冬の旅」の世界ー原理講論ー by Y・C・M

序:原理のお話
第一曲:お休み
第二曲:風見の旗
第三曲:凍った涙
第四曲:雪と氷の下へ(原題:「凍結」)
第五曲:菩提樹
第六曲:あふれる涙

先ず最初にこれからの講座の目指す「原理」についてお話しすることにするが、私の考えでは「冬の旅」には次の三つの世界がある。

1:W・ミュラーの原詩の世界。これはドイツ語で書かれた詩の原文で、ドイツ語が分からない人には、まったくのチンブンカンブン(珍文漢文)になる。意訳することはできるが、平仄や韻律といった「詩の構造」を、そのまま日本語で再現することは困難である。

2:原詩にもとつ”いてシューベルトが音楽によって再構築した世界。これは歌詞の比重が22%、音楽の比重が78%という割合から成る一つの「小宇宙」である。”音楽には国境がない”、というのがもしほんとうなら、ドイツ語をまったく知らない日本人でも、78%までは理解できることになる。

3:日本の聴衆のために不肖この私が、シューベルトの創造した世界を、日本語の歌詞によって再構築した世界。

最終的に聞いていただくのは当然この「3」であるが、講座という目的からして「1」と「2」も、どうしても避けて通ることはできないだろう。ハナシを分かりやすくするために、まったく別の対象、たとえば古来この国で人口に膾炙している「般若心経(プラジニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラ)」を例に取ってみよう。冒頭の部分を「1」、つまり原詩のまま朗読すると、次のようになる。

「アーリャバローキテーシュバロー、ボデイーサットボー、ガムビラヤーム、プラジニャーパーラミタヤーム、チャリャーム、チャラマーノ、ヴィヴァロカヤーテイー、スマ:パンチャ、スカンダース、タームスチャー、スヴァバーヴァ・シュニャーン、パシャーテイ、スマ。イーハ、シャーリプトラ」。

これを三蔵法師・玄奘が中国語に訳したものが、たいていの人におなじみの文字で、

「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、(度一切苦厄)、舎利子」。

これを古来誰も現代の日本語に訳した人はなく、中国語をそのまま日本風に発音して、

「カンジザイボサツ、ギョウジンハンニャハラミッタジ、ショウケンゴオンカイクウ、ドイッサイクヤク、シャーリーシ」、

と唱えるか、さもなければいわゆる「読み下し」によって、

「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊みな空なりと照見(して、一切の苦厄を度)せり。舎利子よ」、

と読むかどちらかである。私はこれを強引に現代語化して、

「観音さまが般若の行を、深い深い般若の行を、行じ終わって見たならば、五つの謎はみな解けた。いいか、シャーリプトラよ」、

という風に再構築してみた。メロデイーの媒介がないために、あまりよいリズムにはなっていないが、趣旨は通じるはずだ。→「般若心経現代語訳」を参照。

さてこれをシューベルトの歌に当てはめてみると、たとえば最も有名な「野バラ」は、「1」の原詩では、

「ザアアイン、クナアバイン、ロエースラインシテーン、ロエースライン、アウフデル、ハイデン」、

というのが冒頭の歌い出しで、これを”明治の昔”にそのまま歌えるように訳したのが、

「わらべは見たり、野中の薔薇」、という近藤朔風氏の歌詞で、

「子どもが見つけた、荒れ野のバラ」、

というのが「3」としての現代語の邦詩(”訳詩”ではない)となる。厳密にいうと、近藤訳の一つ前の段階として、いわゆる直訳乃至逐語訳というものがあるわけで、それはたとえば、

