シ ュ ー ベ ル ト の 死 と 再 生
ー シ ュ ー ベ ル ト の 文 化 史 的 考 察 3 ー 
            Y・C・M・サネヨシ

 「偉大な音楽家は、また偉大な人間でもなくてはならない。そういう音楽家はすべて、人間としても音楽家としても、死の問題と対決したのである。死という問題は、かれらの本質に属するテーマの一つであり、それによってわれわれはかれらの真実に迫ることがはじめて可能になるのである。ゲオルク・フィリップ・テレマンが死についてどう考えたかは、われわれにとってはまったくどうでもよいことである。しかし、かれの同時代人であり、かれほど多産ではなく、かれほど成功を収めなかったヨハン・セバスチャン・バッハにとって、生と死と彼岸が思索と形成の中心になっていたということは重大な意味をもっている。われわれはいうことができる、いかなる音楽家もバッハ以上に死のことを考えなかったし、かれ以上に死を恐れなかった、と。また、いかなる音楽家もかれ以上に、キリストの受難と死に象徴されるあの責め苦に満ちた死に思いをひそめなかった、と。かれはただ、苦い死が彼岸の保証であり、永遠のやすらぎの保証であるからこそ、ーーつまり死が熱烈に憧れ求める天国への扉を開くものであるからこそ、苦しみに耐えることができたのである。バッハは死を恐れているにもかかわらず、すすんで死を呼ぶ。そしてかれの恐れと憧れの間には、ただ岩のように力強く確固たる信仰があるばかりである」。               
例によってアルフレート・アインシュタインの名言からハナシを始めるが、ここの「ゲオルク・フィリップ・テレマン」という所に、現代の日本人だったら果たして何という固有名詞を入れるべきか、についてはいささか迷う所である。しかしいずれにせよ確実に言えることは、ここでアインシュタインがバッハという名前で象徴しようとしている「偉大な音楽家であると同時に偉大な人間でもある」存在は、古今東西を通じて極少数どころか限りなく0に近い数にしかならないのに対して、「テレマン」に匹敵する存在は、いつの時代にもどこの国にも数限りなく存在する、ということである。この列島の最近五十年間に限っても、古賀政男から小室哲哉に至るまで、「多産で成功を収めた」作曲家はそれこそ枚挙にいとまがないが、「かれらが死についてどう考えたかは、われわれにとってはまったくどうでもよいことである」。もちろん、かれらのようになることは、誰にでもできることではなく、それこそこの「狭い門」を目指して、無数の候補者がひしめき合って来たし今でもいるだろうが、このような「多くの人がそれを目指して殺到するが、たいていは入れないで外に残る門」、という意味の難関ではなくて、ここでアインシュタインがバッハを例に挙げて言っている意味の「狭い門」、つまり「人知れず開いているくぐり戸や裏木戸のような」門には、「入る人がまことに少ない」のである。このような「狭い門から入れ」という要請がキリスト教の教えであることは、この列島でもよく知られている。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、そして最後にシューベルト、これらの楽匠たちはみなこのような「狭い門」から入って、その死後に永遠の生命を獲得した「偉大な存在」、キリスト教風にいえば「聖別された存在」であるが、かれらの死生感について考えて見ると、それは必ずしもキリスト教的な信仰だけに裏打ちされた「生と死の把握」であったとはかぎらないことが分かる。とくにモーツァルト以後の三人については、その死生観にはほとんど非キリスト教的といってもよいほどのへだたりがある、と評してもよい。しかしそれでもかれらは、いずれも千数百年来のキリスト教の伝統文化の中で教育を受けて育った人である、という点で一人の例外もないのであって、これはこの中でも(モーツァルトと並んで)もっともキリスト教的でないシューベルトについても充分にあてはまることである。8曲にのぼる完成された「ミサ曲」のほかに十数曲の教会用小楽曲、さらに未完の「オラトリオ・ラザロ」(D689)をはじめとする多数の宗教色の強い合唱・重唱曲を創造しているシューベルトは、「非政治的人間」」でなかったばかりでなく、またけっして、キリスト教に無縁という意味での「非宗教的人間」でもなかった、ということが言えるのである。とくにかれの場合、かれ以前の巨匠たちとちがって、王侯貴族や教会の“エライさん“たちからの注文を受けて作曲する、というような立場にはまったくなくて、純粋に自由なクリエイターとして、このように多数の宗教的色彩の濃い作品を次々と手掛けている、ということは、かれのもっとも深い内面において、「宗教性」というものがいかに大きなウェイトを占めていたか、という何よりの証しである、といっていいだろう。
かれのもっとも有名なリードの一つである「エレンの歌第三:通称アベ・マリア」(D839)は、初演の時からすでに高い評価を受けた数少ない作品の一つであるが、これについてかれ自身が父親に宛てて次のように書いている。
「僕の新しいリード、ウォルター・スコットの『湖上の乙女』から採った曲は、すばらしく好評でした。また、みんな僕が聖なる乙女(マリア)に捧げた賛歌の中で表現した敬虔の念にとても驚嘆したようで、どうやらこれがすべての人の心を撃ち、聖母への追憶に向かわせたようです。僕が思うにその原因は、僕がけっして聖母を追憶するように強制するようなことをせず、僕が思わず知らず聖母に乗り移られる時以外は、けっしてこのような賛歌も祈りも作曲しない、ということにあると思います。しかし、これこそ一般的にいっても、ほんとうの正しい追憶の仕方なのです」(1825年7月25日)。
この曲ほど評判にはならなかった、もう一つの「敬虔な祈りと追憶」を表わす素晴らしいリードが、シューベルトにはある。それは「連祷(Litanei)」(D343)であって、「ハロウィーンの祭りの日に(Auf das Fest aller Seelen)」というタイトルがついている。J・G・ヤコービの詩に作曲されたもので、死後の1831年にはじめて出版された。「Litanei」というのは、ギリシャ語の“λιτανευω”  (何度もつぶやく、おなじことばをくりかえす)という動詞から来たカトリックの教会用語で、仏教の「念仏」や「お題目」のように同じお祈りのコトバをくりかえす「連祷」という儀式の名となっている。原詩は九連からなっているが、シューベルトはそのうちの一、三、六連だけをとくに抜き出して作曲している。「すべての死者の霊をなぐさめる」というこの日に、かれが「音楽によって救済」したのは、「生まれてすぐにこの世を去っていった」子どもたちの霊、「恋人に捨てられて家まで追い出され」、命を絶つか野垂れ死にするしかなくなった女の子たちの霊、そして「地獄の底で神を待つ」亡者たちの霊であった。                   
   

