歌のないシューベルトー器楽作曲家としての偉大さー」に迫る

1:”絶対音楽”ーという神話を解体する

音楽というものを音楽以外のものによって説明すること、これを忌み嫌うこと蛇蝎のごとく、というのがこれまでの頑迷固陋な地球人、とくに演奏家と音楽研究家(学者)、そしてさらに音楽愛好家(評論家)のすべてにわたる通弊であった。その根底にあるのが”絶対音楽”、という神話というか牢固として抜き難い迷信である。これを破壊し解体する所から、初めて宇宙人の芸術活動とその科学的探究の道が始まる。素材はどんな音楽でもいいが、とりあえずシューベルトの器楽曲から始めよう。

音符というものは数字と同じで、それだけ(単独)では何の意味も表わすことはない。0だろうが1だろうが、6だろうが9だろうが、オタマジャクシだろうが五線だろうが、それ自体の持っている固有の意味などは何一つ存在しない。この「イロハ」を理解しない人間は、音楽はおろか、およそ人類のすべての知的財産に対して、遺伝子がヒトの半分しかないミミズやハエと同じくらいの関わりしか持たないのである。言語や文字に対する不信感から出発する禅問答では、「コトバは月を指差す指に過ぎない。愚か者は指を月だと思っている」、という言い方をする。だったら数字や音符はもっとそうだ。いや厳密にいえば、それは「指」ですらない。数字も音符もそれだけでは、およそ何か具体的なものをを指し示す働きさえ持っていないからである。二つともコトバを媒介にすることによって初めて、その意味するところを人間に伝えることができるのだから。超低周波や超高周波のように、人間の耳には聞こえない音であっても、それは人体にも心にも大きな影響を与えている。しかし、コトバによって説明することの出来ない”音”などというものは、たとえそういうものが存在したとしても、それはまったく不可解というよりも、およそ人間にとって何の意味もない存在である。虫の音だろうと鳥の鳴き声だろうと、あるいは自然界の響きだろうと人工の騒音だろうと、人間がコトバによって命名し表現し解釈し、その本質を解明して、それを再びコトバによって他の人間に伝達して、理解と共感を得られた時にはじめて、良い意味にせよ悪い意味にせよ、意味を持つ音になるのである。人間に理解できない音などというものは、それは人間にとって何の意味もない音である。

「音楽に国境はない」とはよく言われる格言だ。ここまでは宇宙人としても承認していいだろう。だがさらに図に乗って、”音楽にリクツはいらない”などとホザイたら、即座に発言者の横っ面に一発お見舞いする。私のテーゼはこうだからだ。: 「リクツにならない音楽などというものは、たとえあったとしても、それはまったく無意味で無価値な音楽だ」。どんな音楽であれ、”リクツにならない”などということはない。言い換えれば、音楽以外の要素(これには必ずしもコトバだけではなく、身振り手まねその他人間をはじめとするあらゆる生物・無生物の発するメッセージが含まれる)を借りて説明することのできない音楽、つまり「絶対音楽」と自称する意味不明の音楽などというものは、それは私の定義では音楽ではない。ただ一連の雑音であるに過ぎない。もちろん雑音でも音楽になることはできる。ただしそれは「リクツ=理論ないし論理」によって、ということはつまり、情理を尽くし比喩を駆使して他人を説得し、納得させ、そしてついには共感させ共鳴させることができるかぎりにおいてである。もし聞く人が納得も共感もしなければ、それは最後までただの雑音で終わる。どんな大作曲家の名作であろうと、どんな名人の演奏であろうと、この点では何の変わりもないのである。もしもそうではなくて、”音楽というより音響至上主義者”たちの言うように、音楽には固有の”絶対的な価値”というものがあるのだとすれば、そもそも「ピアノ殺人」などというものが起こるはずがないのである。また、スビヤトスラフ・リヒテルという高名なロシアのピアニストは、演奏中に突然部屋へ入って来たスターリンの側近から、「こら、早く止めないか、このユダヤのブタ野郎!」、と怒鳴り付けられたそうである。

無論「万人が納得し共感する」などということは永久に不可能であろう。だが最低限、はじめはたとえ少数であっても、曲を聞いて共鳴し共感する人たちがいて、かれらがその曲の価値を「コトバで」評価することがないかぎり、誰の曲だろうが埋もれたままになることは必定である。長い年月の風雪に耐えて生き残る作品、そういう作品はすべてこの過程(いわばコトバによる洗礼)を経てはじめて、「名曲」と称えられるようになったのである。シューベルトの場合も例外などではなく、まさにその典型的なケースなのである。

