鳩 の 足 で 来 る 思 想
ー 
シ ュ ー ベ ル ト の 文 化 史 的 考 察 ー 
      v・Y・C・M
 
     第 三 千 年 紀(ミレニアムへ の ナ ビ ゲ ー シ ョ ン
 ー ー 2 1 世 紀 地 球 の ル ネ ッ サ ン ス か ら の 視 点 ー ー
  

「鳩の足で来る思想が世界を震撼させる」。これは百年前に20世紀の世界を見据えて発したF.ニーチェ(1844〜1900)の言葉だが、このニーチェの思想形成にあたってはかり知れない影響を与えた思想家の一人として、かれの師匠であり同僚であったバーゼルの巨星・文化史学者ヤーコブ・ブルックハルト(1818〜1897)の名を欠かすことはできない。このまことにおだやかな人柄の老学者は、彗星のようにヨーロッパの思想界にあらわれて、世紀の代わり目に狂気の闇に消えたこの二十五才も年下の革命思想家とは異なり、その生涯も仕事の内容も、作品の文体もその人柄と同様、けして劇的でなく、エキセントリックでもヒステリックでもなかった。スイスの小都市バーゼルの大学の美術史学および歴史学の教授、という敷かれた軌道を生涯の大部分にわたってけして外れることはなく、当時のヨーロッパを席巻した政治思想や革命運動の潮流にもまったく押し流されることなく、再晩年にはその名声がヨーロッパ中にとどろいていたにもかかわらず、定年退官後は超然として町中のパン屋の二階の質素な部屋に隠栖して静かな生涯を終えたこの人物、この老人の残した遺産こそがまさに、ニーチェのいう「鳩の足で世界を震撼させる思想」にほかならない。
 私自身がはじめてこの人物の著作に触れたのは、1960年代の初頭、留学先のドイツであったが、標題は「世界史的考察(Weltgeschichtliche Betrachtungen)」である。これはバーゼルの市民のための「歴史学講義」という講座で語られた内容が、死後七年経った1905年にようやく、甥の手で一冊の書籍として公刊されたものである。
 「(ヘーゲルのいう)歴史哲学というものは一種のケンタウロス(=半人半馬の怪獣)であり、一つの形容矛盾(=丸い四角)である。なぜなら、歴史はすべてを並列的にとらえるものだから非哲学であり、哲学はすべてを序列的にとらえるもので、非歴史である。これまでの歴史哲学についていうと、それはいつも歴史の後を追いかけて縦断面を示すというやり方、つまり年代記的なとらえ方をして来た。こうして歴史哲学は世界史の普遍的なプログラムに迫ろうとし、しかもたいていはこの上なく楽観的な意味でそうして来たのである。ヘーゲルがその歴史哲学でやって来たことも、このようなものだった。かれはいう。哲学がつねに肌身離さずもっているただ一つの思想は、単純な理性の思想、つまり理性が世界を支配し、世界史においてもすべては理性的に行われる、という思想であり、さらには世界史が世界精神の理性的で必然的な進行であったということこそ、世 界史が示す結果でなければならない、と。このような世界計画を大胆に予想することは、人に多くの誤りを犯させる。なぜならそれは誤った前提にもとづいているからである 。われわれはすべての体系的なものを断念する。“世界史的イデー”に対しても何の要求もしない。むしろわれわれが知覚するもので満足し、歴史の横断面を、しかもできるだけ多くの方向で与えることで満足しなければならない。われわれが出発点とするのは 、唯一つ可能な中心、つまり、苦悩し努力し行動する人間、そのあるがままの、いつもあったし、またあるであろう人間以外にはない」。
 19世紀の中葉から後半、ニーチェのことばでいう「ヘーゲルという麦が青々と茂っていた時代」に、この言葉がどれほど新鮮でまた生き生きと響いたか、それは想像をはるかに超えている。みずから「ヘーゲルの弟子」をもって任じた革命思想家マルクス(1818〜1883)からレーニン、スターリンへと連なる系列と、ニーチェ、キルケゴールからヤスパース、ハイデッガー、サルトルへと連なる“実存主義”の系列とが妍を競っていたあの時代、ちょうどニーチェがこのことばを聞いてから百年経ったあの時代にもまた、この言葉は“酔い醒めの水千両”の役割を果たしてくれたのだった。そして今年1997年、難攻不落を誇った「ベルリンの壁」は崩壊し、七十年の栄華を誇った「ソビエト連邦」と「東欧のスターリン体制」もまた解体し、「バブル」が崩壊した上オウムと大震災の洗礼を受けた「ひよわな花ニッポン」の世紀末に、この厚みと重みのあることばがどれほどの射程をもつものとして響くか、それが私の賭けであり密かな期待でもあるのだ。そしてさらに、このたびはただの世紀末ではなくて「千年紀(ミレニアム)」の終末、いわば「一つの文明の終末」と言ってもいいこの時代、星座で言えば「魚座」から「水瓶座」へと移行するこの「千年紀の境目」に、来る21世紀に「この惑星のルネッンス」が実現するとするなら、そのための確固不動の視点を与え、さらに進んで「次の千年紀(ミレニアム)}のためのナビゲーションの役割をも果たす、この思想こそが 掘り起こされなくてはならない。
 

