「シ ュ ー ベ ル ト の ほ ん と う の 死 因 は ? 」。
ー シ ュ ー ベ ル ト の 死 の 真 相 に 迫 る ー
(IFSI=国際フランツ・シューベルト研究所機関紙“Brille”96年1月号より)
ハンス・D・キームレ著。Y・C・M・サネヨシ訳。
シューベルトの病歴については、かれの友人たちと、それにかれ自身による暗示的な証言があるだけである。これは、性病と診断することはタブーとされ、従ってただの一言もそれには触れず、もっぱら別のコトバに書き替えて表現することしか許されなかった、という当時の事情によるものである。かれの死後その死因について科学的な解明に携わった医学者はほんのわずかしかいない。ミュンヘンの医者・ワルデマール・シュワイスハイマーは、事実関係を明らかにする資料が不十分で、最終確定的な診断を下すことは不可能なので、何らかの新しい証拠類の発見に期待するほかはない、と嘆いている。かれにとって確信ともいえるのは、「いずれにしても[・・・]シューベルトは性病の結果死んだということは有り得ない」、ということであった。
シューベルトが梅毒にかかったということ、そしてこれはおそらく、すでに1818年にゼレチュのエステルハーチー伯爵の城に滞在していた頃に、小間使の娘と関係したことが原因だということ、これはほとんど疑う余地はない。有名な医師のヨーゼフ・フェーリ ングが、かれの死の直前に主治医として呼ばれたことは、この性病にかかったことを物語る明らかな証拠の一つである。その著作のいくつかでフェーリングは、とくに新しい治療法については何も述べておらず、むしろ当時一般に行われていた療法をそのまま紹介しているだけだが、その一つにルブリエとルストの創始した“大療法(grosse
Kur)”というのがある。これは梅毒性の発疹を水銀の軟膏を塗布することによって治療する、という方法であるが、これは15世紀にまでその起源をさかのぼることのできるものである。水銀メッキによって黄金を採掘したり、水銀を黄金に変えるという錬金術の実験が行われたりした結果、この有毒な重金属はどこでも大量に手に入れることができた。そのミステリアスな特性のためにー常温で液体になるー、人々はすでに古くから、この物質には病気を直す力がある、と信じていたのである。ローゼンタールは、“その魔法のような効果”について語っている。この思い込みから、ほとんどあらゆる病気に対してこれを薬として使うという結果が生じたのだが、これは“フランス病”と呼ばれるこの性病が流行し始めるよりもはるか以前のことであった。一大実験運動、ベルゼブーブ(“蠅の主”=悪魔)によって悪魔を追い払うキャンペーンが始まったのである。この“快楽の報酬としての疫病”に襲われた人は、それこそもはや失うものは何もなく、どんな方法でも症状を和らげてくれたり、進行を遅らせてくれるものなら、感謝して受け入れたのだから。しかし水銀の毒性については、いつの時代でもつねに知られていて、古代インドやアラビアの文献にもすでに記述がある。ローゼンタールは「少量の(20〜 50%Hg)水銀軟膏の塗布、昇汞水による洗浄(塩化水銀)、水銀蒸気の吸入等々」による死亡例について報告している。
梅毒を水銀軟膏の塗布によって治療するブームが続いていた18世紀から19世紀にかけて、
、二つの陣営の対立が存在していた。“水銀信奉派(メルクリアリスト)”(プロHg )と“水銀反対派(アンチメルクリアリスト)”の対立である。混乱は広がる一方となった。ウィーンのJ・ヘルマン(反対派)はこう書いている。
「事実[・・・]水銀というものは人間の器官の中に、われわれがこれまで梅毒の副産物として診断してきたあらゆる病気の症状をひきおこすことができるのだ」。
かれは、「水銀療法は人類に対する犯罪である」とまで警告している。
これに対してローゼンタール(シンパ)は、こう述べている。
