2005春の例会

10(ティーンエイジャー)が歌う

シューベルト・コンサート

 

【出演】

茅ケ崎市立 円蔵中学校

アレセイア湘南高等学校

              藤沢ジュニアコーラス(指揮:藤原規生

 

【日時】  326日[土]     開演14:00 (開場13:30)

【会場】  学校法人 平和学園 賀川村島記念講堂

【曲目】  魔王(コ―ラス)、ドイツ舞曲(弦楽合奏)、

    サンクトゥス、セレナーデ、子守歌、アヴェ マリア
    (コ ーラス)

    よろこび、アヴェ マリア〔ハンドベル合奏〕          【司会】 遠藤泰子(アナウンサー)   【料金】入場無料

主催: 国際フランツ・シューベルト協会     後援: 茅ケ崎市教育委員会
共催: 茅ケ崎市立・円蔵中学校             神奈川県合唱連盟 朝日新聞社横浜総局      アレセイア湘南高等学校              神奈川新聞  株式会社 ジェイコム湘南

子供たちの熱演が、素晴らしいシューベルト・コンサートを実現しました。コーラスあり、弦楽合奏あり、ハンドベル演奏あり、そしてゲストの独唱ありの、バラエティに富んだ演奏会となりました。川崎市の中学の先生がご覧になり、「今日の子供たちは最高の幸せ者だと感じました」という感想を贈って下さいました。協会にとって最高の賛辞だと、うれしい限りでした。このような形が一歩ずつ広がってゆくことをねがいつつ、このようなコンサートの実現に力を貸してくださった、円蔵中学の市川先生、アレセイア湘南高校の市毛先生、藤沢ジュニアコーラスの藤原先生に、ありがとうございましたと申し上げたいと思います。
以下に翌日の朝刊に掲載された記事と、当日の解説文を掲載します。




           10代のシューベルト

                                   杉山広司

1808年9月30日、(それは今から二百年ほど前のことになります) 十一歳のシューベルトはお父さんに連れられて、ウィーン市内にある試験会場に向かっていました。宮廷礼拝堂・少年合唱隊のオーディションを受けるためです。宮廷礼拝堂というのは、オーストリア帝国の皇帝専用の礼拝堂で、ここの聖歌隊は四百年の歴史を持った由緒あるもので、因みにこれが現在のウィーン少年合唱団になるわけです。この試験に合格すると、単に合唱隊のメンバーになるだけではなくて、コンヴィクトの特待生として、無償で寄宿舎に入り六年間の中等教育を無償で受けることが出来、うまくすれば大学にまで進学できるという特典があったのです。もっともこれは、もしかするとお父さんの方の目論見だったのかもしれません。シューベルトのお父さんはウィーン郊外にある

小学校の校長先生でしたが、生活は決して楽ではありませんでした。 五人の子供たちを育てるのに精一杯だったのです。無償で当時としては最高の教育を受けさせて、将来は自分の手助けを、とお父さんは願っていたかもしれません。

シューベルトはきれいなボーイ・ソプラノでした。ピアノもバイオリンもお兄さんやお父さんから教わりましたが、あっという間に覚えてしまいました。近所の教会の聖歌隊に入っていましたが、そこの音楽監督ももう教えることはないというほど音楽理論のほうも理解していたようです。

さて、お母さんが、この日のためにシューベルトに着せた上着は、  お兄さんたちのお下がりだったのでしょう、嘗ては青い色をしていたのでしょうが、何度も洗濯しているうちに白っぽくなっていて、会場にいた他の子供たちにこう言ってからかわれたようです。「あの子はきっと粉引き屋の子にちがいない。粉引き屋の子ならああいう服を持っているはずだから。」試験会場にいる子供たちは、明らかに今まで近所で遊んでいた幼友達たちとは違っていました。貴族ではありませんでしたが、シューベルトの家よりもっと裕福で、家柄のいい子供たちのようでした。少年シューベルトはきっと心細かったに違いありません。