「われわれがギリシャ文化史を、アカデミックな講座の対象にしようとするに当たって、あらかじめ断っておかなくてはならないのは、この講座は一つの試みであり、そしていつまでもそれにとどまるだろう、ということであり、さらに、講師はつねに学ぶ人であり、聴衆の学友であって、それは最後まで変わらないだろう、ということである。同時にまた、あらかじめ注意を促しておかなくてはならないことは、講師は文献学の専門家ではないので、もしもそこここで間違いを犯していたら、それは大目に見て頂きたい、ということである」。
 「この講座のテーマをどうしてギリシャの歴史としないのか、それも本質的には政治の歴史とはしないのか、そうすれば一般的な人々の生活状態や特定の勢力グループの盛衰とかは、単なる余論や附説の中で取り扱うことが出来たはずなのに、という疑問に対しては、ギリシャの歴史については、漸次的を射た著述が揃って来ているということを別としても、歴史上の出来ごとをこまごまと述べたり、おまけにそれを批判的に検証するなどということは、個々の外面的な事実が正しいかどうかを、たった一つ調査するだけでも、八つ折り(オクターブ)版の書物が一冊になってしまうようなこのご時世に、われわれの貴重な時間をはじめから奪ってしまうことになりかねない、と言っておきたい。また、“出来ごと”についてならば、それは先ず第一に書物から学び取ることができるものである。それに反してわれわれが目指しているのは、その出来ごとに対するもろもろの視点を与えることなのである。従って、わずか60時間かそこらで、古代ギリシャについてほんとうに知る価値のあることを、しかも文献学の専門家でない人々に対しても、伝えるべきだとするならば、どうしても文化史的な方法によるほかはないのである」。
 これは、ちょうど今から百年前にこの世を去った「バーゼルの巨星」と仰がれる碩学、文化史学者・ヤーコブ・ブルックハルト(1818〜1897)の大著「ギリシャ文化史」(1902年刊行)の序論からの抜粋であるが、ここの「文献学」というところを「音楽学」に、「ギリシャの歴史」を「音楽の歴史」に、また「古代ギリシャ」を「シューベルトの音楽」とすれば、私がこれから論じて行きたいことの趣旨がある程度お分かり頂けるのではないか、と思う。周知のように、私は音楽学の専門家でもないし、演奏家でもないし、音楽大学の禄を喰んだこともない人間である。“シューベルトの音楽の楽典的分析”ということは私の任ではないし、また“模範演奏をして聞かせる”ことなども論外である。それらはそれぞれその道の専門家に任せることとして、ここで私が目指そうとしているのは、「シューベルトの音楽」という「出来ごと」に対して、ブルックハルトのいう「もろもろの視点を与える」こと以外にはない。いいかえれば様々な視点からする 「シューベルトの音楽の文化史的考察」なのである。ブルックハルトはさらにこう続けている。
 「われわれの理解するところでは、われわれの課題とは、ギリシャ人のものの考え方や見方の歴史を提示することであり、ギリシャ人の生活の中に働いていた、建設的にせよ破壊的にせよ、生きた力を認識しようと努めることである。物語としてではなく、歴史として、しかも先ず第一に、かれらの歴史が世界史(宇宙史)の一部を構成しているかぎりにおいて、われわれはギリシャ人の本質的な独自性を考察しなければならない。つまり、かれらが古代オリエントの民族やかれら以後の諸民族とは異なる特性をそなえており、しかもどちらの方向へ向かっても一つの巨大な流動性を形成していた、という独自性である。これを目指して、このギリシャ精神の歴史を目指して、この研究の全体が態勢を整えて行かなければならないのだ。個々の事象、とくにいわゆる出来ごとというものは、ここではただ一般的なものについての証人尋問の中でのみ、つまりそれ自身のためではなく、言及されるに過ぎない。なぜなら、われわれの求める意味での事実性とは、ものの考え方であって、これ自身もまた事実であることに変わりはないからである。しかし、資料というものは、われわれがこういう観点から眺めるかぎり、骨董的な知識の素材を詮索するに過ぎない場合とは、まったく違うことばを語ることになるだろう」。