「どんな水銀療法でも[・・・]有機体に侵襲を加えて、ある種の全身的な反応をひき起こすが、その内訳としては疲労、蒼白で貧血症様の顔色、ありとある種類の不快感、 それにある種の瘰痩などがある」。
水銀軟膏塗布の目的は、流涎症(よだれの垂れ流し)の状態に到達することと、特有のHg熱を発生させることであったが、ーー今日の視点からすれば、どちらももっとも激烈な急性水銀中毒の症候群である。フェーリングによれば、“大療法”の最初の処置は 、“甘味をつけた”水銀溶液を飲むことによって腸を空にすることであったが、つまりはまず内側から中毒させよう、という手法なのである。その次ぎに始まるのが塗布療法であるが、これは全身に油性の軟膏を塗りまくる方法で、これには処方次第で20%から 50%の液体水銀が含まれていた。患者は水銀を一部は蒸気という形で、また一部は皮膚を通して摂取することになっていた。“ウェイター”と呼ばれる治療のアシスタントが塗布作業を任されていたが、これは作業が所定のシステムに従って進められなければな らず、出来るだけ広い面積にわたって、またとくに患者が自分では手の届かない箇所に塗る必要があったからである。
塗布の回数はケースバイケースで5回から70回(!)であり、“普通”は15〜20回が必 要と見なされていた。一回塗布するごとに、皮膚の中へ濃度に応じて、70から51グラム に対して0.18から0.73グラムの液体水銀が送り込まれた。人体に侵入した場合の致死量 としては、文献の上では0.2〜0.4グラムという数字が挙げられていたのにである!それ以前からしばしば、水銀を服用することによる自殺というケースが起こっている。水銀を皮膚の上から吸収するということは、今日の視点からすれば、偏平上皮を通して肉体へ侵入することを意味しており、蒸気を吸入することは、肺を通して直接血液中へ水銀を取り入れることになる。これは体内では細胞毒として作用を及ぼし、とくに脳と神経組織を侵すものである。
この“大療法”に際しては、ベットのシーツを取り替えることも、窓を開けることも許されなかった。患者はできるだけ永い間集中してこの水銀蒸気浴にさらされているべきだとされ、身体を洗うことさえ許されなかったのである。この手続きは発熱と涎の垂れ流しが出現し、皮膚の発疹が消失するまでの間続けられた。こうなってはじめて患者は 、入浴することを許され、ワインを飲むことさえできたが、その後もまだ長期間にわたって、閉めきった部屋の中ですごさなければならなかった。フェーリングは、かれの扱ったケースの一つを記述しているが、この患者はかれの規制を無視して、早期に戸外へ出てしまったために、「水銀塗布治療が終了してから十三日目に、卒中で」、ということは心臓発作で亡くなった、という。この高名な、騎士の称号を許された医師は、自分の患者が、もしかしたら水銀中毒の結果死亡したのかも知れない、などとは夢にも思わず、かれの病後歴(フォローアップデータ)には、症状の変化が現れたらその都度事後報告が記載されているだけである。要するに、治療効果に関する長期の見通しについては、何も確実なことは言えない、という報告にとどまっている。フェーリングは、水銀療法のもつ壊滅的な“副作用”については、ただ事のついでにのべているだけである。 たとえば、“水銀塗布治療失敗の諸原因”という章と、かれの二冊目の著書の“水銀中毒”という章の中である。
さて、シューベルトの場合は一体どうだったのだろうか?かれの父親は、治療費に関しては事細かに支出の記録を残している。この記録からだけでは、処方された薬剤の内容までは明らかにはならないが、それでもいくつかの結論を引き出すことは可能である。 1828年の11月12日から19日、即ちシューベルトの死んだ日までの間に、6回にわたって薬剤が処方されていて、その金額は40クロイツァーと2グルデンの間である。比較的高 価な医薬品は、水銀の製剤であった可能性が高い。また“粘着性の膏薬”も使用されているが、これはたいてい水銀を含むものであった。ウェイターが一人追加されていて、 かれの日当とワインが九日分支給されていることから、集中的な塗布治療、すなわち水銀の中毒が引き起こされていたことが分かるのである。