しかし試験の結果は、群を抜いていました。シューベルトは宮廷礼拝堂合唱隊のソプラノに抜群の成績で合格しました。そして、それから一ヵ月後の十一月には、両親や三人の兄、そして妹と別れの挨拶をすると、狭くても住み慣れたウィーン郊外の家を離れ、たった一人で全く新しい世界に入ってゆきました。ウィーン市内のコンヴィクトという世界に。

 さてここで、コンヴィクトのことを説明しておきましょう。コンヴィクトというのは本来は寄宿舎、寮というような意味でしたが、ここで言うコンヴィクトは、教育施設も含んでいるので、分かりやすく言えば、中高一貫全寮制の学校ということでしょう。加えてウィーン大学の大学生も一緒に寮生活を送っていました。11歳から22歳までの140人ほどの若者たちが、20人一組の7つのグループに分かれて寮生活を送っていたわけです。ハリーポッターに出てくるあの学校の雰囲気をちょっと思い出してみてください。20個のベッドの入った共同寝室、様々な図書がそろえられている学習室。そして厳しい舎監の先生。このコンヴィクトで、いろいろな世代の若者たちと共同生活をしたことは、後でお話しますが、将来のシューベルトにとってとても大事な意味を持ってくることになります。もう一つこの学校でシューベルトが出会った価値あるものがあります。それはオーケストラです。

校長先生のイノツェンツ・ラングという人は、「厳格で陰気」な人だと生徒から思われていましたが、実際は、彼は公正で意志の強い人でしたので、生徒たちから確かに好かれていたとは言えませんでしたが、 尊敬はされていたようです。このラングさんは、自分では楽器の演奏は出来なかったのですが、音楽がとても好きだったようです。自分のポケットマネーで、足りない木管や金管楽器を買い揃え、指導の先生の授業料の面倒も見て、生徒たちによるオーケストラを作ったのです。なかなかの人物ですね。

シューベルトにとって、オーケストラというものはこれが始めてであったに違いありません。初めてオーケストラの響きを聞いたときのシューベルトのスリリングな感動はどんなだったでしょう。しかも、第二バイオリンのパートに加わらないかいと誘われたときの興奮と喜びはどんなだったでしょう。指揮は、モラヴィア出身のルージチュカという本格的な指揮者で、毎晩夕食の後、祭典用の広間で稽古が始まりました。序曲を一、二曲そして交響曲を一曲、ハイドンやモーツアルトを中心としたレパートリーに取り組んでいました。彼が立ち会えないときには、ヨーゼフ・シュパウンが代りをしました。シュパウンは、当時法学部の大学生で、校長のラングさんがその人柄を見込んでオーケストラの責任者に任命していたのでした。彼は実に高潔な青年で、みんながベートーベンの交響曲を演奏したいというと、休暇に里帰りするための旅費をつぎこんで、ベートーベンの交響曲のスコアを買ってしまい、その結果故郷リンツまでの150キロを歩いて帰ったというほどです。さすが音楽の都ウィーンですね。ラングさんといい、シュパウンといい、音楽家でもないこういった人たちが、とても音楽を愛し、大切にしている、一寸羨ましい気がします。ベートーベンはこの頃ウィーンに住んでいて、交響曲一番とか二番が売り出されて間もない頃のことです。生徒たちにとっては、出来たばかりの新曲だったわけです。

さてシューベルトはこのオーケストラの第二バイオリンのパートに加わります。オーケストラの責任者、ヨーゼフ・シュパウンは、このとき第二バイオリンの首席をしていました。この時のことを回想してシュパウンはこう言っています。