 ここでもまた、「ギリシャ人」を「シューベルト」に、「物の考え方や見方」を「かれの音楽の論理と描写」と、「古代オリエントの民族やかれら以後の諸民族」を「バロックや古典派時代の音楽とかれ以後のさまざまな音楽」というふうに入れ替えれば、私の主張したいことが分かってもらえるのではないか、と思うのだ。私が目指すものもまた、シューベルトの音楽の中に働いていた「建設的にせよ、破壊的にせよ、生きた力を認識しようと努めること」であり、しかも「物語としてではなく、歴史として」、「かれの音楽の本質的な独自性を考察」することなのである。この意味で、「個々の事象」、 つまり一つ一つの曲目やその演奏については、「それ自身のためではなく言及」されることになるだろうし、「資料」、つまりかれの残した楽譜は、単に「骨董的な知識の素材を詮索」する場合とは、「まったく違うことばを語る」ことになるはずだ。私が追究したいのは、かれの音楽のもつ文化史的な意味であり、それも「死んだ過去の遺産」ではなくて、この現代のわれわれの生活と深く関わっている「生きた現実」としての意味である。
 もちろん、「ギリシャ文化」というような、時間的にも空間的にも巨大な広がりをもつ対象と、「シューベルト」という一個人とを同列に並べて論ずるのはおかしい、と非難する向きもあるかも知れない。しかし、ブルックハルトにとって「ギリシャ人」が、けして「死んだ過去の存在」ではなくて、ことばの完全な意味で一つの「生きた模範」であったのと同じ意味で、私にとってシューベルトとその音楽はまさに「生きた存在」であり、それは私個人の愛着の対象であることを超えて、もっとはるかに巨大な射程と広がりとを、この20世紀末という「千年紀の終り」、「一つの文明の終末」を意味する時代の人間と文化に対してもっている、と確信することのできる存在なのである。だからこそ、ブルックハルトの原文で「Universalgeschichte 」となっている語は、普通「世界史」と訳せばすむところを、あえて「(宇宙史)」と括弧つきで訳したのである。宇宙の歴史から見るときにはじめて、「ギリシャ文化」と「シューベルトの音楽」は、対等の重みをもつものとして立ち現われるのだからである。
 ましてや、シューベルトの全声楽(ボーカル)作品のうちで、ギリシャ神話を題材とするものが、およそ五分の一を占めているという事実は、一般的なかれについてのイメージというか通念がいかに偏っているかを、如実に物語る証拠といってもよいくらいである。“ロマンチックな古典派”だとか“古典派からロマン派への過渡期を代表する音楽家”だとかいうレッテルを離れて、純粋な目でかれの作品群を見渡してみれば、かれの「無限の憧れ」の延長線上に一際明るく輝くものが、ヨーロッパの近代そのものを飛び越えて、ブルックハルトがその透徹した目で再発見して、いみじくも「再生(ルネッサンス)」と命名した「古典古代」にあったことは、もはや疑う余地はないのである。
 このブルックハルトを敬愛し、かれの衣鉢を継いでその手法を音楽に適用した20世紀前半の音楽学者アルフレート・アインシュタインの「シューベルトーー音楽的肖像」の中には、次のようなしめくくりのことばがある。
 「シューベルトは、かれの生誕後二十年間のうちに生まれたすべてのほかの音楽家たちのような、典型的なロマン派ではなくて、年上のウェーバーよりもロマン派からは遠い位置に立っている。かれには分裂がない。かれはなおも、生命の欠けるところのない官能性と充実とをことばに変える素朴さと勇気をそなえている。かれは、まだまったくハイドン、モーツァルト、ベートーベンという偉大な系列の中に、偉大な陣営に属している。かれは、グリルパルツァーがドイツ・ロマン主義に対する非難の種にした、文学ばかりでなくロマン派(以後)の音楽に対してもあてはまるあの『力のない緊張過剰』には悩まされていない。かれは後継者を一人も見出だすことはできなかった。後世のかれに対する感情は、純粋なもの、恣意的でないもの、失われた天真爛漫の楽園へ向かう限りない憧れである」。                     