「連祷」(D343)

ところで、「生まれてすぐにこの世を去った」子どもの霊をなぐさめる歌としては、有名な「子守歌(Wiegenlied)」が先ず第一に挙げられる。この歌が「シューベルトの子守歌」として世界中に知られるようになったのは、リヒャルト・シュトラウスがそのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」の中で劇の挿入歌として使ったことによる、といわれる。この列島では明治以来、「眠れ、眠れ、母の胸に」という歌詞で広く知られていて、おそらくこの国でもっともよく知られたシューベルトの歌だといってもよいだろうが、この歌詞では曲全体の趣旨がよく伝わらないのが残念である。これから披露する新しい歌詞を聞いてもらえばすぐに分かるように、これは「死んだ子の霊をなぐさめる歌」なのである。作詞者は不詳であるが、もしかしたらシューベルト自身であったとしても、まったく不思議とは思わない。なぜかというと、かれ自身が自分で作った詩に作曲したものが、少数ではあってもいくつも残されているからであり、かれの兄弟姉妹の多くが夭折していて、かれフランツ・ペーター・シューベルトは、シューベルト家としては12番目の子であって、全部で13人いる兄弟姉妹のうち、実に8人までが「生まれてすぐにこの世を去って」いるからである。もちろん、かれが直接その死を見取ることのできたのは、すぐ下の妹・アロイジア・マグダレーナだけで、あとはみなかれが生まれる以前に世を去っているのであるが、20世紀末のこの列島とはことなり、大半の小市民の家庭では「多産多死」ということが当たり前であったこの時代のシューベルト一家では、「ハロウィーンの祭りの日」が来るたびに夭折した子をしのぶことが年中行事のようになっていたであろう、と想像されるのである。少なくとも「早い死」というものが、つまり「命のはかなさ」というものが、幼少時代からのかれにとって、きわめて日常的な身近な出来ごとであった、ということだけは確かである。   

