「シューベルトの春を歌う」

                                                杉 山 広 司             

春の歌というと、皆さんはどんな歌を思い出すでしょう。「春の小川」「早春賦」「花」、四季に恵まれた日本の歌曲には素晴しい名曲が数多くあります。今日の例会は、シューベルトの春の歌を、皆さんに聞いて頂こうと「シューベルトの春を歌う」と題して、ソプラノとピアノの演奏を楽しんでいただきます。

まずは、ソプラノの菱田さん、ピアノの阪本さんのお二人に「春の信仰」「ミューズの子」そして「ガニュメート」の三曲を演奏していただきます。

「春の信仰」は、シューベルトが23歳の時の作品ですが、春の信仰とは一体どういう意味でしょうか。春が来ると、あたりの自然は生き生きと様変わりします。木々は芽を吹き、鳥はさえずり、草花は咲き乱れます。その様子を見ながら悩める詩人はある決意をします。そうだ、この春を信仰しよう。そうすれば、悩みを超越することが出来るだろう。自分自身もきっと変わることができるだろう。「春の信仰」という詩の意味は、そういったことだと思います。

実吉さんの邦詩で見ると、3行目に「さあ、そそ胸を張ってゆけ」とありますが、ということは何か胸を張れないことが胸のうちにあるということですね。7行目に「さあ悩みを忘れて」そして「何もかも新しく生まれ変わろう」そう言っている訳です。さて、悩みとは、一体どんな悩みでしょう。詩人のウーラントはそれについては何も言っていませんが、この頃のシューベルトにとっては、それは失恋の悩みだったのではないか、という説があります。というのも、この曲を作曲したのは、シューベルト23歳の9月なのですが、その2ヵ月後の11月に、実は初恋の人、テレーゼ・グロープがいよいよ結婚することになったからです。とても結婚できるような経済状態になかったシューベルトは、むろん彼女との結婚を、とうの昔に諦めてはいたのですが、いざそのときが来たとなれば、心中穏やかではなかったはずです。このウーラントという詩人の詩に作曲したのは、この詩だけだというのも、この詩を選んだシューベルトの気持ちを、表しているように思えます。シューベルトは、そういう思いで、新しく生まれ変わろう、と歌っていたのでしょう。春の歌のわりには、どこか淋しげな、それでいて希望への強い意志を感じさせる、美しい曲です。

続いて、ゲーテの、ギリシャ神話に題材をとった詩が二つ登場します。ギリシャ神話といっても、ゲーテは、どちらの詩でもそのまま使うのではなく、自分流に話を作り替えています。

まずミューズというのは、ご存知のように芸術を司る女神たちですが、ゲーテは、ミューズの息子という新しい主人公を創作し、彼に託して詩作の賛歌、詩人の賛歌を歌い上げます。「ミューズの子」とは、詩人のことで、詩人が詩を歌うと、そこはたちまちにして春になる、というわけです。さて、この詩にシューベルトは、民謡のようなとても単純で、リズミカルなメロディを繰り返し使っています。そしてピアノの伴奏は、ミューズの子が毎日飛び回って、いたるところを春にしてゆく様子をとてもよく表現していますし、まるで、ミューズの子にそのエネルギーを注入しているみたいです。

 そして三曲目は「ガニュメート」ですが、ギリシャ神話では、ゼウスが天上から地上の美少年、ガニュメートを見初めて、鷲になってこの少年を誘拐し、オリンポスに連れてくる、そして神々の宴会の席で酌をさせた、ということになっています。ひどい神様がいたものです。このいささか生々しい神話を、ゲーテは、神の側からではなく、人間の子ガニュメートの側から描きます。ガニュメートは鷲に誘拐されたわけではなく、春を称える、その心の高揚によって、春の雲を呼び、その雲に包まれて上昇し、春の神、自然神の元へと上ってゆく。そういう詩になっています。シューベルトは、ゲーテの人間中心主義の自然賛歌に心から共感して作曲しています。まず曲は、のどかな春の情景描写のように、幾分ゆったりとしたテンポで始まります。やがて、春を抱きしめ、抱きしめられたいと、ガニュメートが願い、その想いが熱くなるにつれ、シューベルトは、変イ長調から変ト長調→ホ長調→ヘ長調 と転調して、ガニュメートの心の高まりを表現し、そして、雲に包まれ上へ上へと上昇してゆくに連れテンポを上げてゆきます。この雲に乗って天に昇る、ガニュメートの高揚感を皆さんも一緒に味わってください。これはシューベルト20歳、あの「ます」と同時期に作曲した傑作です。

それではこの三曲、早速歌って頂きましょう。菱田浩子さん、阪本田鶴子さんどうぞ。

 

               ( 演  奏 )

                       

 

「シュタイアーのシューベルト」

 

さて、次はピアノに春を歌ってもらうのですが、むろんシューベルトは「スプリング・ソナタ」は書いていません。そこで春をちょっと拡大解釈して、「青春の歌」とすると一曲、ピアノ・ソナタが浮かび上がります。イ長調ソナタです。

