ゲーテとシューベルト

         ──その目に見えぬ絆       杉 山 広 司

 

ゲーテの詩に作曲したシューベルトの歌曲の譜面は、二度に亘ってゲーテのもとに送られました。最初は、シュパウンというコンヴィクト時代の先輩が、1816年、シューベルト19歳の春に、次のような文面の手紙を添えて送りました。

 

閣下、

   私儀、敢えて閣下の貴重なお時間を、このような手紙のために割いていただきますのも、同封いたしましたリート集が、閣下にとって、もしかすると不快な贈り物ではないかもしれない、という一縷の望みによって、あるいは、この大いなる無礼をお許し頂けるかもしれないという思いからであります。

   この2巻に入っております作品は、フランツ・シューベルトという19歳の作曲家によるものであります。彼は、幼い頃から作曲に於いて目覚ましい天賦の才に恵まれておりましたが、その才能を、作曲の大家サリエリが、芸術に対する至上無私の愛をもって、驚異的な成熟へと導いたのであります。この若き芸術家の、同封いたしましたリートに対して(これ以外の、既におびただしい数になっている作品と同様に)あらゆる層の方々から賞賛が送られております。アマチュアは言うに及ばず、それもご婦人方に加えて殿方からも、更には、きわめて口やかましい専門家の方々からも送られております。そして、私たち、友人一同の強い願いが、ようやくこの遠慮がちな若者の心を動かし、作品の一部を出版することによって、音楽家としての道に踏み切る決意をしたのであります。そのことによって、間違いなく、彼の偉大な才能が用意している、ドイツの作曲家たちに列する地位に、またたく間に登りつめることでしょう。

   まずは、ドイツ・リートの精選集で始まり、次に、より規模の大きい器楽曲作品が続くことになるでしょう。リート集は全部で8巻の予定であり、最初の2巻には閣下の詩が入っており(その1巻目が見本として同封されております)、第3巻は、シラーの詩、第4巻と第5巻は、クロプシュトックの詩、第6巻は、マティソン、ヘルティ、ザーリス等々、そして第7巻と第8巻は、オシアンの歌となる予定です。この最後のものは、他の全てを凌ぐことになるでしょう。

   作曲家は、閣下に対して、謹んでこの選曲集を献呈したいと切に願っております。閣下の格別に格調高い作品の恩恵により、作曲家はこの曲集の大部分を創造することができただけでなく、「ドイツ歌曲」の作曲家としての成長を遂げることも出来たからであります。しかしながら、本人は内気なあまり、ドイツ語を話す国々では知らぬ者の無い、そのようなお名前を戴くというこの上ない栄誉に、自らの作品を相応しいとは思うことが出来ず、それ故、自らそのようなお願いを閣下に乞うことが出来ず、私儀、本人になり代わりまして、そして、すっかり彼の音楽に魅せられている友人の一人として、思い切って閣下にこのことをお願い申し上げる次第です。そうなれば、閣下のお引き立てにふさわしい版が、次々と出版されることでしょう。それらのリートにまで、ご推奨を頂くつもりはございません、リートそのものに、物言わす必要があります。ただ、これに続く巻は、メロディに関する限り、この第1巻よりも決して劣ることはありませんし、むしろ優れているかもしれないということだけは、申し添えておきたいと思います。そしてまた、閣下の前でこれらを演奏するピアニストにつきましては、くれぐれも指使いの早い、表現力のある方をお選びくださいますようお願いいたします。

   全世界の何人のものよりも本人にとって栄誉となる、まさにその御方からの讃辞を頂くというほどに、この若き作曲家は強運であると信ずるがゆえに、待ち望んでおりますご承認の一言を頂けますよう、あえて願い出る次第です。

     限りない賞賛の念をもって、

       あなたの従順なる僕であり続ける、

           ヨーゼフ・エドラー[貴族]・フォン・シュパウン

 

随分大風呂敷を広げた、もってまわった表現の手紙だと思われるかもしれません。しかし、そこからは、シューベルトの才能を信じてやまないシュパウンの意気込みとか、気負いのようなものが感じとられ、どこか、ほほえましささえ感じられますね。もってまわって聞こえるのは、私の翻訳の拙さでありまして、原文のドイツ語は、あの大ゲーテ宛の、この時代の儀礼文としては、なかなかのものだと評価する人もいます。