以上のことを前提として、これから順を追って、シューベルトの器楽曲作曲家としての偉大さに迫って行きたいと思う。

2 : 二つの偏見 ー 名(迷)演奏家とCDの過大評価 ー を打破する

「 C D   c o m p a c t   d i s c s 」
 19世紀のこの惑星で“発明”された「録音」というテクニックは、その後長足の進歩を遂げて、竹針・78回転の「レコード」から、33回転の「LP」を経て、最後に「コンパクトディスク」というものができて、ドーナツ大の円盤にシンフォニーやオペラを全曲収めることができるようになった。いわば「音の缶詰」であるが、便利な半面、一般民衆が生の音楽に接する機会を減らした、というマイナスも大きかった。音楽会場へ交通費を払ってわざわざ足を運ばなくても、素っ裸でビールでも飲みながら「レクイエム」を聞く、ということが可能になって、おまけに世界中の名演奏家の「電磁気で録音された音」が居ながらにして“味わえる”のだから、「CD」同士の比較だけでいっぱしの“評論家”を気取るオッサンが、あたりを見回せばゴロゴロいる、という奇観にはもう慣れっこになってしまった。その一方、オーケストラだろうと歌劇団だろうと、もうほとんどが軒並み倒産寸前で、出演者は自腹を切って赤字の公演を余儀なくされるのが当たり前、という悲喜劇が後を絶たない。ところがかえって、「新人類」と呼ばれる世代のほうが、「ディスコ」や「ライブハウス」という形で、それこそ「生の」演奏やパフォーマンスに肌で接する機会に恵まれていて、わが世の春を謳歌することが出来るのだ。望まれることは、われわれのような「化石」でも、自由にこうした「ライブ」へ出入りして「若い生きた血」を吸収して、その成果を自らの「公演」の中に生かすことなのだが、いわゆる「クラシックファン」、それもとくにこの「CDマニア」という救いがたいウジムシどもは、こんな主張には耳を貸そうともしない。宇宙人としては、「CD」をなくせとは主張しないが、せめて「CD」に寄生する害虫だけは即刻駆除してもらいたい、としきりに思う。

以上は十何年も前に著わした「アニマル国語辞典・CD」の項からそのまま転載した文章だが、この考えはシューベルト協会を主宰する現在も少しも変わっていない。第3ミレニアムに入って技術の進歩はさらに一段上がって、USAの「Napster(ナップスター)」という会社などは、人気のある演奏家の演奏を、そっくりそのままインターネットを通じて配信するサービスを開始した。一旦はレコード会社から”海賊版”として訴えられたが、それをものともせず、逆にレコード会社と提携・合併する所まで行ってしまったという。「そのうちCDというものはなくなるでしょう」、とレコード会社の重役までが予言する始末である。Y・C・Mとしては旧式のPCを使って、さる楽器メーカーの開発したソフトで、「楽譜を直接音に変えて再現する」実験を繰り返しているが、残念ながら開発の担当者が、そろいもそろって基礎的な音楽知識を欠いているため、まだとてもCDのような音質は得られていない。だがもしも、これでCD並みの音質が得られさえすれば、これまでのCDのように、ただ演奏家の解釈を聞いて一方的に受容するだけ、という受け身の姿勢から一転して、原曲そのものの忠実な再現と、さらに己自身の解釈による新しい演奏法の提言、という攻勢に転ずることも十分可能になるのである。エジソンが「録音」という技術を開発するまでは、楽譜を読んで自ら演奏するテクニックを持たない人には、あくまでも「閉ざされた宝庫」に過ぎなかった無数の作品が、機械の力を借りて蘇(よみがえ)り、誰にでもアクセスと再現が可能になるのである。思えばこの百数十年間というもの、地球上ではあまりにも”演奏家”というものが、一方的に過大評価され過ぎて来たという事実は否めない。聴衆は「曲」ではなくて「演奏」、というより演奏家のパフォーマンスを、見て聴いてしびれるためだけに集まる。これを異常なことだと思う人はほとんどいない。だがこれはまさに、本末転倒どころか付属物が本体を踏み潰す「下克上」と言ってもいい、まことに異常な事態なのだ。「名曲」があって演奏者がいないのと、「演奏」だけがもてはやされて、曲についても作曲者についても誰も知ろうともしないのと、一体どちらが異常なのだろうか?ましてそれが「名演奏家」ならまだしも、”迷演奏家”となったら、これはもう世も末というほかはない。「まだ飴屋ほども弾けないバイオリン」、という川柳が百年近く前にあったが、飴屋に毛の生えた程度の演奏家でも、”自分で弾けもしないくせに、音楽を解説したり批評したりするなんてナンセンス!”、と言って”素人”の意見を黙殺する一人よがりが、二流三流の演奏家の間では、今でも当然のことのようにまかり通っているのだから、もはやハナシにもならない。むろん「生の演奏」にまさるものはないことは言うまでもないが、「飴屋ほどにも弾けない」人でも、シューベルトの偉大さに目覚めることは、機械の力を活用すれば誰にでも可能なのだから、今後はもはや”迷演奏家”どものブラフ(こけおどし)には、まったく動ずる必要はなくなるだろう。これはシューベルトと世界の音楽のために、まことに喜ばしいことである。