「私は第二バイオリンのトップに座っており、眼鏡をかけた小さなシューベルトは、私の後ろに、立って私と同じ楽譜を見て弾いていました。すぐに私はこの小さな音楽家がリズムの正確さにおいてはるかに私を凌駕していることに気づきました。このことで彼に注目しているうちに、普段はもの静かで無頓着に見えるこの少年が、我々の演奏する美しい交響曲の印象には極めて生き生きと反応することに気づかされました。」そしてまた「私はある時彼が音楽室で一人でピアノを弾いているのを見かけました。彼は小さな手でもう実に上手に弾いていました。私が親しげに促した結果、彼は自分の作曲したメヌエットを一曲弾いて聞かせてくれました。彼はそのときはにかんで真っ赤になったが、私が褒めると、うれしそうに微笑んだ。」シュパウンは早速彼を自分のアシスタントにします。アシスタントというのは、弦楽器の弦を張ったり、ろうそくの明かりを灯し(当時は電気がありませんから、ろうそくの明かりで稽古をしていたわけです。)パートごとの譜面を準備したり、楽器の手入れや譜面の整理といった雑用係でした。でも、音楽は大好きだけれど、  新しい環境に適応するのに心細い思いをしていた、この内気な、新米の少年にとって、雑用係であるとはいえ、これは責任ある役目で、これによって自分の立位置と目的が出来たことは、大いに救いになったと思います。そして、このシュパウンとの出会いは、シューベルトにとってかけがえのない出会いとなりました。二人は9つも違う先輩・後輩だったのですが、年の差なんて関係なかったようです。二人は生涯に亘る友人として、この後付合ってゆく事になります。

 こうして、楽しい音楽の時間とシュパウンの優しい心遣いに助けられて、ようやく新しい生活に適合し始めていたシューベルトでしたが、それも長くは続きませんでした。明くる年の春、入学から数ヵ月後のことです。ナポレオン指揮下のフランス軍が、ウィーンに向かって快進撃して来ているという知らせが入ります。オーストリア皇帝はウィーンを離れ、宮廷礼拝堂は閉鎖されます。コンヴィクトの学生たちにとって、当初の驚きと恐怖だった一時が過ぎると、それは興奮のるつぼに変わります。ずっと後になってシュパウンはその様子を書き残しています。

「フランス軍がウィーンに近づいて来ると、学生部隊が組織された。 私たちコンヴィクトの寮生は志願することを禁じられていた。しかし大学の大講堂(コンヴィクトのまん前にありました)でコラー師団長の愛国的な決起演説を聞き、よその学生たちが熱狂的に志願を急ぐ様を見ると、私たちも入隊したいという気持ちを抑えることが出来なかった。そこで私たちは志願のしるしである白と赤の腕章をつけて、歓声を上げながらコンヴィクトに戻った。校長のラングは私たちを極めて厳しい叱責で迎えたが、私たちはそれを聞かず、興奮して数日後に行軍して出かけた。しかし3日目にライナー大公の至上命令が出され、私たちは直ちに除隊させられ、数日間コンヴィクトに監禁された。こうして私たちの兵隊ごっこはおわった。」

 5月9日、フランス軍はウィーン市の城壁の外に陣取ります。ウィーンは袋のねずみです。3日後の5月12日夜9時、砲撃が開始されます。シュパウンはこの砲撃の生々しい様子を書き留めています。「燃える砲弾が夜空を弧を描いてよぎり、そしてあちこちで起きた火災で空が赤く染まっていた。私たちの見ている前で榴弾砲の砲弾が大学の大講堂の前に落ち、そこの美しい噴水のひとつの中で爆発した。突然今度はもう一つの砲弾が、コンヴィクトそのものに落ちて建物全体が震動した。この砲弾は全階を突き抜けて二階まで達し、二階の寮監ヴァルハの部屋で炸裂した。ヴァルハはちょうど部屋に入ろうとして鍵を回したところだった。三つの階の寮監が全員偶然に部屋にいなかったのは大きな幸運で、さもなくば三人とも死んでいたにちがいありません。何人かのいたずらっ子どもは、三人の嫌な苛め役から、せっかく逃れられるところだったのにと、こういう結果になったことを残念がっていた。」とこうシュパウンは書いています。このヴァルハ先生は数学の先生で、どうも生徒達からたいへん嫌われていたようです。皆さんも身に覚えがあるでしょう、因数分解で大分痛めつけられたのかもしれませんね。

