冬の旅の世界3

13:「郵便馬車 16:「最後の希望
14:「霜降る頭 17:「村で
15:「カラス 18:「嵐めく朝

第13曲:「郵便馬車

原詩の大意:

「通りの向こうから、郵便馬車のラッパが聞こえる

どうしてそんなに小躍りするのだ、私のハートよ?(繰り返し)

馬車はおまえに手紙なんか運んで来はしないのに、

何故そんなに血が騒ぐのだ、私のハートよ?

馬車はおまえに手紙なんか、運んで来はしないのに、私のハートよ、

私のハートよ、何故そんなに血が騒ぐのだ、私のハートよ。

なるほど、馬車が来たのはあの町からだからだな

恋しいかの女が住んでいる、あの街からだからなのか、私のハートよ

恋しいかの女が(繰り返し)

おまえはきっともう一度、あの町の方を眺めやり、

かの女の様子を知りたいんだな、私のハートよ、私のハートよ

おまえはきっと(繰り返し)」。

 

音楽データ:

変ホ長調、6/8拍子、94小節。テンポはEtwas geschwind(少し速めに)と指定されている。最初の8小節は前奏、最後の2小節が後奏である。前奏部は馬のひずめが闊歩するような快活なリズムを刻む。歌はほぼ同じ音形から成る前半と後半に別れるが、純粋な「有節リード」として扱うのには問題がある。前半と後半とは、まったく同じことを繰り返しているわけではないからである。やはりこれも、わずかな変化を伴う「変形の有節リード」と分類すべきものだろう。歌い出してまもなく、「胸がときめくのはなぜ?」という所でクレシェンドとなって1オクターブ上のF音が、フォルテで4拍(付点2分音符+4分音符の長さ)引き伸ばされる。ここではまだ「胸がときめく」原因は不明で、ピアノ伴奏部がp(ピアノ)に変わって同じ自問が繰り返される:「なぜだろう?」という疑問が。伴奏がさらにpp(ピアニシモ)になり、「手紙は来ないのになぜか血が騒ぐ」、という呻吟を繰り返した後、全体がf(フォルテ)となってFからAにまで昇って引き伸ばされ、「なぜか知らないが血が騒ぐ」という大きな情熱の発露となって前半をしめくくる。7小節の中間部が前奏と同じひずめの闊歩をピアノで奏した後、「町から来た馬車」と歌いだしたところで、ヒーローはハタと気つ”くのである。「町にはあの娘(こ)がいる」のだということに。ここでもまた1オクターブ上のF音がフォルテで引き伸ばされる。そしてこの科白(せりふ)を二度も繰り返す。「町にはあの娘(こ)が住んでいる」のだという科白(せりふ)を。そして最後は、「町に目を向けて、ウワサなりと知りたい」、というピアニシモの悲しい呻吟が続いたあと、「せめてウワサを、どうしているのか知りたいよ」、という叫び(それでもpピアノ)になって終わる。その間に、馬車は空しく通り過ぎて行ってしまう。最後の2小節にそれぞれ1個つ”つ割り当てられた4分音符が、遠ざかって行くひずめの空しい響きを象徴している。携帯電話やEメールの時代になって、こうした風情を”のんびりした古きよき時代”へのノスタルジアをかきたてる手段としてのみ味わう、というのはあまり感心できない鑑賞法である。シューベルトより百数十年も後に生を享けた私の思春期には、郵便配達の赤い自転車が、この「郵便馬車」とまったく同じ役割を果たしていたし、現在でも郵便配達夫のバイクが同じ役割を果たさないという保証はない。「手紙は来ない」し、来るはずはなくても、それでもこの老人の「血が騒ぐ」ことはあるのだから。

 

「郵便馬車」(「冬の旅」第13曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

郵便馬車のラッパに

胸がときめくのはなぜ?

胸がときめくのはなぜだろう?

手紙は来ないのに

なぜか血が騒ぐ

なぜだろう?

