バリー・リンドン」とピアノトリオ D929
                           荻原太郎


 俗に「コスチュームもの」と呼ばれるジャンルの映画がある。これはまた「時代物」とほぼ同義であって、要するに古色蒼然たる衣裳を纏って人物が画面上を動き廻っていれば、自然とそう呼ばれることが多いわけなのだけれども、いざ厳密な定義づけを試みようとするとたちまち往生してしまう。例えば、西部劇を「コスチュームもの」と称してもあながち間違いではないと思われるのに、実際はあんまり聴いたことがないから、やはり西部劇はあくまで「西部劇」であって、これはこれでひとつの独立したジャンルとして認知されているのだと思う。
 定義づけの問題はひとまず措くとして、仮にそうやって「西部劇」を除外してしまうと、俄然際立ってくるのが、このジャンルにおけるアメリカ映画の貧弱ぶりである。これはかねてより、僕の個人的な“映画七不思議”のうちのひとつで、僕なりにかなり長いことその理由を考えあぐねていた。確かにアメリカは歴史の浅い国ではあるけれども、「コスチュームもの」が必ずしも自国の歴史を扱うものと決まったわけのものでもないから、これは理由にならない。そうではなくてリズムの問題なのだ、と気付いたのは最近になってからのことである。アメリカ映画には、長年培ってきた他国(よそ)の映画にはない独特のリズムがあって、それが恐らくこのジャンルが要請してくるリズムとは本質的にそぐわないものなんじゃないか、そんな風に考えるようになった。
 それでもなお、アメリカ映画がその本質的なそぐわなさを解消しようとするなら、あとはもうスペクタクルの力で無理矢理糊づけするより他はなくて、そうして「十戒」を始めとするセシル・B・デミルの一連の作品や、「ベン・ハー」といった妙にほこりっぽい映画が出来上がるのである。結局のところアメリカ映画では、「史劇」になってしまって、これらの作品も確かに「コスチュームもの」ではあるけれど、例えば「夏の嵐」や「山猫」といった作品が具えているような“悠揚迫らず”といった感のあるリズムを全く欠いている。試みに、いま“悠揚”を手元の辞書でひいてみると、こう書かれている。
 「ゆったりとして、少しもこせつかないさま」
 これはまさに「コスチュームもの」の要諦を端的に言い当てた表現であると同時に、またどちらかといえばアメリカ映画にはあんまりそぐわない定義だという気がする。

 スタンリー・キューブリックは、「スパルタカス」(1960年)、「バリー・リンドン」(1975年)と、これまで二本の「コスチュームもの」を撮っている。
「スパルタカス」の方は、これがまた律儀なまでにほこりっぽいスペクタクルで個人的にはどうも好きになれないのだけれど、「バリー・リンドン」は大好きな映画だ。これはアメリカ映画の「コスチュームもの」のBEST1であるばかりでなく、おそらくシューベルトの音楽を最も効果的に使った映画という意味でもBEST1なのではないかと思う。
 映画は三時間を超える長尺で、二部構成である。この作品でのキューブリックの最終的な目的は、18世紀のヨーロッパを出来る限り忠実に再現することにあった。そのために按配されたまさしく画期的な映画的創意の数々は、当時のヨーロッパがまだ持っていた「緩やかさ」へのオマージュであって、その「緩やかさ」に寄り添う形で、あらゆるスペクタクルの要素が排除された。物語は全く感情を排した淡々としたナレーションによって運ばれ、人物の動きも不自然なまで緩慢である。当時をそのまま再現するため、夜の室内撮影は特殊なレンズを使ってロウソクの炎だけで行われ、音楽も18世紀の作曲家作品を使う、といった徹底ぶりだった。
 それだけに、19世紀の作曲家であるシューベルトのピアノトリオD929を使用することは、完璧主義者として名高いキューブリックにとって、おそらく悩みに悩みぬいた末での選択だった筈だ。映画で使われているのは緩徐楽章で、前編の終わりと後編の終わりの二ヶ所である。ことに前編のシーンというのが、アイルランドの片田舎から大陸の貴族社会に飛び込んだ主人公の青年が伯爵夫人を誘惑する、この作品のクライマックスともいうべきシーンで、時間にして約7分、全くのノンストップで音楽がかぶされている。この誘惑の場面は異色であって、賭博の席上、テーブル越しに向かい合った二人は一切言葉を交わさない。ロウソクの炎によって照らし出された、見つめる男の顔と見つめられる女の顔が、切り返しショットによって交互に示されるのみだ。ついに伯爵夫人が、男の視線に耐えきれなくなって、というよりはむしろそれを受け入れて、人気のないバルコニーへ(あくまで緩やかに)出ていくと、男は(あくまで緩やかに)その後を追って、とうとう無言のままにこの誘惑は成立する。
 このシーンにおけるD929の緩徐楽章の効果は絶大なもので、時代考証をなおざりにしてまで、敢えてこの曲を選んだキューブリックのセンスには、舌を巻くほかない。実際、音楽と映画という枠組をこえたひとつの表現として、この緩徐楽章と誘惑のシーンは驚くほど酷似している。マーチン・スコセッシがこのシーンを評して、「一見全く冷ややかなアプローチをしているが、その外見とは裏腹に、底の方では実に豊かな感情がダイナミックに動めいている」と述べていたが、これはまた当の緩徐楽章の特質をも、上手く云い当てているのではないだろうか。
 前篇に比べると、主人公が伯爵夫人を娶ってからの後篇は若干落ちるけれど、それでも全体としてみれば、アメリカ映画がこのジャンルで抱えていたジレンマを正面から切り崩して見せたという点で、「バリー・リンドン」はやはり革新的な作品であると思う。
 むき出しのスペクタクルが全盛の現代に、キューブリックは「緩やかさ」の中にもまた真正のスペクタクルが存在しうることを改めて証明してみせた。シューベルトが生きていた時代には、それはまだ当たり前のことだったかも知れない。





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