さて、シューベルトの病気の経過はどんな風だったのだろうか?それは書簡の形と友人たちの思い出という形で伝えられている。最初のヒントは、1823年の2月28日付けの手紙の中にあり、そこでシューベルトはこう言って訪問できないことを謝っているのである。「[・・・]私の健康状態がまだどうしても家の外へ出ることを許さないからであります」。この年かれは、ウィーンの一般市民病院に入院して治療を受けているが、その正確な時期と期間とは知られていない。おそらくここで最初の水銀療法が実施されたのであろうが、それは、梅毒に対するほかの治療法というものは当時存在しなかったからである。1823年の5月8日に、かれは「わが祈り」という詩を作っているが、その中でかれは、自分の肉体的・精神的な悩みをこう表現しているのだ。「わが人生の生け贄の道は、/永遠の没落に近づく」。ーーかれのそれまでの人生に対する、きわめて抑鬱的な総括である。7月21日には友人のひとりが、シューベルトは病気にかかっている、 と報告している。8月14日には、ショーバーに宛てた手紙の中にこう書かれている。 「[・・・]ぼくの健康状態はまずまず良好だ。ぼくがいつかまた完全な健康体に戻れるかというと、それはほとんど信じられない」。この後かれは快方へ向かう道を進む。 12月24日にシュウィントはショーバーにこう報せている。「シューベルトはまた快方に向かっている。それほど遠くない時期に、かれはまた自分の髪で出歩くようになるだろう。なにしろ発疹ができたために、丸坊主にしなきゃならなかったんだからネ。かれはなかなか快適なかつらをつけているよ」。他の資料の中にも、かれの髪の毛が全部抜けてしまったということについて言及されている。この症状は、梅毒の場合にも水銀中毒の場合にも起こるものである。
シューベルトは明らかに梅毒感染の第一期と第二期の間の潜伏期間にあったのであり、 比較的無症状の状態であった。1824年にはしかし重い再発がやって来る。「ぼくは自分が世界中でもっとも不幸でもっともみじめな人間だ、と感じている。健康がもはや二度と回復しようとしない人間のことを考えてみてほしい」。ーーきわめて深いペシミズム と否定的な思想、これは水銀の中毒に侵された人に特有のものである。「シューベルトの友人関係に曇りが現れる」、とO・E・ドイッチュはこの時期を総括している。4月2日には、シューベルトは“頭痛”を訴えている。シュウィントはこの少し後に、ショ ーバーに宛てて書いている(4月14日)。「シューベルトはあまり具合がよくない。左 腕に痛みがあるので、まったくピアノが弾けないのだ」。さらにクーペルウィーザーは 、5月になってからこう報告している。「シューベルトは、また病気なんだ、と訴えて来た」。これはみな一進一退の病勢悪化を示すものである。シューベルトはこの年二度目のエステルハーチー伯爵領訪問旅行に出かけているが、それから先はもう“あらゆる面にわたって健康そのもの”、という報告しか見られない。
その後の二、三年間には、病気に関するそれ以上のヒントは何一つ得られない。1827年になってはじめて、シューベルトは再び「いつもの頭痛がもうまた襲ってきた」、と訴えている。この症状はかなり永く続いた。10月15日にかれは、或る人の招待をこう言って断っている。「私は病気で、しかもどんな方のお相手をすることもまったく不可能なほどの状態なのです」。それからまた情報のない時期が来る。ドイッチュは、1828年10 月31日の脚注として、こういう報告をしている。「シューベルトはヒンメルプフォルトグルントにある“紅十字亭(ツーム・ローテン・クロイツ)”へ行き、そこで食事中に魚を戻してしまった」。1857年に書いた追憶の中で、ショエーンシュタイン男爵は、「毒を飲まされた、という思い込みは、かれをしばしば悩ませることがあった」、と述べている。
