あるHP読者から

冬の旅の歌詞を邦訳するという企画を面白く読ませていただきました.
原曲のイメージの中に一旦入りこみ,それにふさわしい言葉を捜す,というのは並々ならぬ創造力を必要とするのだと思います.

個人的には,歌謡曲を含め「日本語の歌は照れくさくて歌えない」人間なので,そちらの労作の歌詞で私が歌うことはないと思います.
しかし,本当によくできた訳詞だと思います.これはお世辞抜きです.

ところで,記述の中に
     まるでガリバーが「木星の惑星を四個発見した」のと同じような
という箇所があります.
私はスウィフトを読んでいないので,よく知らないのですが,木星の「衛星」を
4個発見したのは,ガリレオ・ガリレイですよね.

それから,そちらでは詩の内容を22%,音楽的内容を78%と振り分けていますが,ドイツ語の音(おん)の持つ力も5〜10%はあると思います.たとえば,Lindenbaum という歌詞の部分をtreeと言い換えてしまうと,「アウム」という音のもつ,閉じられ,守られた空間の雰囲気がなくなってしまいます.
面白いことに,Traumも閉じられた空間の出来事です.
こうした部分は訳詞によって,ほとんどの場合,失われる部分ですが,それがあることは皆さんに知らせておく必要がありませんか?

訳詞という仕事は,私は決してやらないし,できないことですが,それを非常に生き生きとなさっている様子は大変興味深く拝見させていただきました.
これからの発表を楽しみにしています.

○ XX

ご愛読感謝します。

早速ながら「ガリバー」の個所を次の通り訂正させて頂きます。→「ガリバーが火星の衛星を2個発見」。実際に発見されたのは、この作品が発表されてから200年後、19世紀の終わり近くでした。原詩の「響き」については大いに異論があり、そのことは何度も強調したつもりです。お暇な折に拙文を読み返して頂ければ幸いです。よろしかったら5月20日の「講座」を聞いてみていただけませんか?私の目指しているのは”訳詩”ではなくて、日本語によるシューベルトの世界の再現乃至再構築です。以上、乱文にて失礼申し上げました。Y・C・M。

Y・C・Mさま

> 「原詩の「響き」については大いに異論があり、そ> のことは何度も強調したつもりです。お暇な折に拙文を読み返して頂ければ幸いです」。「そうでない人がいくら”原詩とその響き”を有り難がって”エラソウ”なお説教を聞かせようと、私の感 覚はいささかも揺らぐことはない。かれらはたとえ、どんな肩書きや経歴を持っていようと、あくまで.も「トラの威を借りるキツネ」に過ぎないのだから」。
この部分ですか?
私は,ドイツ語の詩の朗誦するのが好きですし,ドイツ語の歌が好きです.「トラの威を借りるキツネ」に過ぎなくとも,そちらが「好き」というだけです.もっとも,トラの威もありませんが.ちなみに,日本語の朗誦は習ったことがないのに対し,ドイツ語のそれはかなりお金と時間をかけて習いました.
もちろん,ドイツ人のようにドイツ語がわかるわけではありませんが.「詩」の重みを22%とするなら,それはそれでいいと思います.
ただ,意味だけでなく,音や詩のリズムとして魅力についても言及しなければフェアじゃないのではありませんか?
たとえそれがわずかだとしても.私が指摘したのはその点です.

私は,自分の楽しみとしてドイツ語で歌いたいし,すでにドイツ語で知っている曲については,日本語のシューベルトはあまり聴きたくありません.かえって,入りこめないのがわかっているからです.もちろん,下手な発音のドイツ語や音だけ追って内的にイメージのないドイツ語で歌われたシューベルトも聞きたくありませんけれど.

音(オン)というのは私にとって大きな問題で,ニーチェなども原文の音に接してはじめて納得がいった経験があります.
もちろん,ミュラーが詩人としては二流・三流であることも確かですから,ニーチェと同列には扱えませんが.

ところで,ゲーテですと,もちろん天才ですから,おんに叡智があると「私は」感じます.
たとえば,Oウムラウトを三回言って,4回目にOに変えます.
すると,おんとして,ある種の到達感,開放感を「私は」味わいます.
ご存知の,Heidenro"sslein です.
こうした曲では,情景,オン,音楽が本当に一体になっていると「私は」感じます.
ミュラーの詩を論ずるにあたって,ゲーテを持ち出した私は反則ですヨネ.
EichendorfやHeineなども,オンに力があると「私は」感じます.

問題をこじらせそうですが,An Silvia もある意味で興味深いです.
原詩はシェークスピアですから,英語をドイツ語に訳したことになります.
それで,イギリスの人は,これを英語で歌えるのでしょうか?
(ちょっと疑問に思っただけです).
私が贔屓にしている英国人テノール,Ian Bostridgeも「リートは英語よりドイツ語の方が・・・」みたいに言っているので,私は安心してドイツ語で歌います.

ところで,20日の件ですが,私のところからは遠すぎます.
Y・C・Mさん自身が「私の感覚が揺らぐことはない」と書かれているように,これは感覚の問題です.
インドネシア人とロシア人が日本に来たら,暑いというか寒いというか,意見が分れるかもしれません.
こうした場合,感覚にズレがあるわけですし,その感覚はどちらも正しいのです.
違った感覚を持つ者に対し,「それは違う」とは私は言えません.
私が「フェアじゃない」と書いたのも,「Y・C・Mさんの立場を取るにしても,この視点は欠けてませんか」という意味で書いたつもりです.

○ XX


ちょっと毒のある言い方で・・

趣味の問題と言えばそれまでですが、コトはそう簡単ではありません。バトルモードを避けてできるだけ冷静に言うつもりですが、「そんなにドイツ語の響きにしびれたかったら、どうしてシューベルトにこだわるのですか?むしろヒットラーの演説の方がよっぽど感激できるのではありませんか?」。昔から「ドイツ語は犬と話すコトバだ」と言われています。犬の吠える声が好きな人もいれば死ぬほど嫌いな人もいます。愛犬家に「どうしてこんなに可愛い声をきらうんだ?」、とつめよられても”愛犬家”でない人には通じません。私はドイツに留学したくらいですから、けしてドイツ文化を否定する者ではありませんが、かれらのショービニズムは絶対に受け入れません。シューベルトはドイツ人でなければ理解できない、などというヤローがいたら、何人であろうと横っ面を張り飛ばしてやります。逆に、”芭蕉の俳句やゼンモンドウやあるいは万葉集や落語が、ニッポン人以外に分かるはずがない”、という思い上がったニッポン人も許すことができません。総じて「原理主義者」とか「ピューリタン」とかいう人種は、地球の歴史上何一つ文化に貢献したことがないばかりか、ナチス同様害毒を流しただけだった、というのが真実です。乱文ですが、どうかこの意味の狭いピューリタニズムだけは一刻も早く克服して頂きたい、と心から願う次第です。

Y・C・M。

 

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