手紙は来ないのに

血が騒ぐ

なぜか知らないが

血が騒ぐ

町から来た馬車

町にあの娘(こ)がいる

町にあの娘がいる

住んでいるよ

町に目を向けて

うわさなど知りたい

ぜひとも

町に目を向けて

せめてうわさを

どうしているのか

知りたいよ

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

愚かにも郵便馬車の角笛に心ときめくさすらひの果て

 

第14曲:「霜降る頭

原詩の大意:

霜が白い光を私の髪の上に撒き散らした

私はもう白髪になったかと思い込み、

とても喜んだ

でもまもなく霜は融けて消え去り、

もとの黒い髪が現われて

自分の若さに戦(おのの)くほかはなかった

墓への道はなんと遠いことだろう(繰り返し)

夕陽が沈んでから朝の光が射すまでに

白髪になってしまう人もある

信じられるか?私の髪はこの旅路の果てまで

まったく白くならないのだ

この旅路の果ての果てまで来ても

 

音楽データ:

ハ短調、3/4拍子、43小節。テンポはEtwas langsam(ややゆっくり)と指定されている。最初の4小節が前奏、最後の2小節が後奏。前奏が「霜の白い粉が髪の上に落ちる」さまをゆっくりと描写した後、歌がまったく同じ旋律を奏で、伴奏も同じ音形を繰り返す。「年寄りになったととても喜んだ」の部分では、同じ音形が当然のように長調で繰り返される。これが単純な喜びでも単純な悲しみでもないことは、「壷中の消息」に通じた人ならたやすく見て取れるだろう。「年寄りになったかと」ヌカ喜びをしているヒーローは、まだ髪も黒々とした若者なのだ!そして事態はさらに悲惨な段階へと進む。霜は「すぐに融けてもとの黒い髪」が露出してしまうのだ!「若さが呪わしい」、このフレーズの包含する絶望の叫びに匹敵する表現は、他にはめったに類がない。そしてさらに続くうめき声、「墓への道はまだまだ遠い」、この凄まじい血を吐くような絶叫もまた比類を絶している。その先はまた歌い出しのメロデイーが帰ってきて、「日が暮れる前に白髪になる人もある」、とヒーローは述懐する。ピアノが同じ音形を奏でた後、「誰が信じるだろう?黒い髪のままで、長い旅を行くと」、という安堵の吐息のような長調と、侘びしい短調とを交換させて全曲を閉じるが、後奏2小節は、これからの暗澹たる旅路を象徴するかのように、短調のフレーズを奏でている。作詩者のミュラーもシューベルトも、ついに「白髪になるまで」生きなかったわけであるが、白髪どころか後頭部に禿を頂き、歯が抜けてしまうまで生きた私としても、この痛切な叫びはけして「他人事」ではない、と思っている。精神分析の巨匠・C・G・ユングの患者の一人は、「私は若い時に若さを満喫したことは一度もなかったが、年取ってからもうまく年寄りの生き方ができないのだ」、と語っているが、これこそわれわれ(ミュラー、シューベルト、この患者そしてこの私)に共通の宿命なのかも知れない。「死ぬことが最悪のことではないと言ひしシューベルトより長く生き居り」。これは私がまだ30代の時に詠んだ和歌である。

 

「霜降る頭」(「冬の旅」第14曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

霜の白い粉が髪の上に落ちた

年寄りになったと、とても喜んでた

でもすぐに融けて、もとの黒い髪

若さが呪わしい

墓への道はまだまだ遠い

日が暮れる前に、白髪になる人もある

誰が信じるだろう、黒い髪のままで

永い旅を行くと?

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

黒髪に霜は降るともたまきはる命の道を空しく費やす

 

第15曲:「カラス

原詩の大意:

一羽のカラスが町から

ずっとついて来て離れない

今日までずっと頭の上を

飛び回ったままだ

カラスよ、変な奴だなおまえは

私をつけ回すつもりか?