シューベルトの音楽全体に対するこの総括の言葉は、まさに「再生(ルネッサンス)」から、さらにキリスト紀元を飛び越えた先に燦然と輝く「古典古代」に対して、ブルックハルトの与えている評価と瓜二つではないか。「失われた楽園」、これこそシューベルトとギリシャ文化とをつなぐキーワードにほかならない。
  

・「竪琴に寄せて」。

 さらに続けてブルックハルトは言う。
「文化史的考察の目指すのは、過去の人類の内面であり、かれらがどのように存在し、意欲し、考え、観察し、そして成し遂げたか、ということを告知することである。こうして永続的なものに到達することによって、最終的にその永続的なものが、一時的なものより偉大であることが明らかとなり、ひとつの特性がある行動よりも、偉大であり示唆するところが大きい、ということが明らかとなる。なぜなら、行動というものは、人間の内的な能力の個別的な表現にすぎないものであって、この能力があれば、人間はつねに新たに行動を生み出すことができるからである。しようと思っていたことや準備していたことは、それゆえ実際に実現したことと同様に重要であり、観察することは、何らかの行動と同じく重要なのである。特定の時期が到来すれば、観察した結果は、そのような行動となって現れるからである。『まず最初に人間の核心を調べ上げれば、かれの意思と行為を知ることができる』のだ」。
 「結果がうまく行けば、途中のプロセスはどうでもよい」。「最後に笑う者が勝ち」。「終りがよければすべてよし」。「勝てば官軍」。「見るまえに跳べ」。「行動として現われないものはないのと同じ」。「百のリクツより決断と実行」、さらには「ウソでも百回吐けばホントになる」etc,etcーー現代ではほぼ社会のすべての分野で、 完全な「常識」となっているこうした考え方に、ブルックハルトは正面から異を唱える。これがいかに新鮮に響くかは、この「常識」に逆らいながら、この「終末の時代」を生身で生き抜いて来た人間でなければ、とうてい理解することは出来ないだろう。「勝 った者、成功した者がつねに正しい」。この何の根拠もない「似而非常識」は、現在の 地球で“先進国”と呼ばれているほぼ全域を支配している思想であるが、考えて見れば それほど古くから「常識」だったわけではない。ブルックハルトが別の著作である「世界史的考察」の中で、静かにしかし力強く批判している19世紀の思想界の大立者・G・ W・F・ヘーゲルの哲学こそが、これを「常識」に祭り上げてしまった元凶である、といえる。かれは言う。「現実に存在するものは理性に適っており、また理性に適ったものは現実に存在する」。だから「現実に成功を納め、支配している力が正義である」、ということになる。これが続く20世紀の全体主義的独裁権力にとって、どれほど都合のよい思想であったか、それは70年以上の永きにわたってヨーロッパの半分以上、さらには地球の三分の一を支配して来た権力を見れば、誰の目にも明らかである。ヘーゲルの論理の体系を「弁証法的唯物論」という形で継承して、一つの巨大な全体主義的な権力システムの指導原理としたマルクスの思想は、今日ではもはや「破産を宣告された」とみなされているが、あの七十年の栄華を誇った権力機構が解体したからといって、その「結果」だけを根拠に、生き残ったもう一方、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(M・ウェーバー)」が高らかに勝利の宣言を祝うのは、まったく見当はずれもはなはだしい、といわざるを得ない。これはどちらも「勝てば官軍」という似而非常識に支配された、結果だけを絶対視する思想であって、その点では何の変わりもないからである。一言でいえば、「目クソ鼻クソを笑う」一例に過ぎないのだ。
 政治を離れて芸術作品の創造というものに話を移して見ても、「成功」と「永続的な価値」とが同一である、という「信仰」こそまさに、芸術の価値そのものを否定することにつながる「危険思想」であろう。具体的にシューベルトに例をとって見よう。かれのオペラは完成したものだけでも10曲あり、未完成のものを含めると18曲に達するが、生前はもちろん、死後百数十年経ってもほとんどが埋もれたままになっている。それはほんとうに価値が「低い」からなのか?また、かれのもっとも有名なロ短調のシンフォニーは「未完成交響曲」と呼ばれている。その理由は、ふつうシンフォニーは四楽章から成っているのに、これは二楽章までしかないからだ。では四楽章あるシンフォニーの半分しか価値がないのか?