「ある男の子がバラを一本見つけました。荒れ野に咲いてるバラの花を」、

というようなものになる筈である。このブザマな直訳スタイルのニッポン語を、今回「冬の旅」全曲にわたって付けてもらいたい、という要望もあったのだが、やりはじめてすぐに、これはまことに不毛な作業である、と痛感せざるを得なかった。美しい音楽に乗せた「詩」をもう一度解体して、グロテスクな「散文」に還元するという無益な疲労を重ねることより、シューベルトの「歌」(=詩と音楽が渾然一体となった小宇宙)にもっと肉薄することの方が、はるかに大切な作業ではないか、と思ったからである。「自分の母国語でシューベルトの歌に舌つつ”みを打つ」、という自ら掲げるテーゼにてらしても、「歌える詩」としてのリズムをわざわざ壊して、無味乾燥な直訳を披露することはあまり意味がない、と思うのである。無論原文の”意味”を伝えることは必要だが、ルポルタージュや科学論文の場合とは異なり、語られた”事実を報道”しただけでは、シューベルトの「歌の世界」を解明したことには、けしてならないからである。

また、生きているうちに完成することは無理かも知れないが、シューベルトの全声楽作品の「日本語化」を目指す私として、どうしても言っておきたいのは、それはけっして”訳詩”ではない、ということである。そうではなくて、私がやろうとしているのは、原詩をもとにシューベルトが創造した世界、すなわちかれの「小宇宙」を、自分の「母国語」によって再構築することなのだ。これまでこの国で”お経”や”讃美歌”を日本語に変える際に、多くの人たちが陥ってきたあやまり、たとえばただ”シラブル(綴)”の数を合わせるだけで、「歌う」ことをまったく考えずに、というか自分自身歌って見ることさえせずに制作する、というより”訳詩をでっち上げる”あやまりだけは避けようと考えて、私はそれらをすべて「あたかも日本の歌であるかのように」歌ってもらうために、せっせと日本語化して来たつもりである。ましてそれは、ただ事実を正確に伝える”報道”ではないのだから、原文で語られているすべてを逐語訳することとは、まったく違う作業なのである。もしそう言ってもよければ、それはむしろ、邦詩によるシューベルトの「歌」の再現であり再創造なのだ。そして、それが成功するかどうかは、同じ精神で再現・再創造を目指してくれる歌い手とそしてピアニストの力量にかかっている、といえよう。

以上の「原理原則」にもとつ”いて、これからの講座を進めて行きたい。

第一曲:お休み

ミュラーの原詩の大意(22%)はこうだ。

「よそものとしてやって来て、またよそものとして村を出る。五月は私に好意を寄せて、花束をたくさん贈ってくれた。かの女は私に恋を語り、母親は結婚さえ口にした。今や世界は灰色に変わり、道は雪に埋もれている。私には旅に出る時さえ選べない。自分で道を探すしかないのだ、この暗闇の中で。月の光が道連れとなり、一緒に道を歩いてくれる。白い雪のマットの上を、獣の道をたどって歩く。みんなが早く出て行けというのに、これ以上留まる必要があるだろうか?犬どもよ、主人の家の前で勝手に吠えていろ!恋だの愛だのはみんな、うつろうことを好むものだ。神さまがそう作ったのだから仕方がない。恋は移り気だ。愛する女(ひと)よ、お休みなさい。男から男へと、さっさと乗り換えて行くがいい。愛する女(ひと)よ、もうサヨナラだ。君の夢を邪魔するつもりはない、安眠は大事だからね。足音も聞かせないから、静かに、静かにドアを閉めるがいい。通りすがりにドアの上に、お休みとひとこと書き残そう。君を愛していたことを、せめて分かってもらうために。君を愛していたことを」。

音楽的データ(78%)は:

ニ短調、2/4拍子、105小節(うち1ー6までは前奏、7ー38小節までは2連[シュトローフェ]、最後の6小節は後奏).。歩行の速度を表わすテンポは”Maessig(ほどほどの速さ、という意味で、イタリア語のモデラートに当たる速度)”と指定されていて、それは最後まで変わらない。歌詞の内容からして、ドイツの真冬(零下20度くらいにはなる)の果てしない雪景色の中を歩いて行くのだから、まるでハワイやバリ島の海岸を散歩する男女のように、のんびり景色を見ながら歩けるわけがない。むしろコートのエリを立て、マフラーをしっかり押えながら早足でさっさと進む、という感じがふさわしい。まして、かの女への未練を無理に断ち切って、これから果てしない絶望というか自暴自棄の旅に出ようとしているのだから、後ろ髪を引かれつつも急ぎ足で、というムードでなければならない。「目を覚まさないで、夢を見てろ」、という所からは忽然として長調に変わる。恋に敗れた男が負け惜しみ、というよりもはや破れかぶれの祝福を贈る、というこの場面で突然長調に変わることで、無念というか悲痛な思いを、ここへ来てより一層強調する効果を上げているのである。最後の「さようならと」、という所では”un poco rit.(ウン・ポコ・リタルダンド=ちょっと停滞)"と指定されていて、直訳の「君を愛していたことを」、という未練心ないし最後のあがきにも似た叫びを、ここで再度強調する役割を果たしているのだ。主人公の年齢には関係なく、この最初の曲を聞いただけでも分かるように、かれは愛着を捨てて”悟り澄ます”ことができるような人間ではなく、またそうなりたいと望んでもいない。狂おしいまでの”現世”に対する執着、かの女に対するまるで”ストーカー”のような執念、つまり「妄執」を最後まで捨てることのできないヒーローなのである。これが「墨絵」や「南画」の世界とは180度正反対の小宇宙であることは、それこそ一目瞭然である。”ニル・アドミラリ(無感動)”になるのではなくて、「ムルトウム・アドミラリ(最高の情熱に燃えて)」でなければならない、と前のページで述べたゆえんである。

ではY・C・Mの邦詩を、歌とともに聞いて頂くことにしよう。

 

「冬の旅」

第一曲:「お休み」

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

行方も知らぬ旅に出た

花咲く春ははるか遠く

あの娘(こ)と交わした愛のコトバ

親も許した二人の仲

今では返らぬ遠い想い出

二度と返らない遠い想い出

どこへ向かおうかあてもない旅

暗闇の中を手探りで

月の光を伴に選び

一人とぼとぼと歩いて行く

白い雪の中獣の道を

一人でたどる獣の道を

村人に追われ帰らぬ旅

犬どもの吠える声を背にして

心変わりは人の世の常

女の心はあてにならない

心の冷えた君よさらば

不実な女(ひと)よもうさよなら

目を覚まさないで夢を見てろ

足音も聞くなドアを閉めて

通りすがりにたったひとこと

書き残して行けば分かるだろう

ひとことドアにさようならと

書いて旅に出るさようならと

さようならと・・・。

 

*「Y・C・Mのかへしうた(反歌)」:

この上は通りすがりにドアの上(へ)にただおやすみと記して去らう

*現在”短歌”と呼ばれているものは、もともと「万葉集」の時代には「反歌」といい、本編としての「長歌」のあとに、いわばレジュメとして追加された31文字を表わすものであった。それに倣って私は、原曲そのものを「長歌」と考えて、そのレジュメとしての拙い31文字を24曲全部に付け加えてみた。御笑覧を!と言っても、これはけして「遊び」ではなくて、シューベルトの歌に触発されて、私自身の心情を吐露したものでもあるので、あえてここにご紹介する次第である。

 

第二曲:風見の旗

原詩の大意:

「風がたわむれる風見の旗、美しいあの娘(こ)の家だ。それだけでもうぼくは、あの娘(こ)がこのあわれな負け犬を、口笛で追っ払おうとしてる、と思い込んだ。”もっと早く分かったはずよ、この家にかかった名札を見れば。そうすれば二度と探そうとはしなかったでしょう、この家の中に真心のこもった女の姿なんかを”。風は屋根の上と同じように、心の中もかきまわす。でも、騒がしい音は立てないで。苦しみのわけなど尋ねられても、それが何になる?あの子は金持ちの花嫁なのだ。風は(以下繰り返し)」

音楽的データ:

イ短調、6/8拍子、51小節。テンポは「Ziemlich geschwind やや速めに」、と指定されている。前奏の5小節だけですでに、風が吹いて来て屋根の上の風見の旗が震えるさまが、心憎いばかりに描かれている。そして、まさにこの風のように、かれの心を弄んだ美しいかの女のせりふが、かれの心を空しく震わせるのだ。家の表札(「ドアに貼られた新しい札」)を見れば明らかなように、「あの娘(こ)はすでに人妻」なのだ!「風になぶられこの心も旗のように震える」。この部分は「leise 小声で」、とわざわざ指示されている。そしてフェルマータで一呼吸してから、今度は「laut 大声で」と指示された次の詩節が来る。「慰めなどいらない、あの子は金持ちの花嫁」なのだから。以下は同じコトバの繰り返しになるが、この繰り返しによってかれの激情はますます昂められ、情景はますます劇的な様相を帯びて行く。しかも単なる反復ではなくて、二度目は「慰めなどいらない」が二度繰り返されたあと、「あの子は金持ちの花嫁」のメロデイーもまた、クライマックスにふさわしい劇的な盛り上がりを見せて全体をしめくくる。かれにとって最も致命的なコトバ「金持ちの花嫁」、これが最後は、歌唱声部が高いEの音で長く引っ張られると同時に、ピアノ伴奏の右手がAから半音階で、1オクターブよりさらに5度高いEまで階段状に昇って行く、という構造で描かれている。最後の5小節は冒頭と同じ音型が帰ってくるが、最終小節で最後の八分休止符が二つ並んだ上に、フェルマータ記号が左右双方のピアノパートに対して付けられている。これは、風が納まって旗の揺れもなくなった空しさと同時に、かれの未練の最後の残り火、つまり現実のかの女との接点までもが、ついに消えてしまった情景を象徴しているように思われる。このあとかれは黙ってその場を立ち去ったのだ。

 

「風見の旗」(D911−2)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

風見の旗が風に揺れる

私のあの娘(こ)の家

たちまち閃いた

ここには長居は無用

もっと早く悟るべきだった

ドアに貼られた新しい札

一目見たなら諦めたはず

あの娘(こ)はすでに人妻

風になぶられこの心は

旗のように震える

慰めなどいらない

あの娘(こ)は金持ちの花嫁

風になぶられこの心は

旗のように震える

慰めなどいらない

慰めなどいらない

あの娘(こ)は金持ちの花嫁

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

たはむれの風見の旗は妹(いも)が屋根に小さく揺れて空しく静まる

 

第三曲:凍った涙」:

原詩の大意:

「凍った滴(しずく)が頬から落ちてくる。忘れていたのだろうか、自分が泣いていたことを?泣いていたことを?涙よ、私の涙よ、どうしてそんなに淀んでいるのだ?氷に変わる朝露のように?胸の底から湧いて来る涙は、こんなに燃えるほど熱いのに。まるで冬中の氷を融かしてしまうほど。冬中の氷を。ー胸の底に(以下繰り返し)」。

音楽データ:

ヘ短調、4/4拍子・アラ・ブレーベ、55小節(うち冒頭7小節は前奏、最後の6小節は後奏)。テンポは「Nicht zu langsam 遅すぎないように」、と指定されている。伴奏のピアノにはスタッカートが付いていて、「凍りついた滴(しずく)が頬から落ち」て来るさまを描写している、と考えられる。「流す涙よ」、と呼びかける所で初めてこのスタッカートは消えて、「氷に変わる露」の鈍く物憂い動きを表わす。そして、そこから一気に真の主題である「胸の底に湧く涙」が登場して、「まるで冬中の氷が融けるほど」、というセリフがこの「涙」の熱さ、つまりヒーローの情熱の熱さを強調しつつ、聞く人の耳をそばだてさせて放さない。「冬中の氷(邦詩では「氷も融けるほど」)」という単語は、なんとそれから三度も繰り返されるのだ。三度目の、そして最後の「冬中の氷(「氷も融けるほど」)」にだけ「stark 強く」、という指示が与えられている。このわずか一小節に篭められたヒーローの涙の熱さと、そしてまさにシューベルトの自己表現に篭められた熱情とは、別のところで「まるで南の国の火の山から迸(ほとばし)る溶岩流のようだ」、と形容せざるを得なかったほど激しいものがある。まさにこれこそ、真の意味で「声涙ともに下る歌いかた」にふさわしい曲である。アインシュタインは、「シューベルトはきっと一人でそっと、これを歌いながら泣いたにちがいない」、と何曲もの歌について言っているが、これもまさにその一つであることは確信できる。