分かったぞ、おまえはやがて

オレが餌食になると思ってるな

先の道程はもう永いことではない

旅の杖ももう終わりは近い

カラスよ、最後にオレに見せてくれ

墓場まで続く真心を

カラスよ、最後にオレに見せてくれ

墓場に至る忠誠を

 

音楽データ:

ハ短調、2/4拍子、43小節。テンポはEtwas langsam(少しゆっくり)と指定されている。最初の5小節は前奏、最後の5小節が後奏。ピアノの左手が不吉な三連音符を刻み、右手がカラスの物憂げな羽ばたきを表わすメロデイーを奏でる前奏に続いて、「カラスが一羽」から「頭の上」までの歌が静かに始まる。2小節おいてヒーローは突然、「おい、何してる、ついて来るか?」、とカラスに呼びかける。そしてハタと思い当たって、「そうか、死んだなら肉を食うか?」、と独りごつ。そして「永くはないさ、やがて餌食だ」、と悲しい諦念のうめきを口にする。そしてここから一気にクライマックスの絶叫というか、まさに「泣血哀慟」という形容こそがふさわしい絶唱へと突き進むのである。「カラスよ、見せろ、まことの愛を、カラスよみせろ、最後の愛を!」。このまさしく「血を吐くような魂の絶叫」は、私にとって初めて聞いた青春時代から、”今年60のおジイさん”になるまで、一度として耳を離れることのなかったセリフである。この間に自分がこれと同じ叫びを何度絶叫したかに至っては、それこそどんな高性能のコンピューターでも、けして数え尽くすことはできないだろうと思う。このまま終わるとすれば結局私にとっては、このコトバがまさに「人生」そのものを表わすことになるわけで、「カラスの餌食になるための一生」というのはまことに悲惨の一語に尽きる、というほかはない。その意味では、私の半分しか生きなかったミュラーもシューベルトも、詩を作り歌を歌いつつ、これと同じ深い絶望感にうちひしがれていたであろうことは想像に難くない。しかし、その「絶望」は作品としていつまでも残り、世界中で歌い継がれ語り継がれることによって「変容」し「聖別」されるのだ。芸術作品としていわば「永遠の生命」を獲得するのである。これはもはや単なる「絶望」ではなくて、宇宙の空に金文字で高々と掲げられる、一個の勝利の記念碑となって生まれ変わるのである。避け難い運命を象徴する不吉な「カラス」は、むしろ「天の使い」、「ミューズの化身」へと変容するのである。

 

「カラス」(「冬の旅」第15曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

カラスが一羽憑いて離れない

今日も一日頭の上

おい、何してる?

離れないか?

そうか、死んだなら

肉を食うか?

永くはないさ、やがて餌食だ

カラスよ見せろ

まことの愛を!

カラスよ、見せろ

最後の愛を!

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

ぬばたまのカラスをまことの友として死出の旅路をしばし進まむ

 

 

第16曲:「最後の希望

原詩の大意:

木々のあちこちに、色つ”いた葉が見える

私は幾度も木々の前に

物思いにふけりながら立ち尽くした

ふと一枚の葉に目を留めて

私の希望をそれに賭けた

風がその葉をなぶるたびに、

私は思い切り震えていた

あっという間もなく

その葉は地面に落ち

私の希望も地に落ちてしまった

そして私自身も地面に倒れていた

泣けよ泣け、私の希望の墓に向かって

泣けよ泣け、最後の希望の墓に向かって

 

音楽データ:

変ホ長調、3/4拍子、47小節。テンポはNicht zu geschwind(あまり速すぎないで)、と指定されている。最初の5小節は前奏、最後の4小節は後奏。スタッカートの付いた左右のピアノは、木々に止まっている葉のありさまを画いている。まさに「風前の灯火」で、風が一吹きすれば飛んでしまうような危うさを現わしている、と考えられる。歌が同じメロデイーを奏でた後、「いつも立ち止まり願いを賭けた」から「一つの葉を決めすべてを託した」、と次第に悲痛なムード(不協和音の連続)が高まって、「風がゆするたび震えて見てた」のところで、ついに張り詰めた神経の糸は、まるで電線に引っかかった凧のように宙吊りの状態になる。中間部の伴奏がこの「宙吊り」の状態を、なんと4小節も引っ張り続けるのだ。そしてあっけなく「見る間に葉は落ち」てしまう。a tempoと指定された1小節のピアノの後、「希望も消えた」というヒーローの絶望の声とピアノのなぞる音、そして「私も倒れる」シーンが続く。それからほぼ無限に近い時が流れて、あるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者が述懐しているように、「時の系列に従って記憶を呼び起こすこともないまま」、まるで時が止まってしまったようなクライマックスの、ヒーローの悲痛な泣き声だけが虚空を震わせるのである。「泣けよ泣け、希望を墓に埋め、泣けよ泣け、青春の墓場に」、と。最後の歌が始まる前のピアノで奏されるたった1小節、この部分こそまさに、すべてを忘却の闇に吸い込む「レテのブラックホール」の深淵以外の何であろうか。そして最後の4小節の後奏。闇夜に瞬きを繰り返す数知れない星のように。これこそまさに、古代人の確信、つまり「この世で非業の死を遂げたヒーローやヒロインは、すべて夜空を彩る星々となって永遠に輝く」、という死生観への回帰を象徴するもののように思われる。すなわち、果てしない絶望の向こう岸に、初めて希望の星が永遠に輝くのだ、という確信である。

 

「最後の希望」(「冬の旅」第十六曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

あちこちに葉をつけた樹が見える

いつも立ち止まり願いをかけた

一つの葉を決め、すべてを託した

風が揺するたび、震えて見てた

見る間に葉は落ち

希望も消えた

私も倒れる

泣けよ泣け、希望を墓に埋め

泣けよ泣け、青春の墓場で

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

葉とともに最後の希望も散り果てぬ泣きて自伏(ころふ)す荒床の上に

 

第17曲:「村で

原詩の大意:

犬どもは吠え立て

鎖はがたがたと鳴り

人々はベットの中で眠っている

かれらは多くの夢を見るが

できないこともできたつもりで

良くも悪くも元気を回復して

朝になればすべては消えている

それでいい、それでいい

勝手に夢を見てるがいい

やり残したことをやろうとしても、

取り戻したいと思っても、

つかめるものは枕だけだ

ワンワン吠えて追い立てるがいい、

目を覚ましている番犬どもめ!

まどろむ余裕など私に与えるな

私はあらゆる夢をとうに捨てた

夢見る人々のところで

時間をつぶしてはいられない

私はあらゆる夢を(繰り返し)。

 

音楽データ:

ニ長調、12/8拍子、49小節。テンポはEtwas langsam(ややゆっくり)と指定されている。最初の5小節が前奏、最後の3小節は後奏。前奏の部分は、犬が鎖をがたがたさせているような雰囲気を、ピアノで絶妙に醸し出して始まる。左手には唸り声や吠え声も混じっているかも知れない。歌は「犬は吠える、鎖が鳴る、人は眠る寝床の中」、と静かに真夜中の村の情景を陳述するだけだ。そして、ほとんど同じ音形で「夢を見て慰めて、はかないこの世を渡る。朝になればみな消える」、と歌う。そして、ほとんど1小節と間をおかずに、「さようなら、夢を見て眠れ」から、「つかめるものは、腕に抱いてる枕だけ」、という超然とした批評を、寝ている村人たちに静かに加える。村人に対するこの冷淡な態度は、必ずしもヒーローが”都会人”だからという理由では説明できない。シューベルトが真実そう語ったと言われているコトバとして、「ぼくはたびたび、自分がこの世界に属していないような気がする」、というのが知られているが、このヒーローの態度もこのように理解してはじめて、聞く人が誰でも納得の行くものとなるはずだ。別の言い方をすれば、「アウトサイダー」の「インサイダー」に対する違和感、もっとドギツく言えば「宇宙人」ないし「エイリアン」の、「地球人」というか「フツウの社会人」に対する違和感である。この先はさらにハッキリと、「吠え続けろ、番犬どもめ、眠らせずに追い立てろ!」、と犬を挑発したかと思うと、最後にあたかもすべての「普通人=世間人」に投げつける捨てぜりふのように、「私はとうに夢を捨てた。夢見る人に用はない」、と大声で(クレシェンド)二度繰り返して全曲を終わっている。そして後奏は前奏とほとんど同じ音形を繰り返して、ヒーローが次第に村を離れて行き、番犬の声と鎖の音が遠ざかって行くさまを描写して消えて行く。