もっと極端に言えば、シューベルトは31歳で死んだが、モーツァルトは35歳、ベートーベンは50歳、バッハ、ハイドンは70歳まで生きた。31歳で死んだシューベルトの音楽はベートーベンの三分の二、バッハやハイドンの半分以下の価値しかないのか?ーーブルックハルトは言う。「しようと思っていたことや準備していたことは、実際に実現したこととまったく同様に重要だ」。だから、「未完成交響曲」は完成した偉大なシンフォニー「ザ・グレイト」と同じくらい重要な作品なのであり、不成功に終ったシューベルトのオペラは、大成功を納めたロッシーニのオペラとまったく同等の重要性をもっているのだ。これが分からない人は、ヘーゲルの思想に毒された「ただの教養人か、それともまったくの野蛮人」(アインシュタイン)だけであろう。 この世紀末のニッポンで、最も成功した“実業家”の一人である「ファーストフードのパイオニア」、「ニッポン・マクドナルドの社長」は、「ニッポン人は働き者だといわれているが、たいていはただ“動いて”いるだけだ。“働く”という字にはちゃんとニンベンがついている」、という注目すべき発言をしている。“忙しい”ことが美徳とされ、“暇”なことが忌むべきこととされて来たし、まだ当分され続けるだろうこの列島で、いわゆる“バブル”の最盛期になされたこの発言は重要である。忙しく「働くフリをしている」大多数よりも、「ヒマを持て余している」ように見える少数の方が、むしろはるかに大きな働きをして来たのだ、という真理は、古代のギリシャ人、ルネッサンスの巨人たち、さらに19世紀になっても「閑暇」の大切さを強調したブルックハルトやニーチェのような「精神の貴族」にとって、まったく共通の「常識」であった。これと正反対なのが、ベンジャミン・フランクリンが唱えた「時はカネなり」という思想である。どちらを追いかけたとしても、結局のところは「カネがある時はヒマがないし、ヒマがある時はカネがない」、という悪しき循環から逃れることはけして出来ないのだ。さらには「現実と幻想」という永遠の対立に関しても、これとまったく同じことが言える。「現実に存在するものは理性に適って」いて、「理性に適っているものは現実に存在する」のなら、理性に適っていないのに現実に存在する暴力や流血や権謀術数、あらゆる突然の不幸や災害の犠牲者たちは、「理性に適っていない」から滅びて当然なのだろうか?人も動物も生まれる時と所を「理性によって選択」することは出来ない。否、(震災やオウムの犠牲者を見れば明らかなように)、その「死ぬ場所や時間」すら選ぶ自由はないのだ。だから、不幸に陥る者がすべて「運が悪い」のではなくて、「自業自得だ」として片付けられるなら、生まれて来たことがすでに大きな誤りであったと諦めるほかはない。だから、ヘーゲルやその弟子を自認するマルクスに逆らって、「現実に存在するものはけして理性に適ってはいないし、理性に適ったものは現実に存在するとは限らない」、と今こそ声高に宣言しなければならないのだ。ここでちょっとヨーロッパを離れて、古代の東洋に目を向けてみよう。
 「屈平の詩賦は日月に懸かり、楚王の台謝は空しく山丘」という李太白の詩がある。「屈原(中国古代の詩人 BC3 4 3〜2 9 0)の遺した詩や歌は、太陽や月に匹敵するほど高く輝いているが、かれを楚の都から追放して野垂れ死にさせた王さまの墓は、時代の変化とともに散々荒れ果てて、今では空しい山と丘に変わってしまった」。これは芸術家と政治家という二つの典型のそれぞれの宿命というものを端的に言い表わしているばかりでなく、「現実の成功者と現実の失敗者で永続的な価値を実現する者」、「現実の勝者と現実には負け犬でありながら死後に永遠性を獲得する者」、「この世の支配者と異次元ないし別世界の住人」、こうしたそれぞれ次元を異にする存在の運命の対照というものを、余すところなく表現した名詩である。さらにもっと言えば、仏教の経典としてあまりにも有名な「般若心経(プラジニャーパーラミターフリダヤスートラ)」の中の「色即是空、空即是色(ルーパムシューニャター、シューニャターイバルーパム)」」という一節を、「現実は幻想であり、幻想こそが現実だ」と訳してみると、これまで千年近くにわたってこの地球上に覇を唱えて来た「近代ヨーロッパ文明」全体に対する、歴史上もっとも短くて強力な反論になっていることが明らかとなる。ヘーゲルやマルクスのいう「現実」とは、一つの「幻想」に過ぎないものであり、逆にかれらが「幻想」ないし「空想」として軽蔑し廃棄して来たものこそ、この地球上の今の現実をやがて打ち砕いて勝ち誇る、未来の「真の力」なのである。               