・「子守歌(Wiegenlied)」(D498)

もう一つここで取り上げたい「子守歌」、それはW・ミュラーの詩による歌曲集の第一、「美しい水車場の娘」(D795)の最後を飾る第二十曲・「小川の子守歌」である。この未踏の最高傑作の一つである歌曲集については、今さらここで吹聴する必要はないが、「死」というテーマに関してここで論及したいと思うのは、この失恋の結果入水する若者(粉挽き場の職人)を、「母親」としてやさしく迎える「小川」というイメージは、キリスト教的な「アダムとイブの原罪の結果人類に下された罰」としての「死」という観念とは、それこそ百八十度の転回を遂げたものだ、という点である。宗教哲学的にいうならば、まさに「コペルニクス的転回」がここにあるのだ。ニーチェの言葉を借りるなら、「一切の価値の転換」である。この列島の「俳聖・芭蕉」の句・「古池や蛙飛び込む水の音」には、「アタムとイブの堕罪(失楽園)に匹敵する巨大な響きがある」、とこれまた列島の宗教哲学者・鈴木大拙がいっているが、同じ巨大な響きをこの「小川の子守歌」から聞き取ることは、それこそわれわれシューベルティアンの特権といっていいだろう。   

・「小川の子守歌」(D795ー20)                  
  

「優しい母親としての死」、このイメージが形成されるに当たって、1812年、フランツ・ペーターが15歳の年に世を去った生みの母親・マリア・エリーザベトの面影が大きく影響していただろう、ということは当然推測できる。この母親のことは、1816年の日記の中に「亡くなったやさしい母さん」として言及されているほか、かれの独自のそして唯一無二の創作的寓話「私の夢」(1822年7月3日)の中でも、その死が父親と息子の不和を仲介させる中心的な役割を果たしている。どうしても定職に就こうとしないので、幾度も「勘当」される羽目になった息子と、自分の価値観を息子たち に押し付けようとする「怖い父親」との間の葛藤、というテーマは、フロイド派の精神分析家たちに対して、「エディプス・コンプレックスの典型」として様々な素材を提供することになったが、どう見てもここから一足飛びに「シューベルト・ホモ説」のような結論を導き出すのは性急、というほかはない。「幼児期の体験」や「原光景(ウアスツェーネ:幼児が両親のセックスを目撃すること)」というようなタームで、あらゆる芸術家や学者たちの人格ばかりかその作品の成り立ちをも、一挙に解明することができる、というのは、分析家たちの自己過信の最たるものであろう。近頃では「幼児期に虐待を受けた人間は、成長してから自分も幼児や弱い者を傷つけたり殺したりするようになる」、というテーゼが心理分析家の金科玉条のように祭り上げられているが、これも私に言わせると、いささか問題を単純化しすぎている、と思われるのである。「犯罪者」に対しても「芸術家や学者」に対しても、「幼児期のしつけや体験」にその生成のすべてを収斂させるのは、「AVやポルノ小説」が性犯罪の発生の原因だ、というような議論と同列のあさはかな早トチリ、というほかはない。今の時点(20世紀末)のとくにこの列島では、大方の賛同は得られないかも知れないが、あえて私見を述べさせてもらえば、親がどんなしつけをし、学校がどんな教育を施そうと、「酒鬼薔薇聖斗」の発生を未然に防ぐことが不可能であったように、その両親がどんな人物であり、家庭や学校や地域の環境がどんなものであったとしても、シューベルトという天才を生み出すことも、またその発生を「未然に防止する」ことも不可能なのである。かれは、もしもピアノが与えられなければ、よその家のピアノを借りてでも作曲しただろうし、五線紙が買えなければ盗んででも作曲したであろう。殺人マニアにとって「人を殺すことが愉快でたまらない」ように、天才音楽家にとっては「作曲することが愉快でたまらない」からである。今から2500年前にいた中国の聖人と仰がれる孔子は、「学ヲ好ムコト色ヲ好ムガ如シ」(現代語なら「ベンキョウすることがエッチすることと同じくらい好きだ」)、と言っている。これはまったく同じ心理を述べたものである。
ところで「優しい母親」として若者を迎える「小川」と同じように、「死」を恐れる少女にむかって、「手を出して、やさしい乙女、裁きに来たのではない。勇気を出せ!この腕の中に憩え!」、とやさしく手を差し延べる「死に神」、このモチーフは有名な「弦楽四重奏曲・死と乙女」の元歌となっている短いリードの中にも、典型的に表われているが、このリード「死と乙女」(D531)も、そして続いて聞いて頂く「若者と死」(D545)、さらに「死の音楽」(D758)も、いずれも「原罪に対する罰」としての「死」、というキリスト教的な死の把握とは正反対の、いわば「よりよい別世界への誘い」というモチーフに貫かれている。こうした死のとらえ方こそまさに、かれシューベルトの音楽の本質に属するものであって、上に述べた「幼児体験」や「家庭環境」はもとより、失恋や貧苦や名声が得られなかったことや、また「不治の病」に侵されたことや、その他ありとあらゆる「実人生を暗く彩る要素」ともまったく無関係なのである。かれが真実そう語ったと伝えられている言葉があるが、それは「ぼくは度々自分がこの世に属していないような気がする」、というのである。前回述べたように、シューベルトのピアノソナタの不滅性については、正しく評価できなかったシューマンも、かれの最後のシンフォニー「ハ長調・ザ・グレイト」(D944)については、「それはわれわれがかつて所属していたことをとても思い出すこともできないような、はるか遠い過去へと連れていってくれる」、と鋭い直感によってその本質を言い当てている。ここから「古代人の死のとらえ方」、なかんずくわれわれ東洋人にも共通の「輪廻転生(メテンプシコーシス)」という死生観にいたるまでは、まさにもうほんの一歩なのである。   