シューベルト22歳の夏、オペラ歌手のフォーグルに連れられて、フォーグルの生まれた町、シュタイアーに旅をします。そこで二人は大歓迎されます。この町に着いて間もない7月13日付の、兄フェルディナント宛の手紙の中で、シューベルトは、こう書いています。

「僕の住んでいる家には、女の子が8人もいて、それが殆んどみんな可愛い子ばっかりだ。僕が忙しいってことが分るだろう。僕とフォーグルが毎日ご馳走になるフォン・コラー氏の娘は、とても可愛らしくて、ピアノが上手に弾ける。」そしてこの手紙の最後に、「シュタイアーの周辺の土地は、想像もつかないくらい美しい。」と、こんな風に書いています。

シューベルトが感激し、興奮している様子が目に浮かぶようです。シューベルトはこの町を、そしてこの町の人達をとても気に入り、この後2回も訪ねることになります。もうひとつ、この町でのシューベルトの様子を書いたものがあります。コンヴィクト時代、つまり学校時代の友達、シュタドラーがこの町に帰っていたのですが、彼の回想記の中に、こんな様子が書かれています。

「ヨーゼフ・フォン・コラー氏の家では、ミューズの女神にいつも小人数で音楽を捧げましたが、それは通例揃って夕方の散歩をした後か、一日の仕事を済ませてからでした。とても才能のあるこの家の姉娘ヨゼフィーネとシューベルト、フォーグル、私の四人は、交互にシューベルトのリートやピアノ曲、それにフォーグル全盛期のオペラの数多くのナンバーなども演奏して楽しんだものでした。私がいまだによく覚えているもので、独特の効果を挙げたのは、「魔王」を三人で歌うという試みでした。シューベルトが父親を、フォーグルが魔王を、ヨゼフィーネが子供を歌い、私がピアノを弾きました。音楽の後で私たちは夕食のテーブルにつき、更に何時間か一緒に愉快な時を過ごすのでした。」シューベルトの幸せそうな顔が目に見えるようです。もう一軒、パウムガルトナーの屋敷でも、よく音楽夜会が行われたようです。シューベルトにとって忘れられない22歳の夏休みの2ヶ月あまりとなったわけです。

 さて休暇が終り、ウィーンに帰らなければならない日に、シューベルトは、この町の滞在中に生まれたソナタを一曲、このコラー嬢に贈っています。それがこれから演奏されるイ長調ソナタです。

このピアノ・ソナタには、明らかにこのシュタイアーの日々の楽しい思い出が込められています。これはひとつの楽しみ方なのですが、私はこのソナタをこんな風に聴いています。

 

1楽章、夕方の散歩に出ているシューベルトです。シュタイアーは小さな町ですので、ちょっと歩くと、そこはもう美しい田園地帯です、エンス川という清流が流れています。川沿いに歩いてゆくと、シューベルトが手紙の中に書いていた、あの「シュタイアー郊外の、想像もつかないくらい美しい」風景がそこにあります。皆さんも音を聴きながら、ご自分なりにその風景を想像してみて下さい。

 

2楽章、散歩から戻ったシューベルトは、部屋に一人佇んでいます。窓の外には、夕闇が迫りつつあります。旅先でのちょっとセンチメンタルな気分に浸りながら、彼はピアノの前に座ります。ふと後にしたウィーンのことを思ったりします。そしてこの後行くことになっている夜会のことを思い出したりします。シューベルトの指が自然に動き出します。

 

3楽章、導入部は、いきなり、女たちの話し声、娘たちの笑い声。男たちのどよめき、人々が笑い、さざめく声でいっぱいの、パーティ会場です。そこで、おずおずとシューベルトは、娘たちのグループに歩みよります、そして「中に入れて頂けますか?」と問いかけます。さあ、娘たちの答えは、そしてその後はどんな風に展開するのでしょうか。ピアノの音に身を任せながら、彼らのやり取りを想像して楽しんでみてください。

 

それでは、イ長調ソナタを弾いていただきましょう。犬飼新之助さんお願いします。

 

               ( 演  奏 )

 

楽しんでいただけたでしょうか。

3楽章の後半では、シューベルトは、娘たちに、ダンスがしたいからピアノを弾いてくださいとせがまれます。そして、彼の演奏するピアノにのって、みんな踊りだす。そんなシーンが私の場合には心に浮かんでくるのですが、皆さんはいかがでしたでしょうか。

シューベルトのこの時期のピアノ・ソナタには、日記のようなところがあると私は感じています。さしずめこのイ長調ソナタは、「シュタイアーの一日」と命名したいほどです。次の5月の例会では、このすぐ後のイ短調ピアノ・ソナタが登場しますが、これも日記の最たるものだと私は思っています。興味のある方はぜひいらして頂きたいと思います。

それでは、ここで15分休憩いたします。

 

               ( 休  憩 )

 

それでは後半のプログラムに入りたいと思います。

前半の三曲ではどれも、春は、自然を謳歌する季節として選ばれていましたが、これから歌われる二曲「春の憧れ」と「春に」は恋の歌です。しかも決してハッピーではない恋の歌です。詩人たちは、生命力に満ち溢れた春と不幸な恋を対比して表現しています。