「凍った涙」(D911ー3)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

凍りついたしずくが頬から落ちた

忘れていたのか、泣いていたのを

泣いていたことを。

流す涙よ、なぜ淀むの?

氷に変わる露のように

胸の底に湧く涙はこんなに熱い

まるで冬中の氷も融けるほど

氷も融けるほど。

胸の底に湧く涙はこんなに熱い

まるで冬中の氷も融けるほど

氷も融けるほど!

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

冬中の氷も融けよとかくまでに熱き涙を今日も流しつ

 

第四曲:雪と氷の下へ(原題:「凍結」)」

原詩の大意:

「私は空しく雪の中に、かの女の歩いた足跡を探す。そこは二人で手をつないで歩いた、あの緑の野原の上だ。私は空しく(繰り返し)。私は地面にキスしたい。氷と雪を貫いて。私の熱い涙で貫いて。地面に、地面に出会うまで、熱い涙で貫いて。私は地面に(繰り返し)。どこに花があるだろう?どこに緑の草があるだろう?花はみんな死に絶えて、草原はあんなに青ざめてしまった。花はみんな(繰り返し)。どこに花があるだろう?どこに緑の草があるだろう?では何の思い出ぐさもなく、ここを去れというのか?私の胸の痛みが沈黙してしまったら、一体だれがかの女のことを伝えてくれるのか?では何の(繰り返し)。私のハートは凍りつき、かの女の姿が冷たく固く焼き付いたままだ。いつかまた融ける日がきたなら、かの女の姿も、かの女の姿も流れるだろう。私のハートは(繰り返し)」。

音楽データ:

ハ短調、4/4拍子、109小節。これは「通作された(durchkomponiert)リード」で、テンポは「やや速めに Ziemlich schnell」、と指定されている。大きく分けて「リード=ドイツの歌」には二種類あって、一つは「有節リード Strophenlied」といい、一番から何番まででもまったく同じ形式が繰り返されるタイプのもの、もう一つがこの「通作リードdurchkomponiertes Lied」である。しかしこの歌は、同じ詩節が再度繰り返される部分が、途中で三度も出て来るので、その意味では「有節リード」の特徴をも兼ね備えている。こういうのを「変形有節リード veraendertes Strophenlied 」、と分類する研究家もいる。同じ歌詞と同じメロデイーが、微妙に色合いを変えながら、何度も繰り返される度に、次第に情熱がいわば「螺旋状に」高まって行く、という手法こそ、まさにシューベルトの真骨頂である。さらに、最後の6小節の後奏は、最初の前奏6小節と同じことを繰り返しているが、これはいわば”ad infinitum(このあとずっといつまでも)”という符号であり、最後のフェルマータ付き全分音符がなければ、それこそ曲全体が無限に繰り返されかねない構造になっているのである。後の時代になって初めてもてはやされる「無限旋律」というものの萌芽を、われわれは早くもシューベルトの手法の中に見て取ることができるのだ。いわゆる「トリスタン和音」といいこれといい、まるでガリバーが「火星の衛星を二個発見した」のと同じような「時代錯誤の天才性」を、シューベルトの中に発見して驚嘆するばかりである。

 

「雪と氷の下へ」(D911−4 原題:”凍結”)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

雪にあの娘(こ)の足跡求め

二人で手をつなぎ

歩いたこの道を

足跡たどる同じ道を

手を取り歩いた緑の原を

口つ”けしたい

氷を貫く熱い涙で

土に会うその時

口つ”けしたい

雪を融かすこの熱い涙

土に出会う時

花は見えない

緑はどこ?