 さて、ウィーンは結局フランス軍によって占領されてしまいます。宮廷礼拝堂の閉鎖に加えて、オーケストラの稽古も中止されます。シューベルトにとってはたいへんな痛手であったに違いありません。彼は再びひとりぼっちでみじめな自分の中に引きこもっていたようです。この頃、殆んどこの少年を見かけなかったと書いているシュパウンは、たった一度会ったときにシューベルトが彼に囁きかけた言葉を書きとめています。「あなたは、この学校中で一番好きな、そして唯一人の友達です」と。そしてこの年の秋、このただ一人の友達であるシュパウンも大学を卒業し、コンヴィクトを去っていってしまいます。オーケストラや合唱隊での音楽という場もなく、そしてシュパウンもいないコンヴィクトに残されたシューベルト。彼は一体どうなるのでしょうか。話が長くなりました。ここらで演奏を楽しみたいと思います。ハンドベル部の皆さん準備をしてください。

 

      (「よろこび」「アベ・マリア」演奏)

 

      「よろこび」の解説

 

 一曲目の「よろこび」という曲は、初めて聴いたという方もいらっしゃるかもしれませんが、とても可愛らしい曲でしたね。今日はハンドベルの演奏で聞いていただきましたが、元々は歌曲です。こんな意味の歌詞がついています。「神父さんが言うには、天使や聖者たちがいる天国の大広間は、喜びで一杯だそうだ。みんなが自分の花嫁に微笑みかけ、ハープに合わせて歌ったり踊ったりしているそうだ。そんな天国には、是非行ってみたいものだ、そして僕も楽しみたいものだ。でも、でも、もし僕のラウラ(女の子の名前です)が、僕に微笑んでくれるなら、僕はこの世のほうがいい、ずっとこのままこの世にいたい。」ヘルティーという人の詩にシューベルトが19歳のときに作った歌曲です。

 

     十代のシューベルトA

 あれから二年が経ちました。宮廷礼拝堂が閉鎖され、オーケストラの稽古も中断され、そしてシュパウンもコンヴィクトを去ったあれから二年が経ちました。しかし、シュパウンは役所に就職が決まり、再びウィーンに戻ってきたのです。彼は早速コンヴィクトを訪ねます。シューベルトは十四歳になっていました。「背が伸びて、陽気になっていた。」とシュパウンは回想しています。彼は今や宮廷合唱隊ではソプラノのソロを取っており、オーケストラでは、指揮のルージチュカが休みのときには第一バイオリンの席からオーケストラの指揮をやっていました。彼はまた、作曲についてもコンヴィクトの中で評判をとりつつありました。現存しているシューベルトの最初の譜面は、「ピアノ連弾用の幻想曲ト長調」D1というものです。これは13歳のときの作品で、32ページにも及ぶ大作です。そんな訳で、久しぶりに会ったシューベルトは、シュパウンにはとても自信に満ちて、落ち着いて見えたのでしょう。シュパウンは、仕事の合間や休みの日に、コンヴィクトを訪ねます。作曲のための五線紙を差し入れたり、それまでシューベルトは自分で線を引いて五線紙を作っていたのですが、そんなことをしている暇がないほどに、次から次へとメロディーが浮かんできていたようです。そして時々オペラに連れて行ったりもしていました。無論シュパウンも未だ薄給の身でしたから、彼らの席は、6階の天井桟敷の安い席でした。