・「死と乙女」(D531)
・「若者と死」(D545)
・「死の音楽」(D758)

「シューベルトは、バッハのカンタータと受難曲を一つも知らなかったし、もし知ったとしても、理解しなかったであろう。シューベルトはルター派のキリスト教徒ではなかったし、かれのカトリック的キリスト教もーーけして危なげのないものではなかった。さらにまたかれは、フリーメースンの信仰によって、避け難い死へと明るく向かう心構えのできた宿命論者・モーツァルトのような救いも得られなかった。楽観論者・ベートーベンの数曲の葬送行進曲は、偉大性の不滅についてのかれの確信の反映である。それはけしてキリスト教的な意味での不滅ではない。かれの巨大なミサ曲は、あまり教会的でない意味で勝ち誇るものであり、“一人の偉大な人間の思い出に”捧げられたシンフォニー(第三番)は、英雄的な悲歌(エレジー)を内容としていて、一つの勝利の記念碑を高らかに打ち建てている。・・・・これに対してシューベルトの死を主題とするいくつかの曲に思い至ると、われわれはシューベルトの希望のなさ、慰めのなさに驚愕せざるをえないのである」。

これまたアインシュタインの言葉だが、シューベルトの父親に宛てた手紙には、次のような「死」についての洞察が見られる。

「兄さんはきっと今でも、十字架に向かって這って行って、茨の川を卒業できないでいるでしょう。かれはきっとまた、もうこれまでに七十七回も病気にかかり、そのうちの九回はかならず死ぬと思ったことでしょうネ。まるで死ぬことが、われわれ人間に出会う最悪のことだといわんばかりに。兄さんが一度でも、見ただけでもわれわれを圧しつぶしのみこんでしまいそうな気がする、神々しい山や川を眺めてみたら、きっとこのちっぽけな人間の一生などというものを、それほど必死でしがみつく価値のある愛着の対象だとは思わなくなるでしょうに。大地のもつ理解を超えた力によって、もう一度この世に生まれることを、それほど大きな幸運だとは思えなくなるでしょう」。(1825年7月25日)。