「かれはこの妄想を、いろいろな時期に、何年も前から、すでにゼレチュにいた頃にも口にしていた。[・・]これがある時には、あまりにも強く支配するようになったので、当時ゼレチュにいたかれは、一瞬として平静にしていられないほどであった」。
シューベルトは、自分の体内が毒に侵されていることを、何か感じていたにちがいない 。多分かれは、口の中が典型的な金属の味に浸されていたのであろう。魚というものは 、種類によって多かれ少なかれ、有機水銀を多量に含んでいるからである。さらに、かれの最後のショーバーに宛てた1828年11月12日付の手紙には、こう書かれている。
「ショーバー君!ぼくは病気だ。すでに11日間も何も食わず何も飲まずに、疲れてふらふらしながら、ベットとソファーの間を行ったり来たりしている。[・・]何か口に入れても、またすぐに吐き出してしまう」。
これは中毒症状の最終段階である。フェーリングは、ゲルハルト・フォン・ブロイニングに向かって、“血液の分解”というコトバを使ったと言われている。11月17日には、 シューベルトは頭の中が熱くなる、と訴えているが、その後で譫妄(せんぼう)状態に陥った。11月18日には、かれは寝床に横にさせるのにさえ苦労が要るようになり、何度も起き上がろうとして棒立ちになった。シューベルトの父親は、家族簿にこう記録している。
「フランツ・ペーター、十、水曜日、1828年11月19日、午後3時、(死因は神経熱)、 埋葬は土曜日、1828年11月22日」。
同じ日に父親が息子のフェルディナントに宛てた手紙には、次のような言葉がある。
「私たちの最愛のフランツがかかった危険に満ちた病気が、私たちの心を痛めている」 。
シューベルトの病歴に関する、伝えられた資料による手掛かりはここまでである。“神経熱”という記載は、暫定的な死因として選ばれたものだが、かれの母親の場合にも同じ記載が見られる。“神経熱”とか“チフス”とかいうのは、1850年代まではさまざまの、発熱と意識障害の下で経過する病状の総称であり、それゆえけっして正確な診断名ではなかった。母親と息子とがともに同じ末期症状を呈して死亡している所から見て、シューベルトは直接に梅毒の結果として死亡したのではない、という結論が可能となる。とくに、かれはこの性病の最終段階まで到達してはいなかったのだから、ここには家族全員に共通する一つの健康問題が潜んでいる、と見なくてはならない。
以下の表には、かれの兄弟姉妹の名が挙げられているが、かれらの生没年、死亡した時の年齢、そして死因(筆者の注は括弧の中に入れた)を記載しておく。
イグナツ・フランツ 1785〜1844
61歳 卒中(心臓発作)
エリーザベト 1786〜1788 2歳 発疹チフス
カール 1787〜1788 3/4歳 水頭症
フランチスカ・マグダレーナ 1788 2ケ月 消化器のひきつけ(痙攣)
マグダレーナ 1789〜1792
2歳 粘液性発熱
フランツ・カール 1790 1ケ月 ひきつけ
アンナ・カロリーナ 1791 14日 ひきつけ
ペトルス 1792〜1793 6ケ月 歯のカタル
ヨーゼフ 1793〜1798 5歳 悪性の痘瘡(天然痘)
フェルディナント・ルーカス 1794〜1849 54歳 チフス(神経熱)
フランツ・カール 1795〜1855 59歳 肺水種/心臓病
フランツ・ペーター 1797〜1828
32歳 神経熱(チフス)
アロイジア・マグダレーナ 1799 1日 ひきつけ
マリア・テレジア 1801〜1878 76歳 卒中
母親 1756〜1812 55歳 神経熱
比較参照のために、父親の再婚によって生まれた子供たちも掲げておく。
マリア・バルバーラ・アンナ 1814〜1835 21歳 肺病
ヨゼファー・テレジア 1815〜1861 46歳 ?
テオドール・カイェタン・アントン 1816〜1817
7ケ月 ?
アンドレアス・テオドールス 1823〜1893 69歳 ?