 この頃シューベルトが、お兄さん宛に書いた手紙が一通だけ残っています。読んでみましょう。

「ずっと前から僕は、自分の境遇についてじっくり考えていて、その結果分かったことは、全体としては確かに恵まれているに違いないけれども、それでもまだそこここに改良の余地があると思う、ということだ。兄さんも経験して知っているように、誰でもたびたびロールパン一個とリンゴの二、三個くらいは食べたくなるものだ。何しろ相変わらずお粗末な昼ご飯の後は、8時間半もたってからようやくみじめな夕食にありつける、という事情なのだから、なおさらだよ。この、振り払おうとしても払いきれない貪欲な食欲という奴が、益々つのってくる一方だから、僕としても背に腹は変えられず、ついに一つの決心をすることにした。お父さんから貰った二、三グロッシェンのお金は、最初の二、三日でもう悪魔にさらわれてしまった。空っ欠じゃ、残った時間をどう使ったらいいか分りゃしないだろう。「主を信じるものは皆、失望に終わることなからん。」とマタイ伝第三章第四節にある。僕も同じ考えだ。もし兄さんが僕に一ヶ月に二、三クロイツァーだけお小遣いを援助してくれたら、大変ありがたいのだ。それだけで僕が、この監禁生活の中で自分をどんなに幸福に感じるか、どんなに満足することが出来るか想像が付かないだろうな。今言ったように、僕は使徒マタイの言葉に全面的にすがるほかはないのだ。曰く「下着を二つ持つひとは、貧しい者に分け与えよ」云々。とにかく僕は、兄さんがこの休みなく叫び続ける声に耳を傾けてくれることを切に願うのみだ。汝を愛し、貧しく希望をつなぎ、それでもなお貧しい弟フランツのことを忘れるな、という叫びに耳を傾けてくれることを。」

どんなに音楽に夢中になっていたとしても、空腹だけには勝てなかったようですね。なかなかユーモラスな手紙ですが、因みに、シューベルトは意図して聖書の引用を間違えているのです。どちらもマタイ伝ではありません。それとこの頃のオーストリア帝国は、ナポレオンとの戦争で疲弊し、経済的恐慌を起こしていたのです。コンヴィクトでの食糧事情も決してよくなかった筈です。

初めて会った頃は「いつも生真面目で、殆んど楽しそうな様子を示さなかった」シューベルトが、しかし、こうしてシュパウンの励ましの中で、自分の歩んでゆく道を次第に自覚し、確信してゆくようになって行ったのです。

友達のいいところは、長所も欠点も、まるごと認めてくれるところで、そういう関わりの中でこそ、人は自分の姿をはっきり見極めることが出来るようです。生涯に亘ってシュパウンは、シューベルトの作曲活動を応援し、しかも何も要求しません。このような友人に恵まれたシューベルトは、大変幸せものだったと思います。シューベルトが、コンヴィクトの中で、オーケストラとシュパウンを見つけ出したように、皆さんも是非、学生時代に「自分の場所」と「友達」を見つけてもらいたいと思います。あるいはそれが、皆さんの年頃での、一番大切なことかもしれないと思うからです。

 それではここで歌にしましょう。アレセイアの皆さん準備をしてください。

 

      (「サンクトゥス」演奏)

 

ドイツ・ミサ曲の解説

 

 普通この曲は、「ドイツ・ミサ曲」といわれていますが、本来の意味からすると、「ドイツ語のミサ曲」と訳したほうがいいと思います。ご存知のように、ミサ曲というのは、本来ラテン語のテキストに曲を付けているのですが、普通の人々にラテン語は難解で、まあ言ってみれば現代の日本で、ドイツ語で歌うといった感じで、一般の人たちには、チンプンカンプンだった訳です。そこで教会音楽もドイツ語で歌おうという一種の啓蒙運動が起こり、カトリック教会は正式には認めていませんでしたが、内輪の会などでは実際に歌われていたようです。そういう流れの中で、ノイマンという人に依頼されて、彼の書いた詩にシューベルトが作曲したのがこの「ドイツ語のミサ曲」です。従って、そのような意味合いから今日は、日本語で歌います。

 

       セレナーデ「聞け聞けひばり」の解説

 

これは、シェイクスピアの戯曲「シンベリン」の中の劇中歌に、シューベルトが曲を付けたものです。ローマ帝国が隆盛を極めていた頃のイングランドの話です。第二幕第三場。賭け事で朝帰りの、クロートンというちょっとお馬鹿さんな王子が、お姫様を口説こうと、窓辺に呼んでおいた楽師を待っています。
「早く楽師達が来れば良いのに、あの女に毎朝音楽を聞かせたら、って勧められたんだ、きっとあの女も胸をとろかすだろうからって。」
そこへ楽師達が登場します。
「さあ楽器をいじってくれ。まずうんと楽しい華やかな奴をやってくれ。それから甘い曲に素敵な歌詞の付いてる奴だ。」
そこで楽師達は歌います。「東の空に高らかにさえずるヒバリをお聞きなさい。お日様ももう昇ってます。お姫様、負けずに急いでお起きなさい。」珍しい朝のセレナーデです。楽師達は歌い終わります。
「ようし、もう帰って良いぞ。これであの女の胸がとろけたら、お前たちの音楽はたいしたものだ。チップをはずんでやる。とろけなかったら、……今日のアレセイアの楽師達だったら。大丈夫、とろけるはずです。」