この世の人生というものを、一つの「異次元の生き地獄」と感じていたシューベルトにとっては、まさに「死ぬことは最悪のことではなかった」のである。しかし、この手紙の行間からほとばしるトーンから伝わるものは、果たしてアインシュタインの断定するような「希望のなさ」、「慰めのなさ」だろうか?むしろ、われわれ東洋人にも一脈相通ずる自然に対するおおらかな畏敬の念と、そしてはからずもここで露呈してしまった「生まれ変わり」、それも「大地のもつ理解を超えた力」による「転生」という、すぐれて「異教的・古代的」な確信ではないのか?この一節は、敬けんなカトリックの信者ならば、けしてありえないはずの「古代人の死生観」にほかならないのであって、単純な「厭世観」や「無力感」とはそれこそほど遠いものがあるのだ。首都神学校に在籍していたころから、シューベルトはギリシャ・ローマの古典文学に熱心に打ち込んでいた、といわれているが、かれの数百にのぼる声楽作品のうちで、ギリシャ神話を題材とするものがおよそ五分の一に達するということは、いかに古代の精神がかれの本質の一部を形成していたか、いかにかれの骨肉となっていたか、ということを雄弁に物語るものでなくて何であろうか。→「ギリシャ神話とシューベルト
ユダヤ教、キリスト教、それにイスラム教、この「三大一神教」を別とすれば、この地球上のあらゆる人々は、「変身(メタモルフォーシス)」と「転生(メテンプシコーシス)」という二つのことがらを信じていたし、今でもそれは変わりがない。簡単にいえば、時の流れというものを一方向への直線としてとらえる「ヘブライ・キリスト教的」な考え方と、四季の循環のような円環構造としてとらえる考え方の違い、これはそれこそ、どんな接着剤によってもけして埋めることのできない永遠のミゾである、といっていいだろう。物理学のいわゆる“ビッグバン・セオリー”も含めて、宇宙万物の進行を一方向への膨脹と収縮、ととらえ、一度失われたものは二度と再生しない、という考え方に対して、木の葉は落ち、花は枯れ、自然は一面に雪と氷に閉ざされる冬があれば、すべてが再び芽を吹き、花開き、水のぬるむ春が必ず訪れる、と信じる考え方の違いである。われらがシューベルトの考え方は、言うまでもなく後者であって、その例証として無数のリードが残されているのである。
  

はじめに「変身」の例を挙げることにしたいが、それは「白鳥の歌」(D744)と「ナイチンゲールに寄せて」(D497)という二曲である。前者は友人のゼンの詩を作曲したもので、イソップの寓話が根底になっており、後者は「死と乙女」と同じM・クラウディウスの詩によるリードであって、アインシュタインが「無常と訣別に対する愛の告白」、と呼んでいる珠玉の作品である。

「ある金持ちの家にアヒルたちと一緒に一羽の白鳥が飼われていました。アヒルたちは料理して食べるため、白鳥は歌を歌わせるためでした。ある晩にそこの主人がお客を呼んでご馳走するために、料理人にいいつけて池にいるアヒルたちをつかまえて料理させようとしました。料理人はすぐに池へ行って見ましたが、なにしろあたりが真っ暗で明りもなかったので、どれがアヒルでどれが白鳥だか分からず、うっかり間違えて白鳥を捕まえてしまいました。料理人が包丁を突き立てて殺そうとすると、それまで一度も声を出さなかった白鳥は、“ああ、これで私の一生は終りだ。それならせめて思い切り大声で歌を歌って死のう”、と覚悟して、それまで出したこともない大きな美しい声で歌を歌いはじめました。それを聞くと料理人はすぐに自分のまちがいに気がつき、家の中にいた主人も声をききつけて外へ出てくると、二人とも感激して白鳥の歌に聞き惚れました。それからは白鳥はアヒルたちとは別の場所に住むことを許され、おいしいものをたくさんもらってしあわせに暮らしました」。   

・「白鳥の歌」(D744)