アントニウス・エドアルドゥス1826〜1892 66歳 脱力症状
母親 1783〜1860 77歳 老衰
最初に目につくのは、最初の結婚によって生まれた子供たちは、だれ一人として“自然死”、つまり老衰で死んでいない、ということである。最初の子であるイグナツと最後の子・マリア・テレジアの二人は、もっとも長生きをしているが、二人とも死因は心臓発作であり、これは慢性の水銀中毒に典型的な結果なのである。痙攣の発作で死んだ子の多いことも、毒性の影響を推測させるものがある。最初の子(イグナツ)が誕生してから、後に続く子供たちの寿命はどんどん短くなって行く。フェルディナントまで来てようやく、比較的長生きする子供が生まれて来る。1788年には、同時に三人の子が死亡しているのだ。
水銀は胎児に毒性の影響を与え、奇形の原因となり、また母胎を通じて中毒を伝える、 ということは科学的に証明されている。この意味でカールの奇形(水頭症)を見ることが可能である。他の死亡例を見ても、いずれも免疫システムが弱められていることが分かるが、これもまた慢性の水銀中毒の結果であり得る。
さらに、科学的に確かめられた事実として、妊娠中の女性の体内に存在する水銀は、胎児および母乳の中へ伝播される、ということがある。ーー否もっとドラスティックな形をとって、毒素は胎盤を通じて母親の身体から吸収されて子供の身体へと流れ込み、母親は子供の犠牲によって“解毒される”のである。したがって、ある女性が子どもをたくさん生めば生むほど、それだけ体内に保有する水銀の量は少なくなる、ということになる。新しく取り入れることがない限り。
さらに進んだ視点として、ここ2、3年の間に得られた認識があって、それは、体内に摂取された水銀は、単純に代謝の機構に乗って排出されるのではなく、あらゆる領域、 あらゆる器官の中に貯蔵され、優先的に保存される、ということであり、もっとも永く貯留されるのは神経組織と脳の中(約18年間)なのである。
この現代の認識をシューベルトにあてはめて見た場合、どうしてもこういう疑問を提示せざるを得ない。当時どんなことが起こったのか?かれはどのように、また何によって中毒に侵されたのか?
今日の日常の水銀中毒の主な原因は、壊れた体温計(まだHgが残っていれば)、発光体の管、歯の充填剤・アマルガム(50%Hg)、一連の、流通経路からまだ引き上げられていない医薬品で水銀を含むもの、食物連鎖(魚、動物の内臓)、それに家屋の中に古くから残っている水銀残留物である。毒性のある歯の充填剤は、すでに16世紀に存在していたことが証明されているが、これはよほど地位の高い人々でなければ手に入らなかったと思われる。ふつう虫歯は埋めないで抜きっぱなしにされていたから、この歯抜けの主原因はむろん考慮のほかであった。
中毒の主な原因は、当時行われていた習慣で、子どもが痛がるたびに水銀軟膏や水銀オイルを塗ることであったが、これは天然痘のような危険な病気の場合にも行われ、その発疹は、ペストの腺腫と同様、水銀によって治療されたのである。薬剤を入れたケースは絶対に、ガスを密閉する構造ではなかったから、間断なくHg蒸気が外へ漏れ出していた筈である。これらの水銀製剤は、おそらくどこの家庭用の薬局にも、旅行者用の薬局にも欠けてはいなかった、と思われる。
治療薬としての水銀を、当時の人々は盲目的に信頼していた。驚くほどの効果があったからである。皮膚を冒すこともある真菌類は、あっという間に根絶することが出来た。 また、水銀はまったくふつうの堕胎薬でもあった。しかもそれは、皮膚を美しく白くする効果まであったのである!