ここで再びシューベルトに戻ろう。                         

・「ピアノとバイオリンのための幻想曲」(D934)。
 
 ニーチェはその処女作「悲劇の誕生」で、芸術の創造を司る二つの原理というかパワーとして、「ディオニュソス的なもの」と「アポロ的なもの」という二つを挙げている。 どちらも芸術を支配する神の名であるが、前者の典型的な表われを「陶酔」、後者の顕現を「夢」と規定している。これを「易」の二つの原理としての「陰」と「陽」に比定して見ると、「太陽の神・アポロン」は当然「陽」であり、「酒と陶酔の神・ディオニュソス」はむろん「陰」の原理を代表している。これを「昼の顔」と「夜の顔」と言い換えて見てもいい。この二つの根源的なパワーの相闘相克が芸術、それもとくに悲劇を生み出すもととなっている、という。われらがシューベルトの音楽は、果たしてどちらの神に愛されるか、という問いを立てれば、立ち所に「それはむろんディオニュソスだ」、という答えが返って来るだろう。では、音楽史上もっとも「アポロ的な大物」は誰か、と尋ねたら、これはかなり意見が分かれるだろう。ベートーベンと答える人は少数だろうが、モーツァルトとする人はかなりな多数を占めるはずだ。ではハイドンはどうか。私の答えはどうしてもハイドンである。あの翳りのない明るさこそ、まさに「太陽の神」にふさわしい音楽である。おまけに「時計」のように正確なリズムは、まさに「法と秩序の神」でもあるアポロンにこそふさわしい。苦闘するベートーベンはむろん「プロメテウス」だし、モーツァルトは、奇しくも最後のシンフォニーの渾名となった「ジュピター」にふさわしく、顔かたちこそ似ても似つかないが、やはり「神々の王ゼウス」である。ギリシャ彫刻に見られる「ゼウス像」は、むしろ現代のモンスターである「オウムの教祖」を彷彿とさせる面構えをしているけれども、しかしこのゼウスでさえ、ショーコーとはちがって、あるいはユダヤ教その他の唯一神とはちがって、「自分以外の何者も神と認めるな」とは言っていない。どんな熱狂的なモーツァルトファンでも、「モーツァルト以外の音楽は音楽ではない」、とまでは言うまい。これをラテン語ではprimus inter pares(対等の仲間の第一人者)という。宗教の観点からいえば、これこそギリシャ人のユダヤ人に対する優越性を物語る唯一無二の特性である。何から何まですべてを支配しようとするのは「強者」ではなく、むしろ「弱者」の特性だからである。
 再びブルックハルトに戻ると、かれは結論としてこう述べる。
「われわれの結論としてはこうなる。われわれの目的はけして啓蒙ではなく、熱に浮かされた美化ということは、いかなる場所でも絶対に許すべきではない、と考えている。『ヘラス人たちは、たいていの人たちが想像しているよりも、ずっと不幸な人々であった』(ベック)」。しかし、オリエント(東洋)とオクシデント(西洋)のはざまに立つギリシャ精神の、巨大な世界史的な位置付けというものは、明確にされなければならない。かれらが行動し苦悩したことは、それはかれらが自由な意思で行動し苦悩したことであって、それがかれら以前のあらゆる民族と異なる点なのである。
かれらは独自のやり方で、進んで意識的に歴史に登場したのであって、その点他のすべての民族が、多かれ少なかれ重苦しい必然に支配されていたのと好対照をなしている。だからこそかれらは、その使命にともなうあらゆる失敗や苦しみを乗り越えて、つねに創造し新しい可能性を切り拓く力をそなえていた点で、本質的に地球上でもっとも天才的な民族として称えられる価値があるのだ。ーーだからわれわれは、永久にギリシャ人たちのつねに創造する力と新しい可能性を切り拓く力との賛美者であり、世界の認識に関してかれらに負い目を負う存在であり続けるだろう」。
 