 

(「セレナーデ:聞け聞けひばり」演奏)

 

       「美しい水車場の娘」の解説

さて、次はゲストによる独唱です。シューベルトの有名な連作歌曲集「美しい水車場の娘」全二十曲の中から今日は、三曲歌ってもらいます。「美しい水車場の娘」は、ある粉挽き職人のたびと出会いと失恋の物語を歌った歌曲集です。当時、徒弟奉公の終わった若い職人は、一人前の親方になるためには、粉挽きの工場である水車小屋を訪ねて、あちこち遍歴の旅をしなくてはなりませんでした。第一曲目「たび」はそんな旅を始めた若者の歌です。そしてとある水車小屋で、そこの美しい娘さんに一目惚れします。しかしなかなか恋心を伝えることが出来ません。つのる思いに、歌を歌うことも出来なくなった若者は、持っていたラウテという楽器を壁にかけたままにします。それを見た娘は、ラウテについている緑のリボンが可哀想だと言います。娘は緑が大好きだというのです。これが第十三曲目「ラウテの緑のリボンで」。しかし、やがて緑の色は、実は娘が恋している、森の猟師が着ている上着の色であることが判明します。若者は失恋します。第十八曲目「枯れた草花」以上三曲をお聞きください。

 

       十代のシューベルトB

 16歳の秋のことです。シューベルトは重大な決意をお父さんに伝えます。コンヴィクトを中退するというのです。「自分は芸術のために生きる定めであり、これを通じてのみ幸福になることができると信じている」と。お父さんは驚いたでしょうか?すでにその気配は感じていたと思えます。通信簿の話です。まず操行(皆さんの学校では行動の記録とでもいうのでしょうか)の評価が下がりました。ラテン語の成績が下がりました。そしてとうとう数学で赤点を取ります。あのナポレオンの砲弾の犠牲になるところだったヴァルハ先生の数学です。お父さんはこう言ったのではないでしょうか。「フランツよ、音楽で飯は食えないよ。」そして妥協案を示します。「お兄さんたちのように一年間、教員養成学校に行って、卒業したら父さんの手伝いをするんだな。音楽は趣味にするのが一番だ。」とこう言ったかどうかは分りませんが、親しかったお兄さんのフェルディナントが言い争う二人の間に入って、取り成した結果だったかもしれません、なにやらどこの家庭でも一度は経験する親子の会話という感じですね。いずれにせよシューベルトはコンヴィクトを中退し、父親の家から、教員養成学校に通い始めました。確かにこの時代に、作曲で生活していくことは至難の業でした。シューベルトはそのことを分っていました。生涯で一度きりの、これはシューベルトの妥協でした。

さて、ちょうどその頃作曲したのがこれから演奏される「弦楽四重奏のためのドイツ舞曲」です。初演は間違いなく、シューベルト家だったでしょう。お父さんがチェロ、兄のフェルディナントが第一バイオリン、一番上の兄のイグナーツが第二バイオリン、そしてわれらがシューベルトはビオラを演奏したはずです。何とかシューベルトの落着き先が決まり、和やかな家庭演奏会だったことでしょう

 今日は、この曲を弦楽合奏で聞いていただくのですが、弦楽部の皆さんをご紹介ください。

       (「五つのドイツ舞曲」演奏)

 