 

「村で」(「冬の旅」第十七曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

犬は吠える、鎖が鳴る

人は眠る、寝床の中

夢を見て慰めて

はかないこの世を渡る

朝になればみな消える

さようなら、夢を見て眠れ

欲にかられ、手を差し出しても

つかめるものは、腕に抱いてる

枕だけ

吠え続けろ、番犬どもめ

眠らせずに、追い立てろ

私はとうに夢を捨てた

夢見る人に用はない

私はとうに夢を捨てた

夢見る人よ、さようなら

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

人の見る甘い夢さへ振り捨てて番犬に追はれ今日も旅立つ

 

*第18曲:「嵐めく朝

原詩の大意:

嵐が空の灰色の衣を、なんと無残に引き裂いてしまったことか!

ちぎれた雲のきれはしが、くたびれたような闘争をくりひろげて

あちこちと駆け回る、あちこちと駆け回る

そして赤い朝日の炎が、雲の間を駆けめぐる

これこそ私の心にふさわしい光景だ!

まるで私の心が空に画かれて、そのまま繰り返されたように

これこそまさに冬そのものだ(繰り返し)

冷たく荒々しい、真冬そのものだ!

 

音楽データ:

ニ短調、4/4拍子、19小節。テンポというより歌いかた(演奏法)は、Ziemlich geschwind ,doch kraeftig(やや速めに、でも力強く)、と指定されている。最初の2小節が前奏、最後の1小節だけが後奏。フォルテで奏される2小節の前奏が、嵐の爪あとをとどめた冬の朝の光景をまざまざと画き出す。歌は、「昨夜の嵐で雲はちぎれ」から「空を翔ける」まで、それこそ息も継がずに一気に歌われる。中間に短く鋭く、5個の三連音符が連続してピアノの右手で奏される部分を経て、「赤い舌を伸ばす」から最後の「荒れる真冬」までの部分は、すべてフォルテイッシモffで歌われ、ピアノで演奏され、これ以上激しい感情の表出は不可能と分かって、中間部分と同じ音型をピアノでもう一度奏して、全曲を一気にあっけなくしめくくる。これはまさに超時代的な迫力というより、むしろ破壊力を秘めた作品である。まるで爆薬のように、聴衆を吹き飛ばしてしまうほどの破壊力がそなわっている。「友人たちが気に入る」わけがない。真冬の氷の塊も、時には凶器となって人を殺傷する能力を秘めているが、この曲はそんな生易しい迫力ではない。巨大な氷河が雪崩となって町を襲うように、まさに「世界を震撼させる」力を秘めているのだ。「君たちもいつかこれらの曲が、どのリードよりも気に入るようになるよ」、とかれみずから予言したように、「冬の旅」という作品そのものが、音楽の力によって、「音楽の世界」を変え、そしてついには「世界」そのものを変えて行くのだから。

 

「嵐めく朝」(「冬の旅」第18曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

昨夜の嵐で雲は千切れ

切れた一つ一つが争って

空を翔ける

赤い舌を伸ばす

朝の日の光

これこそ私の迎える朝

私の心も空と同じ

心の底はこの空のように

荒れる真冬

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

そこここに嵐の爪痕をとどめたる冬の旅路の朝を迎へる

 

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