19歳のシューベルト

                       杉 山 広 司

 

今日のプログラムの前半の2曲は、シューベルト19歳の時の作品です。

そこで今日は、19歳のシューベルトについてお話しようと思いますが、その前に、これまでのシューベルトを駆け足でなぞっておきましょう。

16歳でコンヴィクトを中退したシューベルトは、お父さんとの妥協で、教員養成学校に入り、10ヶ月の課程を終えると、お父さんが校長をしている小学校の補助教員として、子供たちにアルファベットを教える毎日が続きます。教員をやって一年余り、19歳になったシューベルトは、しかし授業に追われてなかなか作曲に専念できず、苛立ち始めます。

作曲活動の方はと言えば、18歳のシューベルトは、歌曲やオペラの多作の年でしたが、19歳は一転して器楽曲作品の多い年でした。交響曲第4番、第5番、ミサ曲第4番、弦楽四重奏曲、そしてピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタなど室内楽曲。18歳に次いで多作な年でした。それでも、もっと作曲に専念したい、そういう思いで一杯でした。

そして恋もしていました。17歳の時に出会ったと思われるテレーゼ・グロープとの、おそらくは相思相愛の関係は、結婚に向かって進みつつあった頃でしょう。2月には彼はライバッハの教員養成学校の音楽教師の職に応募します。補助教員の安月給では結婚は出来ません。これに合格すれば、それは自立の第一歩となり、テレーゼとの結婚も可能となるのです。

自立したいという切羽詰った思い。自分の可能性を最後まで推し進めて行きたいという強い思い。これらはまさしく、青春の真っ只中に誰しもが経験することではないでしょうか。

 この19歳のシューベルトの様子を垣間見ることの出来る貴重な資料が、私たちに遺されています。日記です。1816年の6月13日から17日までの5日間、そして飛んで9月8日の出来事や考えを記録したノートが残されているのです。

6月13日木曜日の日記はこのように始まります。

「明るく晴れた、この美しい日は、僕の人生の最後の日までこのまま残ることだろう。はるか遠くからかすかに、まるで残響のように、モーツァルトの音楽のあの魔法のような音色が、まだ耳の中に鳴り響いている。」

この日シューベルトは、演奏のためにあるサロン・コンサートに行きます。そこで演奏されたモーツァルトの弦楽五重奏曲に彼は感激します。そしてまた第一バイオリンのマルティン・シュレジンガーの演奏を絶賛します。続きを読んでみましょう。

「まるで信じられぬほど力強く、そして今度はまた柔和に、モーツァルトの曲はシュレジンガーの神技ともいうべき演奏を通して、僕の心に深い深い印象を刻みつけた。こうしてこれらの美しい印象の断片は、僕らの魂の中にいつまでも残り、時が経ち、境遇が変わっても、決して拭い去られることなく、僕らの日々の生活に限りない恩恵を与え続けるだろう。それは、この人生という暗黒のただ中にあって、僕たちに、僕たちが確実に希い求めている一つのかすかな、明るい、美しい遥か遠くを指し示してくれるものだ。おゝ、モーツァルトよ、不滅のモーツァルトよ、おゝ何と多くの、おゝ何と無限に多くの、このように明るくより良い生の恵み深い刻印を、あなたは僕たちの魂の奥深くに刻みつけてきたことだろう。」

 

まるでモーツァルト・イヤーに合わせたような、熱烈なモーツァルト賛歌ですが、ここに述べられている音楽の在りようは、まさしくシューベルトの音楽に対する考え方、或いは彼が目指している音楽そのものであると私は思います。

ちなみにこの日シューベルト自身が演奏したプログラムは、ベートーベンの変奏曲と、自分で伴奏しながら、ゲーテの「憩いなき愛」とシラーの「アマリア」を歌ったようです。

 

さて翌日の金曜日、シューベルトは、自分の家からそう遠くない、ヴェーリンクとドゥープリンクの間の野原を、二歳年上の兄のカールと歩いた夏の宵の散歩について書いています。嘗て、シューベルトが一年近く通っていた教員養成学校と、カールが当時通っていた美術学院は、同じ建物の中にあったので、二人はよく一緒に通学していたのです。カールは美術家志望でしたので、二人とも同じ芸術を生涯の仕事として志していたことで、仲が良かったのです。

 