花は死に絶えて

草も萌えず

花は死に絶えた

草も消えた

花は見えない

緑はどこだ?

想い出草もなくここを去る?

この胸にうずく傷だけが

想い出か?

想い出となるものなどない?

この胸にうずく傷だけが想い出?

凍った心にあの娘(こ)の姿

いつか融けたなら

あの娘(こ)も流れる

凍った心にあの娘(こ)の顔

いつか融ける日が来たなら

あの娘(こ)も流れる

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

この胸にうずく痛みのあるかぎり妹(いも)が名伝へむよろず世までに

 

第五曲:菩提樹」:

原詩の大意:

「市門の前の噴水のほとりに、菩提樹が一本立っている。その木陰で私はたくさんの甘い夢を見た。その木の幹に、たくさん愛のコトバを刻み付けた。嬉しい時も悲しい時も、その樹は私を惹きつけてやまなかった。今日もまた私は、真夜中のさすらいの途中で、樹のそばを通り過ぎなくてはならなかった。その時私は暗闇の中で、ふと両目を閉じた。すると、木の枝がさわさわと鳴り、まるでこう呼びかけているようだった。”こちらへおいで、若者よ、ここにおまえのやすらぎがある”。冷たい風が吹いて来て、顔にまともに吹き付けた。帽子が頭から飛んでしまったが、私は振り返りもしなかった。今私はあの場所から、何時間も離れた所にいる。でもいつまでも耳に聞こえるのはあの囁きだ。”あそこにおまえのやすらぎがあったのだ”。今私は(繰り返し)」。

音楽データ:

ホ長調、3/4拍子、82小節。テンポは「Maessig ほどほどの速さで」、と指定されている。邦詩では近藤朔風も私も、歌い出しは「泉に沿いて」(近藤)、「泉のほとり」(Y・C・M)とするしかなかったが、これは原詩では”噴水”もしくは”井戸”とする方が正確な構築物を指している。ヨーロッパの都市というのはたいてい、外敵から生命・財産を護るために、外界と市内を隔てる壁と門を備えていて、出入りは厳重にチェックされていた。その「市門」の前に噴水があり、その前に菩提樹が立っていた、という情景をまず理解してほしい。さて、この歌もまた”変形の有節リード”で、木の枝のそよぎを絶妙に描き出した7小節の前奏に続いて、「蔭に隠れた」までが長調、「今日もさまよう」から「両目を閉じた」までが短調、「枝はざわめく」から「ここが安らぎ」までは再び長調、という構造になっている。さらに、「冷たい風が」から「振り返らない」までは、突風を表わす異種類のメロデイーによって歌われ、フェルマータで一呼吸した後、「あの木陰から遠くはなれて」、という部分で再びもとのメロデイーに戻り、「ここが安らぎ」という木の囁きを二度繰り返して、ようやく全体をしめくくっている。このような「重層構造」を無視して、一般にこの曲は最後まで同じメロデイーを繰り返す「民謡調」で謡われることも多いが、厳密に言えば、それではこの曲の真価をほんとうに味わうことはできないだろう。この「木の呼びかける甘い囁き」には「魔性」が秘められていて、コトバを変えれば「死へのいざない」、というか「自殺へのよびかけ」、と言っても過言ではない不気味なメッセージが篭められているのだから。少なくとも、「死こそが最後のやすらぎ」だ、という人生観というか死生観は、かれシューベルトの内面に根を下ろした確信の一つだった、ということだけは知っておいてほしいと思う。これを単なる”絶望感”や”厭世思想”と見るか、それともキリスト教以前の古代人の死生観への回帰と見るかは、意見の分かれる所であるが、少なくともわれわれ東洋人のマニアは、あくまでも後者だという確信を抱き続けている。

 