ここでもまた試みに、この文章をシューベルトの音楽に重ね合わせてみれば、私の主張を裏づける貴重な証言となることが明らかになる。かれ以前のあらゆる音楽家が、いわば「世襲的な職業」として作曲(と演奏)の活動に従事するか、さもなければ王侯貴族や富裕な商人などの大スポンサーに「抱えられる」形で、はじめて創作の道を追求することができたのに対して、「小市民」の出身でそのような道を初めから閉ざされていたシューベルトは、己の創造を何の狙いもなしに行ない、演奏会場の大衆のためではなく 、孤独に実存する単独者のために、その至高の天分を惜しげもなく浪費し尽くして散った最初の音楽家である。だからまさにかれは、「独自のやり方で、進んで意識的に(音楽の)歴史に登場した」最初の偉大な音楽家であり、その宿命にともなう「あらゆる失敗や苦しみを乗り越えて、つねに創造し新しい可能性を切り拓く力をそなえていた」、地球上でもっとも天才的な芸術家の一人、と称えられる充分な理由があるのだ。しかも 「楽譜の売り込みに成功しなかったことは滅多になかったベートーベン」(アインシュ タイン)とはちがって、シューベルトは、酒代やゲーム代をチャラにしてもらうために、さらには五線紙を買うために作曲を続けることがあったといわれるくらい、経済も生活設計もまったく無視して生きた「自由人」であった。当時も現在もいわゆる「健全な市民」から見れば、まさに「甲斐性のないボヘミアン」に過ぎなかった点で、他の分野、たとえば絵画のV・ヴァン・ゴッホと軌を一にしている。その生前に実際に売れた作品はたった一枚だけだったというゴッホの絵は、今世紀末のオークションでは数百億円で取り引きされ、セリ落としたバブル期のニッポンのある虚業家は、“オレが死んだら一緒に棺桶に入れて燃やしてくれ”、と嘯いたという。まもなくこの不遜な男は贈賄の罪か何かで捕まって、惨めな最後を遂げたそうだが、このような“死んだ犬”の死体と一緒に焼かれてしまったシューベルトの作品も数多く存在する。ゲーテの原作による音楽ドラマ「ヴィラ・ベラのクラウディーネ」の一部は、友人の家のメイドが焚き付けにしてしまったので、もはやカケラも残っていないのである。「死んだ犬」のことはさておき、「誰のことも考慮する必要がなく、自分の幻想のなかで自分自身も世間も忘れてしまうような演奏家のために」(アインシュタイン)作品を創造し続けたシューベルト、かれこそ言葉のほんとうの意味で「自由な創造者」として歴史に登場した最初の音楽家である、と断言していいだろう。
 さらに言うと、ブルックハルトの著作の魅力というかパワーの源は、結論や論証の明確さよりもむしろ、その論述の進め方そのものに“内在”している、ということが明らかなのだが、これもまたかれの「生きた模範」としてのギリシャ人から受け継いだ特性と云ってもよいもので、われらがシューベルトの音楽に内在する魅力とパワーの秘密もまたここにあるのだ。ブルックハルトは同じ序論の中でこう語っている。

「(ギリシャ文化史という巨大な対象の探求を)どこから始めたらよいのか、という質問には、こう答えたい。いつでも、またどこからでも、と」。アリストテレス以来、体系的な哲学者たちは、“カテゴリー(範疇)表”というものを立てて、その序列にしたがって系列化し、きちんと整理した結果を発表する、という行き方を模範として来た。その最後のチャンピオンがヘーゲルであった。ブルックハルトの「ギリシャ文化史」の語り口は、この点がまったく異質であって、年代記的に時代区分に従ってものごとを系列化し、順序立てて述べるかわりに、興味をひかれるまま無造作に手をつけて行き、その結果新しいテーマや登場人物が次々と現われて、それがまるで一つの力強い流れに乗って運ばれるように、リズミカルに舞いながら進んで行く、という行き方をとるのである。同時代の古典文献学者が何人も、「この著作は、学問的な精密さを欠くアマチュアの仕事だ」、と酷評したそうだが、まったく同じことは、シューベルトの作品、とくにその器楽作品について、同時代はもとより、ごく最近に至るまで何人もの“評論家”によって言われている。「ベートーベンに比べると構成が弱い」、「論理的・論証的な発展に乏しい」、 さらには「ベートーベンを建築家とすれば、シューベルトは夢遊病者だ」、という寝ぼけたあるいは狂った発言まであるくらいだ。しかし逆に言えば、このような進め方だからこそ、一つの文明の行き詰まりに対して、単に「警鐘を鳴らす」ばかりでなく、それを「打開」して新しい創造の道を切り開く「生きた力」になることが可能になるのであ る。私はその力の根源を「シューベルトのエンハーモニーという秘密兵器」、と名付けた。「エンハーモニー」とは、音楽用語では通例「異名同音的転換」と訳されるが、同一の音が別のコンテクスト(脈絡)の中で、一つの全く新しい意味付けと役割とを獲得することをあらわすものである。したがって、ある音階の中の一つの音が、一旦違う音階ないしコンテクストへ移されると、一種の「ワープ効果」によって、それはまったくちがう輝きを発揮して、まったく新しい意味付けと新しい創造の役割とを担うことができるのである。しかも、このような「新しい始まり」は、「いつでも、またどこからでも」着手することができるのだ。ニーチェの言葉を借りれば、かれの音楽の「中心はいたるところにある」のである。さらにもう一歩を進めていうなら、全体が一つの円環構造をなしていて、つねに回帰する性格、つまりすべてが「永遠に回帰する」特性をそなえている、とさえ形容することができるのである。アインシュタインはいう。「かれの咲き誇る楽想の連続は、それがただ現実に存在するだけで、ただ純粋に存在するだけであまりにも美しいので、われわれはそれがどこへ連れて行くかを問題にしない」。いわば「永遠の今」、これがシューベルトの音楽である。この独特の「音楽的構造」を理解しない限り、かれの真の独自性を正当に評価することはまったく不可能なのである。  