まったく非医学的な、それでいて日常のありふれたHg蒸気の源泉は、女性なら誰でも 、また女性とは限らず好んで使う対象、鏡であるが、これは当時は液体の水銀をむらなく塗りのばしたガラスのプレートで、四隅に錫箔が張りつけてあった。ーーまさに絶え間ない中毒源であるが、とくに鏡が壊れてこの金属が床のきわめて小さな裂け目の中へ入ったりしたら、最大の危険が発生する。今日では周知のことだが、水銀が何世紀にもわたって、この状態で一軒の家の中にとどまり、やみくもに蒸気を発散させて、何世代にもわたって毒を発生させていたケースが、フュルトという町にあって、ーーここでは200
年以上もの間、家内工業で鏡が制作されていたのであった。このために40軒以上の家が汚染され、たとえ改修しても居住不可能と宣告されたが、それは、新しく引っ越してきた住民が次々と感染して、Hg中毒に相応する症状を訴えるようになったからであった。
シューベルトの母方の祖父、ヨハン・フィーツは、ウィーンに到着するとすぐに52歳で心臓発作で亡くなっている。ここから判断すると、かれもまた慢性の水銀中毒を持病としてもっていたにちがいない。これも驚くにあたらないことで、かれはオーストリア領シュレージエンの、今はズラテ・ホリーと呼ばれる金鉱地帯ツックマンテルの出身だからである。このような地帯では水銀はそれこそふんだんに存在していて、とくに粒状になった黄金を洗浄するのに使われていた。今日もなおここでは、余暇の楽しみとして砂金を洗う作業が行われているが、2、3年前まではこの鉱山は盛業中であった。博物館では一通の手引書をもらうことができるが、これには、小人の男が自分の採った黄金を、まだ不純物を含む貴金属に液体の水銀を加えて、アマルガメーション(融合技術)で処理する方法が描かれている。混合物は皮の袋へ詰めて、それを絞り、
「手の中に一片の黄色い固まりが残るまで続ける。それから奇跡が起こるのだ!案内係は生のジャガイモを二つに切り、半分の方にアマルガムの団子を入れる孔をあけて、もう半分で蓋をする。それからかれはそのジャガイモを鉄板の上へ乗せて、軽い熱で焼き上げる。わずかな時間で水銀は揮発して、ジャガイモの半分の中に凝縮してしまう。孔をあけた方には、純金の固まりが残る、という仕掛けである。把捉した水銀は、ジャガイモをフライパンの上で押し潰すことによって得られる」。
このような軽はずみで生命の危険をともなう、きわめて毒性の強い金属の取扱い方法が 、18世紀から19世紀にかけては大はやりであったから、ヨハン・フィーツは高額の借金に首まで漬かっていたので、多分こんな方法で黄金を手に入れようと試みたのであろう 。かれの祖先も習慣から同じ作業を続けていた筈だ。フィーツ一家は何世代も前から同じ家に住んでいて、一階には鍛治場があったので、ここではすべてが水銀に汚染されており、家族全員が慢性の中毒に冒されていたであろう。ヨハン・フィーツの七人の子どもたちのうち、三人だけが成人に達しているが、その一人がシューベルトの母親であった。かれの母方の祖母はおそらく、たまたま短期のウィーン旅行に出掛けて死んだのだろうが、何の病気でどうやって死んだのかはーーまったく不明である。シューベルトの母親とその子どもたちの目につくほどの短命は、表で見る通り、その後もずっと継続する。残念ながらフィーツ一家の家は、1926年に解体されてしまったので、官公庁による保管物は何一つ残っていない。このようにして、この家では“伝統的な”中毒現象が存続していたのだとすれば、シューベルトの母親はすでに、自分の実の母親から子宮を通してHgを受け継いでいたことになり、この“負の遺産”はずっと受け継がれて行き、その上に環境によって新たな分子まで付け加わった、ということになる。
その他の当時の中毒源としては、フェルトの帽子があった。庶民出身の男なら誰でも、 この男性を強調するお決まりの付属品を身に着けたがるものだし、女性たちでさえ流行 とともに歩んだのである!フェルトは動物の毛皮から作られるもので、羊毛の残りと混ぜて製造される。毛皮を引き剥がす時には、硝酸塩の水銀溶液が使われるが、これは漂白剤としても用いられた。帽子のメーカーというのは、あまり社会的地位が高くなくて、かれらは年を重ねるに従って社会に適応できなくなり、“気が狂って”しまったのである。恐らくかれらは記憶の喪失、震顫(ふるえ)やその他の精神病的な症状を呈していたのであろう。フェルトの帽子を買う人は誰でも、ましていくつも買う人は、こうして中毒源を家庭に持ち込んでいたのである。