シューベルトの最後の歌曲集には「白鳥の歌」というタイトルがつけられているが、これはかれの死後に出版社がこのイソップの古事にならって命名したものである。なお、古代ギリシャでは白鳥は美と愛の女神・アフロディーテー(ビーナス)の神鳥、つまりお使い姫とされており、大神ゼウスも人間の女性を口説くためには、この白鳥の姿に変身しているのである。
ナイチンゲールはこの列島には生息していない鳥で、コウライウグイスとも呼ばれるが、ギリシャでは「月と狩りの女神・アルテミス(ダイアナ)」の神鳥とされていた。神鳥であったということは、女神の巫女たちの魂を宿している鳥だ、ということであって、ノドを真っ赤に鳴き腫らしつつ美しい恋の歌を歌うその姿と声が、アルテミスの巫女たちの美しい歌声と舞う姿を追憶させたのであろう。シューベルトのリード「ナイチンゲールに寄せて」は、苦しい恋に悩む女性が、「ひそかに燃える胸の火を止めて・・恋の神さまの目を覚まさないでおくれ」、とナイチンゲールに歌いかける哀切な内容となっている。ピアノ伴奏の音型は、この鳥の愛らしく飛び回る動きを克明に描写して余すところがない。   

「ナイチンゲールに寄せて」(D497)

シューベルトは作曲していないが、ゲーテの「西東詩集」の中には、「死んでそして生まれ変われ」、というロウソクの炎に焦がれて焼け死んでゆく蛾によびかける詩があるが、アインシュタインは「このモチーフこそシューベルトの音楽の本質である」、といっている。飛行機を作って太陽を目指して飛び続けたところが、熱に焼かれて墜落炎上してしまったイカロスの話も、これと同じモチーフに属する。蛾が何に変身したかは不明であるが、イカロスはその名をとったイカリアという島に変身するのである。強烈な個性をそなえ執念に燃えた人間の魂は、肉体の消滅とともに永久に消え失せてしまうようなことはけっしてなく、必ず何かの形で「再生」を果たす。これが古代の人々とともにシューベルトのもっている確信なのである。およそあらゆる思想のうちでもっとも救いのない思想は、「物質の寄せ集め」である肉体の消滅とともに、あらゆる精神の力も永久に失われて、二度と生き返ることはない、という“似而非科学的唯物思想”である。これに比べれば「ヘブライ・キリスト教」の思想は、神に選ばれた人間の魂は「永遠の生命」を授かる、という点でまだしも救いがあるが、この神さまの救いに洩れた存在は「永遠の劫罰」に会うのだから、永久に救われないのである。つまり、どちらにも「変身」もなければ「再生」もない。したがって「審判」は唯の一回かぎりで、「再審」もなければ「上級審」もないのである。これに反して古代の思想には、この世がダメなら次の世があり、この肉体がダメなら別の肉体があり、人間がダメなら動物でも植物でも、山でも川でも月でも星でも、それこそ何にでも「生まれ変わる」ことが可能だ、というくらい、それこそ無数に救いの契機が存在しているのだ。有り難いことに、われらがシューベルトにもそれがある。その実例として、これから二つの歌を披露することにしよう。                 

最初は「ミニョンの歌その3](D877ー3)であるが、これはゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」という長編小説に登場する旅回りの踊り子で、「ミニョン(可愛い子)」という渾名で呼ばれる小さな女の子が死ぬ間際に歌う哀切な歌である。かの女はイタリアの貴族の家に生まれたが、人さらいに遭ってサーカスの一座に売り飛ばされてしまう。親方に虐待されているところを、旅回りの一座を率いる主人公のウィルヘルムに助けられ、かれの娘同然に可愛がられるうちに、かれを慕うようになって行く。ところが一座は盗難の結果経営難に陥り、ウィルヘルムはもはやかの女を連れて旅をすることができなくなってしまう。やむなくかれはかの女を孤児院に預けて一人旅に出るが、預けられたかの女はかれを慕う気持ちがこうじて、次第に健康をそこねて、ついにはもう永くは生きられないことを悟る。その年のクリスマスが来ると、かの女は天使の格好をしてお客たちにプレゼントを配る役目を引き受ける。役が終って「不断の服に着替えるように」、といわれると、かの女は「このままの姿でいさせてください。美しいこの世に別れるその日まで」、というこの歌を歌う。そして間もなくほんとうに、天使の姿のままで息をひきとるのである。   