・「即興曲集Op.142−2」(D935ー2)。

かれの作品が初めて上演された時以来、今の今に至るまで、シューベルトの音楽に対して、きわめてたびたび浴びせられて来た非難は、主に次のようなものである。
 「あまりにも恣意的な転調が多すぎる」、「複数の主題の劇的な対決がない」、「展開部が欠けている」、「集中不足で無計画」、「形式の美をよく理解していない」、「かれの作品はその私生活同様しまりがない」、「感動が持続しない」、「ドラマチックな要素に乏しい」、「未完成のまま放置されている」etc,etc,etc・・・。
まるで「目の不自由な人」が象をなでまわして、勝手な批評を並べ立てているような、「誤解の運動場」というか「ナンセンスのオンパレード」であるが、逆に言えば、このような誤解ないしナンセンスな非難を生むところに、かれの音楽の優れた独自性、そのもっとも強力な力の源泉が存在しているのである。                 

たった一つの音が、新しい意味付けを獲得して、新しい創造の力の源泉になる、という実例を、古代の東洋のある僧侶の体験に求めてみよう。かれは「悟り」を求めて禅寺で修行を重ねていたが、生まれつきの聡明怜利が災いして、どうしても究極の真理というか悟りの実体験を得ることができなかった。どんなに努力してもムリだと思ったかれは ついに絶望して、「これからはもう悟りなどはあきらめて、静かに粥だけをすすりながら生きて行こう」、と決心し、一人でこっそりとある草庵に隠栖することにした。何年かして、ある日庭を掃いていると、垣根に小石が当たってカチンと音を立てた。この音を聞いた途端に、かれの耳は三日三晩のあいだまるで何も聞こえなくなってしまったが、 ただひたすら感激してこう叫び続けた、という。「あの音の一撃で、これまでの学問 知識などはすっかりどこかへ消えてしまった」。これが、わがシューベルトの「エンハーモニーの技法」の持つ、一つの音の新しい意味付け、新しい創造の力への転換の一例である。                                    

これらの技法を縦横無尽に駆使することによって、いわゆるソナタ形式の「論理的・論証的な発展」を故意に断念して(中断するか解消させて)、ただひたすら「流動する音響の充実と官能性の充溢」とを放射するかれの音楽が、ついには古典派によって確立された強力な「調性の体系」」を崩壊させる力となったのである。もしもベートーベンが、19世紀から20世紀を通じて咲き誇ったヘーゲルの体系を象徴する音楽家であるとするなら、ブルックハルトはまさに、調性の体系を崩壊させて、新しい音の世界を未来へ向かって切り開いて行く役割を果たした、このシューベルトの音楽を象徴する思想家なのである。「鳩の足で来る思想が世界を震撼させる」、とニーチェは言った。これがブルックハルトの思想を指すとすれば、シューベルトの音楽こそまさに、「鳩の足で世界を 震撼させる音楽」と称するにふさわしい、一つの巨大な力であることが、やがて誰の目にも明らかとなるであろう。  

・「命のメロディ」。

 80歳間際でこの世を去る寸前まで、パン屋の二階にわび住まいをしていたブルックハルトは、書き物机の上にギリシャの偉大な詩人ホメロスの作品を広げて読み耽っていた、という。われわれマニアもまた最後まで、かれの書物を紐解きながら、シューベルトの音楽を聞き続け奏で続けて行きたい、と思う。

終りに、この列島の古代を代表する偉大な詩人・柿本人麿の、永劫に回帰する自然を詠んだ歌を一首披露して、この稿を閉じたい。

「雖見飽奴、吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟(見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む)」。  

・「水の上で歌う」。                         

鳩の足で永劫に回帰する音楽、それがシューベルトの音楽である。

・「即興曲集Op.142−2」を再び通奏しつつ終わる。
    

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