3 : 歌詞のないシューベルトにコトバで斬り込む

さていよいよこれから、歌というより「歌詞」のないシューベルトの作品に、コトバで迫る、というか正面から斬り込む作業を開始しよう。「リードの王さま=シューベルト」という等式が間違っていることは、今さら繰り返すこともないと思うが、十年前に当協会を再発足するに当たって、名誉会員になった作曲家の友人から懇々とアドバイスされたのは、「日本語で歌えるシューベルトの歌詞、これは君でなくてはできないことだよ。でも、それ以外ではあんまり君の活躍できる場がないね」、ということであった。その時点では宇宙人としても、この評言に納得したような気になっていたのだが、それが今回はからずも、「歌のないシューベルトの偉大さ」に迫る必要に迫られたのを機会に、この点を再検討して見たいと思ったのである。つまり、コトバというより「歌詞」を手がかりにしないで、かれの音楽の本質に肉薄し、それをコトバによって再現ないし画き尽くす方法はないのだろうか?という問題である。幸い機械で楽譜を再生させる方法が見つかったおかげで、どうやらその可能性は十分にありそうな見通しである。

一頭の名馬の価値に目覚めるために、自分が馬になってみなければならない、と考える人はあまりいないどころか、もしいたとしたら少々頭を疑われるだろう。だが、馬に乗ったこともない人には、馬の価値が分かるはずはない。こう言われたら、とくにジョッキー(騎手)や馬術の達人にこう言われたら、きっとたいていの人はそうだと思ってしまうだろう。音楽についても同じだ。名曲の価値を体得するためには、自分で作曲して見なければならない、と言われたら、たいていの人はそんなことはない、と言って反発するだろう。だが、楽器はもちろん歌を習ったこともない人に、シューベルトの音楽が分かるはずはない、という偏見には、中世の天動説と同じように、たいていの人が賛成してしまうだろう。だからこそ宇宙人Y・C・Mとしては、かつてのガリレオ・ガリレイと同じことをあえて主張する。「それでも私はシューベルトの音楽の真価が、たいていの演奏家よりもずっとよく理解できる」、と。

流行歌や流行の曲の場合はほとんど99%そうだが、聴衆も観客も曲と歌手ないしバンドのメンバーとを「同一視」するのが常である。だが、これがほんとうに同一である場合は、全体の1%にも満たないのである。これと同じ現象が、いわゆる「クラシックの名曲」の場合にすら見られる、というのがこの国の人の音楽鑑賞の特徴で、レコードを通じて世界に名を謳われた演奏家のコンサートは、誰の曲だろうとお構い無しに、いつもたいてい満席になるが、無名の新人の演奏会には、個人的なつながりのない人はほとんど脚を運ぶこともない。これと180度反対のいわば理想の鑑賞態度は、前述の作曲家が聞いた、あるドイツ人の聴衆というか観客の一人が、ある新人の生演奏を聞いた後に呟いたという、次の一言にいみじくも集約されている。

「たとえどんなに未熟な演奏だろうと、私の耳にはこの曲の完璧な演奏が、ずっと鳴り響いていますから、間違いなどは一々気にしたりしません」。

機械技術の進歩はもうそこまで来ているのだから、今後数年の間には、楽譜を読み取って音を再生させることによって、誰もがこの理想の聴衆と同じ体験を、共有することができるようになるだろう。

 

曲の分析

ケース1:

→「即興曲集 作品90ー3(D899ー3) 変ト長調

ケース2 :

→「シンフォニー D759 (通称”未完成”)の一部

 

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