「怒れるデイアナに」
マイルホーファー原詩 Y・C・M邦詩(このまま歌えます)
私を射る弓を張れ、女神よ!、怒りの姿も魅力的!
私を射る弓を張れ、狩りの女神!怒り狂う姿も素敵!
顔を赤らめ怒り狂う。後悔はしない、後悔はしない。
薮の蔭の道で、ひときわ美しい姿を見た。
美しい火花が飛び散った。身体から火の粉が飛び散った。
後悔はしない。後悔はしない。
藪の蔭の道で、ひときわ美しいからだを見た。
瞼に二度と消えない姿が映った。
闇に二度と消えない姿が残った。(間奏)
このまま死んでも悔いはしない。
吐息も軽く吐き尽くせる。その光を浴びて、
しあわせにつつまれて。
このまま死んでも悔いはしない。
ため息も軽く吐き尽くせるよ。
裸の光を浴びて、しあわせにつつまれて!
矢が来た!
流れる血潮も、あたたかな岸辺の波のよう(くりかえし)。
身体は麻痺しても、あの姿だけは忘れない。
すべての記憶を無くしても、
あの姿だけは忘れない。
刺さっても、吹き出す血潮は、暖かな優しい波だ。
身体は麻痺しても、あの姿は消えない。
あの姿は消えない・・・・・。
*はるか古代、とはいっても高々四、五千年ほど前までは、この地球上の人類は「母権制」という体制の下で暮らしていて、その時代には当然「女神」の権威は絶対でしたから、かの女が水浴びしている所を見た男は、それだけで死刑にする、という法律があったのです。今のノゾキやチカンのような”意図的な行為”であってもなくても、刑罰には変わりがありませんでした。こういう数千年にわたる「女の圧制」に反旗を翻して、「男の支配」を目指したのが、ゼウスやアポロンのような男の神さまたち、ということはその”子孫”を名乗る「金髪で碧い目}をした侵略者たちでした。これがさらに、ユダヤ教やキリスト教になると、「女神」というものはその存在すら認められなくなって、女神を信奉する女性はすべて”魔女”として火あぶりにされるようになってしまいます。この狩人のアクタイオンは、たまたま通りかかっただけなのに、こんな凄まじい罰を受けますが、それでも「後悔はしない、後悔はしない」、と叫び続けて、最後まで「しあわせにつつまれて」死んで行きます。この雄々しいというか”男冥利に尽きる”死にざまを、昨年度(98年)のシューベルトの命日に「曲と踊り」によって再現して好評を博しました。
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