・「ミニョンの歌その3」(D877ー3)。

この歌を聞いて頂いた以上は、どうしてもこれとセットにして聞いて頂きたい曲がある。それはピアノの曲で、シューベルトがこの世を去る一、二ヵ月前に完成した「三大ピアノソナタ・D958、959、960」の最後を飾る「変ロ長調・D960」の第一楽章である。なぜこの曲がこの歌とセットなのかというと、アインシュタインの指摘にもある通り、「主題(テーマ)」がこの歌の深みからおのずと生じて来たものだからであり、この世界からの訣別と魂の浄化、よりよい別世界、異次元の世界への門出を象徴する救いの気にあふれているからであり、この歌の歌詞の最後「この世にいるかぎりは、尽きない苦しみに、早くも年をとる。よみがえれ、永遠の若さ」、このミニョンの叫びは、まさにシューベルト自身の魂の叫びでもあり、それをピアノによって表現した最高の結実がここにあるからである。   

「ピアノソナタ・変ロ長調・D960・第一楽章」。

  「天使に変身した少女」の次に登場するのは、「天に上って神さまのお小姓になった少年」の話である。これもまたゲーテの詩に作曲したもので、題名は「ガニュメート」(D544)であるが、これはドイツ語式の読み方で、ギリシャ神話では「ガニュメーデース」という美少年の物語を詩にしたものである。「歳差周期」というものを単位に、およそ二千年ごとに支配する「星座」を「黄道十二宮(ゾディアック)」の一々に配当すると、21世紀になって間もなく「魚座」から「水瓶座(アクエリアス )」の時代に変わる、といわれているが、この「水瓶座」の主人公こそこの「ガニュメーデース」である。「オリュンポス」とよばれる神々の殿堂(パンテオン)の中で、一同に酒や飲み物を注いでまわるお小姓の役は、それまでは「青春の女神・ヘーベー」が引き受けていたが、大神ゼウスの目にとまったこの美少年が、「天に引き上げられた」後はずっと受け継いでいるのである。私個人の趣味ではないが、キムタクでもトキオでもV6でも、その他なんでも好きな美少年を自由に思い浮かべつつ、この歌を聞いていただくことにしよう。   

♪「ガニュメート」(D544)

次はいよいよ「転生(メテンプシコーシス)」の話に移るが、インド人からはじまって、われわれ東洋人にはおなじみのこの概念は、ヨーロッパではギリシャ人の「オルペウス教徒」たちがはじめて唱え出した、といわれている。哲学の歴史の上では、エトナ火山に身を投げたエムペードクレスが、やはり主張したことで知られている。「オルペウス」というのは「音楽の神」として有名で、どこかの国の古い神話と共通の、次の話が伝わっている。
  

「オルペウスは、アポロンとムーサイ(芸術の神々)の一人の間に生まれました。かれは父親から竪琴を一つもらいました。それを奏でると、人間ばかりか動物も植物も、それどころか山や川や谷、道端の石ころにいたるまで、うっとりとして聞き惚れました。かれは年頃になると、エウリディケーという美しい花嫁を迎えました。ところが新婚間もなくこの花嫁は、散歩に出たときに草の上の蛇を踏んで、足を噛まれて死んでしまいました。オルペウスは嘆き悲しんで、あらゆる音楽を奏でましたが、どうしてもかの女を呼び戻すことはできませんでした。そこでかれは、この上は「黄泉(よみ)の国」へ行って妻を連れ戻そう、と決心しました。暗い洞穴を通って進んで行くと、あらゆる妖怪変化・魑魅魍魎と出会いますが、かれは竪琴を弾きながらそ奴らを押しのけ、ただひたすらかの女を求めて歩き続けます。そしてようやっと「冥府の宮殿」に辿り着いて、王さまのハデスとお后のペルセポネーに面会して、妻を返してほしい、と嘆願しました。竪琴を奏でながら、妻を思うありったけの気持ちをこめて歌を歌うと、地獄のすべての住人が感涙にむせびはじめました。王さまもお后も涙を流して、それほどまでに妻を思っているのなら、喜んで返してあげよう、と言いました。ただし、無事に地上に辿り着くまでは、けっして後ろを振り返ってはならない、とクギを刺したのです。オルペウスはエウリディケーを連れて、急いで地上を目指しましたが、いよいよあと一歩という所で、ついうっかり後ろを振り向いてしまいました。せっかくそこまでついて来たエウリディケーは、またもとの冥府に戻ってしまいました。二度までも妻を失ったオルペウスは、その後はけっして女性を愛そうとはしませんでした。そして、かれ自身の寿命が来て冥府にのまれた時に、はじめてほんとうにかの女と再会することが出来ました。かれの竪琴は、かれが死んだ後、『琴座』という星になって、永遠に夜空を飾ることになりました」。   