「春の憧れ」は、春の謳歌で始まります。花の香を運んでくれる春風よ、ありがとう。君について行きたい。でもどこへ、だろうか?「瀬を早み、岩に急かるる滝川」、下へ下へと流れる滝川の水のその激しさにはとても引き込まれるんだ、何故だろうか?明るい日差しは、とても僕を勇気付けてくれるのだけれど、ふと目が潤むのは、一体何故なのだろうか?森も山も、緑に覆われ、若芽がふくらみ、花開いていて、必要なものを全て満たしているというのに、お前は?こんな風に春の表れに向かって、自問している若者がいます。そして最後の節で、僕の心の中に春を解き放ってくれるのは、あなただけですと、かなわぬ恋の思いを告白します。シューベルトは、それぞれの節の終わりにある問いかけにタッチを付けながら、男の差し迫った気持ちを、走りぬけるようなリズムに乗せて表現しています。

続いて、「春に」。春の日に「静かに丘の斜面に座っていると」、彼女とのことが思いだされる。あの頃と全く変わらぬ春の様子。しかし、その人はもうこの世にはいない。一人きりになったこの僕は、鳥になって天高く君を追いかけて、あの世の君に、僕の思いをさえずろう。そういった意味の詩です。

この歌の面白いところは、ピアノがいきなりメロディを弾き、ボーカルが割り込むように入ってくるところ、そしてピアノとボーカルが追いかけっこをするようにメロディを取りあってゆくところです。ここでは、もうピアノは単なる伴奏ではなく、ピアノとボーカルによるデュオの面白さを、存分に味あわせてくれる名曲です。

それでは二曲続けてお聴きください。阪本さん、菱田さんお願いします。

 

              ( 演   奏 )

 

             「転調とシューベルト」

 

シューベルトの音楽の特徴としてよく言われるのは、「転調」が多いということです。

今演奏された、二曲とも、転調が効果的に使われていました。恋の幸福感には背中合わせに不安とか悲しみが伴います。シューベルトはさりげなく長調から短調に転調することで、それを表現していました。「春の憧れ」では、最後の節、「満たされぬ憧れ 涙は留めなく」のくだりで、そして「春に」でも、最後の節、「月日の経つのは矢より早く,恋の喜びは 今は消え果てて」以下のくだりで、さりげなく短調に転調されています。

最初に演奏されたゲーテの詩では、どうだったでしょう。

「ミューズの子」では、エネルギッシュな「ミューズの子」の動きと、その動きにつれて変化する世界、花が咲き、人々が踊りだすといったあたりの様子の変化を、実はト長調とロ長調と節ごとに交互に転調することで強調していましたし、「ガニュメート」では、雲に包まれて空に上ってゆく動きを、そしてそれに連れて高揚してゆくガニュメートの心の動きを、転調することで盛り上げていきましたね。

こういった風に、シューベルトの歌曲では、元の詩の持っているニュアンスや深み、奥行き、そして動きといったものを、この転調を使うことで、みごとに表現しています。

 

さて、いよいよ最後のプログラムになりました。シラーの「春に寄せて」とポラックの「春の歌」の二曲です。

ここでのシューベルトには、転調はありません。彼は、彼のもっとも優れた武器、「メロディ」で勝負しています。残念なことにこの二曲には、実吉さんの邦詩が残されていません。ドイツ語で歌っていただきますので、訳詩の方を見ておきたいと思います。

シラーの「春に寄せて」は、春を若者に擬人化して呼びかけています。

 

ようこそ!美しい若者よ 君は、自然の歓び

花篭をたずさえて この草原に、ようこそ!

 

ほら、ほら、君は再びやって来た かわいい 美しいその立姿

僕たちは心から喜んで 君を出迎えよう

僕のあの子のこと まだ憶えているかい、 そら、ねえ、思い出してごらん

あの子はあの頃 僕を愛してくれたし、今でも僕を愛してる

 

あの子のために いっぱい花を 君に乞い求めたことがあったけど

今また君に お願いだ、 それで? 君は僕にくれるよね

 

この詩には、シューベルトは3回曲をつけているのですが、今日演奏するのは、その最初のもので、彼が18歳の時の作品です。しかし書き直したものよりも、この方が出来が良いように思います。

次の「春の歌」は、元々は男声四重唱曲として作曲されたのですが、これを独唱用に編曲した譜面が20世紀になって発見されました。勿論自筆譜です。どこで見つかったと思いますか。何とバチカン宮殿なんです。あそこには、まだまだ色んな宝物が眠っていることでしょう。織田信長が築城したあの安土城の屏風絵もあるという噂です。

さて、この「春の歌」の方は、北国の長い冬からようやく解放された喜びが表現されています。作曲したのは、晩年30歳の夏ごろであろうと言われています。

二曲とも、その美しいメロディを堪能してください。

それでは、最後のプログラムとなりますが、阪本さん長谷川さん、お願いします。

「春に寄せて」と「春の歌」です。

 

               ( 演   奏 )

 

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