■〈ゼレチュを訪ねて〉
ゼレチュは南西ドイツのシュワルツワルト山地を源としヨーロッパ大陸を横断し流れるドナウ川が直角に南下し黒海へ注ぐ、丁度その角の真上、スロバキア共和国にあります。複数の国の国境に近いため、それぞれの国によって、スロバキア語でジェリェゾフチェ、ドイツ語やハンガリー語ではジェリズ、ゼリーズなどと呼ばれています。(ここでは実吉晴夫訳「シューベルトの手紙」の表記ゼレチュを使用)
シューベルトは31年間ウィーンをほとんど離れることなく短い生涯をおえますが、当時ハンガリーの大貴族であったエステルハーツィー伯爵の別荘がゼレチュにあり、シューベルトは二人の令嬢の音楽教師として招かれ、1818年と1824年の夏二度にわたって長期滞在しています。
新春例会「ゼレチュのシューベルト」では、その地を去年の夏訪れたハンガリー研究家石本礼子さんお迎えし、撮ってこられた現在の建物の写真と、水彩画として残っている往時の建物とを見比べつつお話を伺いました。ゼレチュはハンガリーの首都ブダペストから車で国道を北上、3,4時間ぐらいで行けるそうです。 ウィーンから入る場合は、バスでスロバキアの首都ブラティスラバへ1時間10分、そこから車に乗り継いで2、3時間ということですから、シューベルト時代、馬車でいっても半日ほどで行けるほどの近さということになります。
「僕達の住んでいる城は、そんなに大きくはないが、とても小ぎれいに建てられている。周りは、とても美しい庭園に取り囲まれている。」とシューベルトが手紙に書いているその別荘は、修復されシューベルト記念館として保存、庭園はシューベルト公園と名付けられ整備され観光地となっているそうです。しかし、残念ながら訪れる人もほとんど無いらしく、訪ねたその日も管理人が長期休暇中で、記念館も外から覗くだけだったとのこと。日本からわざわざやってきた石本さんにびっくりだったそうで、どうやらゼレチュの人より日本のシューベルト協会会員のほうがずっと関心がある場所のようです。
現在でもエステルハーツィー家は名門として、著名な文学者なども輩出、各界で多くの人が活躍しているとのことでした。
●後半は、ゼレチュ滞在中にうまれた作品、またその滞在がきっかけとなって生まれた作品を、池田周司さんのお話ををききながらピアノと歌の演奏で楽しみました。
■〈シューベルトと伯爵令嬢の恋〉
当時のウイーンはナポレオン戦争や民族独立運動などにより、ハプスブルグ家の支配し続けた神聖ローマ帝国が滅び(1806年)オーストリア・ハンガリー帝国の二重帝国時代に入るという激動の時代にありました。そんな時代ヨーロッパ文化の中心として栄えていたウイーンから、今からみればさほど遠くない地であっても親しい仲間たちと離れた地で生活することはシューベルトにとっては耐え難いものもあったらしく、長文の手紙を兄弟や友人たちにしきりに書き送っています。ともすればウィーンに向かおうとする思いをたつように、手紙のなかではゼレチュの暮らしもいきいきと紹介されています。
「僕の住んでいるのは管理人棟だ。四十羽ばかりのガチョウが一斉にガアガア鳴いて、自分の声が聞こえなくなるまでは、かなり静かだネ。僕を取り巻く人間達は、皆まったくいい人ばかりだ。(中略)コックはかなりルーズな正確、おつきの侍女は三十歳、小間使いの姫はとてもかわいらしくて、よく僕の話し相手になってくれる。(中略)伯爵はかなり無骨な人、伯爵夫人はブライドが高いが、主人よりは繊細な感情に恵まれている。二人の令嬢はとてもいい子だ。」(1818年9月8日付 ゼレチュより友人たちにあてたシューベルトの手紙より)
「小間使いの姫」とは、後年シューベルトを打ちのめす病気をうつしたと言われる小間使いの娘ペピーであり、「二人の令嬢」とはマリーとカロリーネの姉妹で、妹のカロリーネは、後にシューベルトのロマンスの相手と目される伯爵令嬢です。このとき彼女はまだ12,3才の少女でした。6年後再びこの地を訪れたとき、18才のなっていたカロリーネと再会したシューベルトは手紙に「例の魅力ある生きた星」と書きます。
シューベルトの有名な伝記映画[未完成交響曲」でも、シューベルトが思いを寄せる伯爵令嬢として描かれていますが、映画も悲恋で終わるように、カロリーネは、現実問題として一介の貧しい音楽教師が結婚出来る相手ではなく、二人が恋愛関係にあったかどうかを証拠だてる資料はなにも残されていません。