オルペウス」(D474)

ギリシャ神話によれば、冥府で妻とのほんとうの再会を果たしたオルペウスは、最後は「エリュシオン」という永遠の楽園に暮らすことを許された、という。この「エリュシオン」もまた、シューベルトによって作曲されている。詩はF・シラーで、ゲーテに次いでもっとも多く作曲されている詩人である。この詩人のものには長編が多く、この曲もA4版で9ページという長さを誇っている。しかし、われわれのようなシューベルトマニアなら、この「天国のような長さ」に退屈するようなことは絶対にありえない、と断言することができるであろう。次から次へとくりひろげられる「楽想」に舌鼓を撃って、この曲を楽しむことができれば、それこそ「シューベルトの楽園」にいつまでも滞在することができるだろう。   

・「エリュシオン」(D584)

  さて、今宵の最後を飾る曲として、シューベルトのメロドラマをご紹介させて頂きたい。このコトバは今日では、安っぽい通俗的なドラマ、という響きしかもっていないが、もともとの意味は「音楽劇」というほどのことであり、BGMにあわせて詩を朗読する、という芸術上のジャンルであって、これから聞いて頂くものも、この意味の「メロドラマ」なのである。詩はプラトベベーラというシューベルトの友人の作で、タイトルは「この惑星との別れ」(“Abschied von der Erde")という。ピアノ用として書かれているが、ギターやハープのような撥弦楽器で演奏すれば、より一層効果(BGMとしての)を挙げることができるのではないか、と思っている。テーマはむろん、この現実世界(die Erde)をはなれて、異次元の別世界へ旅立つ、ということで、あえて「この惑星」としたのは、「ガニュメート」の所でも同じことが言えると思うのだが、現代(20世紀末)では、シューベルトの時代とは異なって、他の惑星へ旅立つということは、もはや単なる夢物語ではなくなっているのだから、宇宙船の時代にふさわしいファンタジーをかきたてる言葉と内容を必要としている、と思うからである。この大地と別れるということは、今から後の人にとっては、単に「死んで土に帰る」ということとはちがう意味をもっているので、夢と希望と詩の世界をくりひろげるには、目を宇宙に向けることが不可欠なのである。                                    

メ ロ ド ラ マ 「 こ の 惑 星 (ほ し) と の 別 れ 」

「さようなら、美しい大地よ!今こそきみには分かるだろう、

喜びの風と苦しみの風が、どこで二人を吹き過ぎるかが。 

さようなら、苦しみの巨匠よ!涙にぬれた瞳とともに、ーー

わたしは喜びを連れて去って行く。きみをこの場に残したまま。 

きみはここでやさしい教師となり、すべての人を神の許へ導くがいい。

もっとも暗い曇った深夜に、一筋の暁の光を示してやってくれ。

かれらに愛の予感を与えてやってくれ。そうすればきっと、

かれらはきみに感謝するだろう。 

早い者も遅い者もあるだろう、しかし、最後はみんな泣きながら、

感謝することになるはずだ。その時人生は明るく輝き、どんな苦痛も

やさしい微笑みに変わり、喜びがそっと抱きしめる、

静かな明るい心を!」。

       ーーーFINIS ET FINEーー
          
コ レ デ オ シ マ イ





→続きは「文化史的考察4」へ

→「實吉晴夫のページ」へ戻る

→「ページの先頭」へ戻る