「菩提樹」ミュラー詩 Y・C・M邦詩

泉のほとり、繁る菩提樹

あの樹の蔭で、甘い夢見た

幹に彫り付けた、愛のコトバ

悲しい時には、蔭に隠れた

今日もさまよう、暗い真夜中

暗闇の中、両目を閉じて

耳をすませば、聞こえてくる

こちらへおいでよ、ここがやすらぎ

冷たい風が吹き付けて

帽子が飛んでも、振り返らない

あの木陰から遠く離れて

今も聞こえる甘いささやき

遠く離れても、聞こえてくる

こちらへおいでよ、ここがやすらぎ

ここがやすらぎ

 

第六曲:あふれる涙」

原詩の大意:

「私の目からあふれる涙は、たいてい雪の中へ落ちて行く。その冷たいかけらを、渇いたように熱い嘆きが吸い込んで行く。草がまた芽をふき出すと、こちらへやわらかな風が吹いてきて、氷は割れて細かい粒になり、やわらかな雪が溶け出す。雪よ、私の憧れを知っているのなら、言ってくれ、おまえの行く先を!ただ私の涙の後をついて来れば、やがて小川が呑み込んでくれる。小川がおまえを呑み込んでくれる。小川とともに町に入れば、にぎやかな通りを出たり入ったりするだろう。そして私の涙が熱く燃えるのを感じたら、そこにかの女の家がある。そこにかの女の家があるのだ」。

音楽データ:

ホ短調、3/4拍子、32小節、2連(シュトローフェ)構造。テンポは「Langsam ゆっくり」、と指定されている。これはイタリア語なら”ラルゴ”または”レント”に当たる速度だが、必ずしも機械的にテンポが決まっているわけではなく、歌う歌手の趣味(といって語弊があるならフィーリング)乃至個性によって、”あそび”の余地はかなりあるだろう。ただし、作曲者がなぜ「ゆっくり」と指定したのか、ということだけは理解する必要がある。ここでのヒーローは、目的地へ急いでいるのではなくて、泣きながら雪の中に立ちすくんでいるのだから、もはや「歩く速度」では速すぎるのだ。さて、「厚い雪も溶け出す」、というセリフは二度繰り返されるが、二度目に「stark 強く」という指定がある。ここがいわば前半、つまり第1連のクライマックスで、第2連、つまり後半のクライマックスで全体をしめくくる「そこがあの娘(こ)の家」というコトバと照応している。同じように「熱いい嘆きのしずくが」、と「厚い雪も融け出す」という二つも、それぞれ二度繰り返されるが、無論これらはいずれも原詩にはないシューベルトの”改造”である。この曲の場合に限らず、このような「音楽による改変加工」によって、詩作品そのものがいかに目覚しく生まれ変わるか、ということはいくら強調しても足りない。それはもはや「原詩の世界」とは違う、一つの「新しい宇宙」なのである。シューベルト以前のリード作曲家、たとえばゲーテのお気に入りであったツェルターという人などは、大詩人の機嫌を損ねないように、このような改造は一切避けて、詩を「朗誦」する時のリズム・メロデイーを、ほとんどそのまままるごと生かして作曲するように心がけた、といわれているが、そんな作品が後世にはまったく残らなくても、それは何の不思議でもない。この「冬の旅」という作品全体は、ミュラーの詩によって残っているのではなく、もっぱらシューベルトの音楽によって不朽の名声を得ているのだから。このことは、たとえ相手がゲーテやハイネのような大詩人であっても、少しも変わりはないのである。シューベルトは音楽によって、”原詩”とはちがう一つの新しい宇宙を創造したのだから。

 

「あふれる涙」(「冬の旅」第6曲)

W。ミュラー詩

Y・C・M邦詩

涙はあふれて、雪に吸われる

冷たい足元に、熱い嘆きのしずくが

静かに落ちてく。

春になれば草花も、風に吹かれ芽を出す

固い氷も融けて流れ、厚い雪も融け出す

厚い雪も溶け出す。

雪でもこの思いを、知っているだろう

涙のあとをたどり、川になって流れて行け!

涙の川になれ!

流れ流れ、街に入れ、にぎやかな通りを

熱く燃える涙の川、そこがあの娘(こ)の家

そこがあの娘の家!

 

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