そのかわりにシューベルトは美しい連弾曲「幻想曲」D940を彼女に献呈しています。四手で弾くこの曲には途中で互いの指が交差し触れ合う箇所が多くあり、このことをシューベルトの彼女に寄せる熱い思いの証拠と見る人もいます。
カロリーネは、シューベルトの死後大分たってから結婚したようですが、夫と死別したときに何故か婚姻関係を解消されています。そのようなこともあり、その結婚生活はかならずしも幸せではなかったことを思わせます。彼女の死後、遺品の中に大切に保管されていたシューベルトの初版楽譜が沢山あったと伝えられています。
マルセル・シュナイダーは自著「シューベルト」でこのように述べています。
「この恋は、結婚とか家庭とか普通の人が考える意味での将来などということは度外視して、二人は永遠に不滅の誠実の中でのみ実るような愛情でお互いに向き合っていたのであろう。シューベルトはまた身分の違いをわきまえず、突っ走るような勇気は当然とはいえ、持っていなかった。そしてはっきりした二人の結びつきは〈沈黙〉でもって封印されている。」(マルセル シュナイダー著、城房枝、桑島カタリン訳 「シューベルト」より池田周司 要約 )
■ 歌/「 孤独」Die Eeinsamkeit D620 と 「消滅」 AufloesunD807
いずれもシューベルトの親友である詩人マイルホーフアーの詩によるもの。
シューベルトはマイルホーフアーの詩には50曲ほど付曲していますが、「孤独」が完成したとき、1818年8月3日付けの,ゼレチュからウィーンの友人達へ送った手紙にこう書いています。
「マイルホーフアーの〈孤独〉が出来上がった。僕の信ずるところでは、これは自分の作った曲のうちで最高の出来だと思う。」
この「孤独」を兵庫県の丹波の国でシューベルティアーデを毎年開かれているテノールの畑儀文さんをゲストにお迎えして歌っていただきました。畑さんはシューベルトの歌曲を7年間にわたって全曲歌われた声楽家としても有名です。今回は日本語で歌うという協会の活動に深い共感を寄せていただき、翌日には『白鳥の歌』全曲リサイタルを控え大変お忙しい中、出演していただきました。
「孤独」は、20分にもおよぶ大曲で、聴くだけでも相当覚悟のいる歌(特に原語では)ですが、「孤独の身に祝福を」と日本語で歌が始まると同時に、畑さんの力強い巧みな歌唱に歌の世界に引き込まれました。
幸せな宮殿生活に別れを告げた主人公が、戦場に出て、激しい戦闘の中で傷つき帰還、再びふるさとの美しい自然に傷心の身をゆだるという物語りが、日本語で手に取るようにわかり、まるでモノオペラを聴いているように楽しむことができました。
「消滅」は、愛と死が交差する官能的なメロディーにゆすられながら、滅びの世界へと呑まれる一瞬を見事に描いた作品で、わずか2,3分の演奏が永遠にも感じられる、切迫感に満ちた名曲として有名です。この歌が説得力ある畑さんの日本語歌唱で一字一句しっかりと聴く人の心に届けられました。畑さんの自在に変容する歌の力に魅せられた一時でした。
■ピアノ曲/ハンガリアンメロディー他
ピアノの阪本田鶴子さんには、歌の伴奏の他、アダージョ D612 、マーチ D606 、 ハンガリアンメロディーD817、16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ 等、ゼレチュ滞在をきっかけに生まれたと言われるピアノの小品を弾いていただきました。アダージオとマーチは1818年、 ハンガリアンメロディーD817、16のドイツ舞曲と2つのエコセーズは1823〜1824年に作曲されています。ハンガリアンメロディーは、エステルハーツィー家の別荘の台所でハンガリー人の料理人が歌っていた民謡を主題としたものだそうで、、シューベルトの死後100年たってE.ドイチュによって発見され、1928年に出版された美しい小品ピアノ曲です。
■演奏終了後の新春懇親会は、地引憲子さんの飛び入りで、「野ばら」「至福」などを畑さんと交互に歌いあっての歌のエール交換もあり、おおいに盛り上がりました。最後は参加者全員で恒例「乾杯の歌」の大合唱し、散会となりました。
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