「6月14日、

数ヶ月ぶりに、僕は再び宵の散歩を始めた。夏の昼間の暑さの後の夕暮れに、緑の田舎道を歩くことほど心地よいことはない。神はこの喜びのために、ヴェーリンクからドゥープリンクの間の野原を特別に創り給うたように思われる。移ろいやすい黄昏に、兄のカールと一緒にいることによって、僕の心は温かい気持ちになった。「なんて美しいんだ」と僕は思い、叫んだ。恍惚として立ち尽くしていた。近くにあった墓地が僕たちに、亡くなった愛する母のことを思い出させた。かくて悲しいけれど、心の通い合った話をしながら、僕たちはドゥープリンクの道が二股になるところに到着した。」

 

シューベルトは、ここで情景描写らしい表現はあまりしていません。西の空は、茜色なのでしょうか、月は東の空に浮かんでいるのでしょうか。全く触れていません。それでいて皆さんのそれぞれの心の中に、ウィーン郊外の夏の宵の自然の光景が、浮かんで来はしないでしょうか、そして静かに語り合う兄弟の声が、それとなく聞こえて来はしないでしょうか。穏やかで、温かく、満ち足りた、美しい世界に包まれていて、快い時間が経過しています、そこへ突然、悲しい思い出がよぎります。どうでしょう、何やらシューベルトの「音楽」を聞いているようではありませんか。おそらく、この時のシューベルトの心の中には、すでに「音楽」が生まれているはずです。

6月のウィーンの夜は暮れるのが遅いことでしょう。日は落ちていても、辺りはまだ十分明るく、空は深い青色を湛え、しかしそれも刻々と変化していることでしょう。新緑の野原の向こうには、遠くウィーンの森が広がっているのでしょうか。今でもこの自然が残っているものなら、是非一度歩いてみたいと思わせる世界です。自然を愛し、自然の中を歩くことが好きで、そして自然の中にこそ神を見出す、そういったシューベルトの宗教観のようなものも既に垣間見えるようです。

ふたりがお母さんを失ったのは、シューベルト15歳、カール16歳の時のことですから、あれから4年、まだ母の思い出は生々しいものだったことでしょう。

 このように、シューベルトの音楽が生まれてくる、その誕生の「秘密」について、気付いていた友人がいました。マイアーホーファーという詩人です。この年の秋に、彼は「秘密、フランツ・シューベルトへ」という詩を贈っています。その一節にこんなところがあります。

「いったい誰が、こんなに優しく快い歌を作るすべを君に教えたのだ。僕たちの周りはみんな、霧に包まれているという時に、君は歌い、太陽は輝き、春がもうそこまで……。」

 

そうしたシューベルトの音楽の誕生の瞬間を、今日は室内楽で味わって頂こうという趣向です。

19歳の秋に作曲した二曲ですが、まずこれから演奏して頂く弦楽三重奏曲は第一楽章しかありません。第2楽章の30小節余りを書いたまま、中断しています。言わば習作という感じで残されています。しかしシューベルトの音楽が生まれてくる様子は、十分感じ取って頂けると思います。それではさっそく演奏していただきましょう。

コリーナ・ヴェルディの皆さんどうぞ。

第一バイオリンの中島ゆみ子さん、ビオラのユン・ポンフィさん、チェロの菊池武英さんです。それではお願いします。

弦楽三重奏曲第1番 変ロ長調 D471 です。

 

                (演 奏)

 

これはおそらく一気呵成に書き上げたものに違いありません。そして手直しをする間もなく次の曲に向かっていったのだと思います。

でも初々しい、青春真っ只中、19歳の息吹は感じていただけたのではないでしょうか。

 

さて、シューベルトが結婚しようとしていたテレーゼ・グロープのグロープ家とシューベルト家は、家同士大変仲が良かったようです。未亡人だったグロープ夫人は、彼女の夫が始めた絹織物の仕事を引き継ぎ、子供たちを育てていました。テレーゼには、弟が一人いました。二歳年下でハインリッヒ・グロープと言いました。

