楽史上では、モーツァルトの「ドン・ジョバンニのセレナーデ」と双璧を成す不朽の名作と称してよい。ドイツ語ではどちらも「Staendchen」で、これを強引にニッポン語に直すと「立ちん坊」となるが、この単語は日本語でも必ずしも「その種の女性」を指すとは限らないから注意が肝要である。ましてやこのヒーローは間違いなく男性であり、胸を突き刺す激しい情熱が込められた「恋に燃える男の悲痛な叫び」なのである。常に集団の営みを前提とする「民謡」と、単独者の胸中を吐露する「純粋な芸術」との決定的な違いを一言で言い表すと、「酒席の座興」として効果を上げる、今ならさしずめ「カラオケ」で歌うとヤンヤの喝采を浴びるか、それともなんとなく「興ざめ」するような、「一途に思いつめた恋を告白する無骨な真剣さ」にあふれているか、ということに尽きると思うが、この曲ほど酒席で満座をシラケさせる効果のある曲はめったにないだろう。634曲あるシューベルトの歌が、どれひとつとして「カラオケ大全集」に収録されない最大の理由が実はここにある。逆に言えばそれこそが、シューベルトの曲の卓越した芸術性を物語る何よりの証拠であり、その不滅性を約束する最大最強の特性だ、と断言してもよい。カラオケばかりではなく、「鼻歌」で軽く歌い流せる曲すらほとんどないのが実相なのだ。
これはけしてシューベルトの意図した「孤高性」などではなくて、多くの場合酒席で歌うことを目的に、軽いノリで作って行くうちに、いつの間にかというより、座を盛り上げようとすればするほど、ますます「不器用で一途な」地金というか本音がむき出しになってしまう、という因果な性分というか宿命に、作者そのものが蜘蛛の巣にひっかかった獲物のように巻き込まれて行くのであり、逆にそのプロセスそれ自体が、曲の不滅性を保障する孤高の芸術精神そのものなのである。この曲を序奏から後奏まで耳を澄ませて吟味すればするほど、ますますこのことを痛感せざるを得ないのが実情である。
とくに「震えて待つぼくを、迎えてくれ」、という最後の絶叫はまさに、叶わぬ恋の果てに世を去った男の狂気が、まるで幽鬼のように真夜中の街頭に姿を現したかのような、おどろおどろしい「もののけぶり」さえたたえている。他のシューベルトの曲と同様、これもまたすさまじい情熱の迸りであって、けっして「人畜無害」な座興のネタにはならない曲であることは間違いない。





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