シューベルトには何が起こっていたのだろうか?薬剤の過剰投与が行われていたのであろうか?たくさん与えれば与えるほど、それだけ直りが早い、という耳障りのよいモットーに従って?それはわれわれには分からないが、しかし次の事実を出発点とすることは可能である。つまり、シューベルトは、かれの兄弟姉妹たちと同様、これまで述べて来たような症候群に生まれた時から煩わされ、そのことによってかれの免疫機構は著しく弱められていた、ということである。梅毒に感染した人が必ずしも全員定まった症状を発展させるとは限らないが、これはペストのような伝染病の場合も同様で、けして全部が死に絶えるわけではなくて、比較的強靭な免疫機構をそなえた人たちは、むしろ生き残って天寿を全うしたのである。(ここには確実に一つの実り多い免疫学研究の出発点がある!)。
シューベルトの小作りでいくらか不格好な体型(ウィルヘルム・フォン・シェジーの「牛脂の塊」による)、皮膚の発疹の起きやすい体質、かれの幼児期からの弱視は、いずれも慢性の水銀中毒の結果を推測させるものだし、また、かれの予期し得ぬ激情の爆発をともなうビザールな天性もそうである。今日知られているのは、水銀は人を抑欝的にする働きがあり、衝動を抑制すると同時に、反対に突然抑制を解除することもあって 、最後には人間嫌いにさせてしまう、ということである。この特徴はシューベルトの友人たちによって幾度も観察されている。(“シャイで、寡黙で、快活というよりは愚痴っぽい”)。シューベルトのおどけた素振りについては、こう報告されている(“けして明るくまたはのびのびと笑うことはなく、むしろクスクス笑いになって、明るいというより重たく響く笑いであった”)。アルコールを飲む時のかれの態度は、“静かな怒り”と形容されている。“まるでニコニコ笑う暴君という感じで、何か気に入らないことがあると、何かを物音一つ立てずに破壊した。たとえば、グラス、皿、カップ。この時かれはきまって微笑しながら、両眼を小さく縮めるのが常であった”。神経性のチック症か?
以上を総括して確認しておくと、シューベルトは、梅毒の結果ではなくて、水銀による治療の結果死亡したのだ、ということである。1823年から1828年にかけてのHgの体内侵入が、すでにそれ以前から過重な負担として蓄積されていた毒素によって弱っていた肉体を直撃したために、毒性の高い重金属をさらに追加されることに耐え切れなかったのである。
19世紀に行われた、梅毒と水銀中毒の症状の相似性をめぐる議論は、今日もなお響きを失ってはいない。当時の記録にあるような病像は、今日ではもはや観察することはできない。まず考えられるのは、いくつかの症状は咨意的な水銀治療による医原病的な副産物と見なすことができる、ということである。また、Hgの中毒によってはじめて、梅毒の症状の経過が、これほど有害な形で発展することが可能になったのではないか、ということも考慮すべきである。
シューベルトの遺骸は、1863年と1888年の二回にわたって、ベートーベンの遺体とともに発掘調査されている。1888年には、二人の音楽家の頭蓋骨の写真まで撮られているが 、これは頭蓋学的、骨相学的な関心によるものである。そのわずかな断片だけでもわれわれに伝えられていたら、今日の研究施設の高度にセンシブルな技術を駆使して、たとえば歯の一本を手掛かりに、信頼できる真相解明が出来たであろう。シューベルトの毛髪は何本も、官公庁の保管物として各地の博物館に寄贈されている。そのうちのほんのわずかだけでも、かれの病歴を解明することが可能になるだろう。
まだ残る問題は、なぜフェルディナント・シューベルトもまた、同じ病状の下にーー神経熱とチフスーー死を迎えたのか、ということである。ドイッチュによると、シューベルトは、身体の故障を訴え、充血とめまいの症状を呈したので、かかりつけの医師の勧告に従って、1828年の9月1日に兄の所へ引っ越している。この住まいは新築で、それゆえ湿気が漂っていた。建築生物学的観点からすると、壁の湿ったしっくいは呼気の二酸化炭素を吸収して水分を放出する。父親の支出計算によると、ここでは6回の水銀塗布治療が行われて、それによって少なくとも1グラムのHgが居住空間に達し、四方の壁に蓄積されて埃と混じり合ったことになる。この住まいはこうして後の時代にまで汚染されることとなって、それとともに住人の健康まで害する結果を招いたのである。
締め括りとして敢えて一言すると、水銀のプラス面として、(大概の場合)明らかに創造力を極端に刺激する効果がある、ということが挙げられる・・・。
ハンス・D・キームレ(アルゴイのロイトキルヒ在住)。
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