ハインリッヒは、後には母親から絹の仕事を継ぐことになるのですが、この頃16歳だった彼もまた音楽好きで、バイオリンを弾き、すでに一人前のピアニストでした。このハインリッヒ・グロープの依頼に応えて、シューベルトが10月に作曲したのが、次のプログラム、ピアノ四重奏のためのアダージョとロンド・コンチェルタンテ へ長調、通称「クラヴィア・コンチェルト」です。シューベルトは生涯に一曲もピアノ・コンチェルトを書いていません。その代わりと言うわけではありませんが、今日はその響きを是非楽しんで頂きたいと思います。初演は当然グロープ家だったでしょう。ピアノはハインリッヒ、シューベルトはビオラを担当したのでしょうか、それともテレーゼと一緒に聴く側に回っていたのでしょうか。

それでは演奏して頂きましょう。コリーナ・ヴェルディの皆さんどうぞ。

ピアノは小埜寺美樹さんです。

「ピアノとバイオリンとビオラとチェロのためのアダージョとロンド・コンチェルタンテ

へ長調 D487 です。」

 

(演 奏)

 

何ともほほえましいような音楽です。モーツアルトのコンチェルトの影響を存分に受けながら、しかしそこにしっかりとシューベルトらしい「音楽の心」が感じ取られたことと思います。

何はともあれ、ハインリッヒ・グロープは大満足だったに違いありません。

 

さて簡単に19歳のシューベルトの話を結んでおきたいと思います。

2月に応募したライバッハの音楽教師の職はその後どうなったのでしょうか。8月の中間審査で残った三人の中には、シューベルトは入っていました。しかし、9月7日、不合格の通知が届きます。テレーゼ・グロープとの結婚は、難しくなります。二人とも、きっと落胆したことでしょう。しかし、我々シューベルト・ファンにとっては、どうでしょう、これは幸運だったのかもしれません。確かに、この職が決まれば、俸給は現在の6倍です。結婚は実現したことでしょう。しかし、彼の生活は教員養成学校の日課に追われ、自由を拘束され、作曲のための時間が制限されたことでしょう。そして、テレーゼとの幸せな家庭生活を送っていたとしたら、もしかすると、ライバッハ音楽愛好協会といったこの地区の小さな音楽団体のシューベルト、で終ってしまったかもしれない、とそう思われるからです。あの後半生での傑作の数々が生み出されるためには、シューベルトには、もっともっと苦しんでもらわなくてはならなかったのかもしれません。

結婚は先延ばしになりましたが、シューベルトは自立への決断をします。12月には彼は実家を出て、友人のショーバーの屋敷に転がり込みます。彼はそこで居候をしながら、作曲に励みます。年が明けてすぐ彼は歌曲を作曲します。仲間うちで大変好評でした。それが歌曲「ます」です。そしてこの「ます」のメロディから、次のプログラム「ます五重奏」が生み出されるわけですが、その前に15分間休憩致します。

 

                 ( 休 憩 )

 

シューベルト22歳の夏に、彼はフォーグルというケルントナートーア劇場のオペラ歌手に連れられて、彼の故郷シュタイアーを訪れます。二人はここでとても温かいもてなしを受けます。シューベルトはとても幸せでした。友人宛の手紙の中でこう言っています。

「シュタイアーで、僕は素晴しい時を過ごしてきたし、これからもきっとそうだろう。このあたりは天国のようだ。」ここで知り合った裕福な音楽愛好家に、ジルヴェスター・パウムガルトナーという鉱山会社の経営者がいました。彼は、アマチュアとしてチェロや管楽器を嗜んでいました。そのパウムガルトナーは、歌曲「ます」が大好きだったようです。それを使って、自分たちが演奏するための室内楽曲を作ってほしいと言ったのです。シューベルトはウィーンに帰ってから、その秋のうちに作曲したのが、「ます五重奏曲」というわけです。

シューベルトの前半生での室内楽の傑作です。全編、透き通った川の流れ、きらめき、川面に映る空、あるいは岩陰の深い淵、そしてその中を自由に泳ぎまわるますの群れ。そういった動きの描写が随所に現れては消えていく、そういったイメージの作品だと思います。無論シュタイアーで過ごした幸せな時とその思い出、そういった心の流れも映し出されているに違いありません。先ほどお聴きいただいた19歳のシューベルトの室内楽同様、初々しいそのままの感性で、しかし、しっかりと作曲技術を身につけたシューベルトの表現を、存分にお楽しみください。

コリーナ・ヴェルディの皆さんどうぞ。先ほどの四人に加わって、コントラバスは、小笠原茅乃さんです。

それでは「バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスとピアノのための五重奏曲   イ長調「ます」D667 作品114」 です。

(演 奏)                   




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