    国際フランツ・シューベルト協会について

「シューベルティアーデ」というシューベルトを中心に、シューベルトの音楽を愛する仲間たちが集まって、音楽を楽しむサークルがありました。初めてこの会が催されたのは、シュパウンの屋敷でした。二、三十人の若い人たちが集い、歌い、踊り、談笑する楽しい会でした。今やシューベルトはいませんが、私たちの会もこのシューベルティアーデを目指しています。年数回のペースで、シューベルトの曲の小さな演奏会を楽しんでいます。小さなホールや画廊のような処を借りて。20年近く前から続いています。前代表の実吉さんというドイツ文学者のかたが、シューベルトの歌曲を日本語に訳され、それも歌詞として歌えるように訳された曲が200曲近くなりました。今日歌われている歌もこの実吉さんの邦詩なんです。

シューベルティアーデは、二十代の若者たちの会でしたが、私たちの協会は最近六十代が中心になってきているので、ここは一つ若い方たちにも加わってもらいたい、若い方たちに日本語で歌って頂きたいという事から、今回の呼びかけになった次第です。

 

      (「子守歌」「アヴェ・マリア」演奏)

 

       十代のシューベルトC

 シューベルト自身は、初恋について何も書いたものを残していません。  友人たちが書いたものが二つだけあります。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーという友達は、このように回想しています。

「私は彼にそれまで一度も恋をしたことがないのかと尋ねました。「いや、そんなことはないよ!」と彼は言いました。「僕は一人だけ心から愛した人がいるし、彼女のほうでもそうだった。僕が作曲したミサ曲で歌ってくれたのだが、そのソプラノ独唱は実に美しく、深い感情がこもっていた。彼女は格別綺麗という訳ではなく、顔には天然痘の跡があった。しかし優しくて、心の底からいい人だった。三年間彼女は僕が結婚してくれるものと期待して待っていたんだ。しかし僕には二人が食べていけるだけの職場を見つけられなかった。それで彼女は両親の希望にしたがってほかの人と結婚してしまったんだが、それで僕はとても辛い思いをした。僕はいまだに彼女を愛しているし、それ以来彼女ほど僕の気に入った女性はいなかった。彼女は要するに僕のものにはならない定めだったんだよ。」

 シューベルト、17歳の秋のことです。リヒテンタール教会の開基百周年の式典のためのミサ曲を作曲し、彼自ら指揮をします。公開の場での初めての演奏は、大成功でした。この時、ソプラノを歌ったのがテレーゼ・グロープでした。その三日後には、あの有名な「糸を紡ぐグレートヒェン」という恋心を歌った名曲が生み出され、これも間違いなくテレーゼによって歌われたに違いありません。残念ながら今日はこれをお聞かせできないのですが、ぜひ一度聴いてみてください。とても素晴らしいラブソングです。

 さてこの頃、シューベルトはお父さんの小学校の補助教員をしていたのですが、このままの安月給ではとても結婚できません。シューベルトは十九歳の夏、教員養成学校の音楽教師の職に応募します。しかし、結果は不合格でした。おそらく、この頃シューベルトは、テレーゼとの結婚を断念せざるを得なかったと思われます。シューベルトはその年の十一月に、16曲の自作の歌曲の譜面をテレーゼ・グロープに贈っています。三年後、テレーゼ・グロープはパン屋の親方と結婚します。そして、長い歳月が過ぎ、彼女が亡くなった時、この譜面は彼女の手で丁寧に一冊にまとめられ、アルバムのようにして残されていました。その表紙には、彼女自身の手でこう書いてあったそうです。「私が、私だけが持っている、フランツ・シューベルトの歌曲」と。

 さていよいよ最後のプログラムとなりました。この「魔王」は、二人が未だ愛し合っていたと思われる、シューベルト18歳のときの作品です。ギャロップで疾駆する馬のひづめの音が、ピアノの三連音符で表現されます。これは大変高度なテクニックを要するので、シューベルト自身、伴奏するときは、八分音符にして弾いていたそうです。今日は、その難曲を連弾でがんばってくれます。お父さんと子供、そして魔王の三人の声を、原曲では一人で演じ分けるところが妙味になるのですが、今日はコーラスで演奏されます。それではボーイズ・コーラスの皆さん準備してください。

        (「魔王」演奏)

             

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