しかし、小包は、何の返事を添えられることもなく、送り返されてきました。シューベルトの研究家たちは、口々にゲーテを非難します。「ゲーテは自分の詩に忠実な歌曲しか好まないからだ。」「ゲーテは、通作歌曲を認めようとしない。彼の好みは有節歌曲なんだ。」などなど。果たして、そうだったのでしょうか。ゲーテはシューベルトの音楽を受け入れなかったのでしょうか。

 いや、それは単に送り返されただけのことだ、おそらく見てもいないだろう、ゲーテはそれどころではなかったのだ、と主張する人がいます。イギリスのブラッドフォード大学のホイットン教授です。彼は、ゲーテの側の事情を調べてみると、この時期のゲーテは、それどころではなかったことに気付きます。

 この頃、ゲーテの心の中は、妻の闘病生活のことでいっぱいだったのです。一ヶ月余り後の66日には、まだ51歳の若さで妻のクリスティアーネは亡くなります。その日のゲーテの日記です、「「近づきつつある、妻の最後。彼女の生命力の最後の恐ろしい格闘。昼頃、死去。空虚さと死の静けさが、私の中に、そして、身の回りに。」そのうえ、もしシュパウンが、手紙の日付どおり、417日頃に小包を発送したとしたら、そろそろ到着していたと思われる、426日から27日にかけて、事故が起っていました。ゲーテの音楽仲間で、温泉検査官のヨハン・ハインリッヒ・シュッツの家が、火事になったのです。シュッツの大切にしていたバッハとヘンデルのスコア、それはゲーテにとっても大切なものだったのですが、全て燃えてしまったという知らせを聞くや、彼は、馬車で急いで駆けつけます。好運にも、美しいシュトライヒャーのピアノは無事だったのですが、二人とも明らかに取り乱していました。

このような日々に、送られてきた小包に目を通す余裕があったでしょうか。あるいは、目を通さなかったゲーテを、責めることができるしょうか。ずっと後になってからのことですが、彼は自分のところへ送られてくる郵便物について、例の「エッカーマンとの対話」の中で、エッカーマンにこんな風に語っています。

 「私は、人々からたくさんの手紙が送られてくる偉い人物を何人か知っている。彼らは、ある種の決まり文句と比喩的表現を作り上げ、それでもって皆に返事を書いた。従って彼らは何百という同じ中味の── 空虚な言葉の手紙を書いたのだ。私にはそれは決して出来ない。問題点について何か特別に、意味深いことを言えないのだったら、私はむしろ、全く返事を出さないだろうし、そういうわけで、私は、喜んで返事を書きたいと思うたくさんの良き人達に返事を出すことが出来ないのだ。あなたは、ここでわたしの身の回りで起きていることを自由に見ることが出来るから、毎日どれほど多くの手紙が世界中のあちこちから届くか、そしてたとえありきたりの返事を書くとしても、それに全部答えていたら、全生涯でも間に合わなくなるということを分ってくれるだろう。」

ただでさえ、たくさんの郵便物の送られてくる有名人のゲーテ、しかも病気に臥した妻を見守る日々に、送られてきた小包の中味を確かめるといった気持ちのゆとりが無かったとしても、そして返事もせずに送り返したとしても、ゲーテを責めるわけには行かないでしょう。

次に、18255月、シューベルト28歳の時、今度は、シューベルト自らゲーテ宛の手紙を書き、出版社のアントン・ディアベリに手渡しました。彼はフォーグルと一緒に、上部オーストリアへの、数ヶ月に及ぶ長い旅に出ることになっていたのです。「御者クロノスへ」「ミニョンへ」そして「ガニュメート」の三曲の譜面のコピーが、サテン仕上げの光沢紙に、金色のタイトルを入れて、それぞれ二部印刷されるのを待って、シューベルトの書いた手紙と一緒にして、ディアベリが送る手筈になっていたのです。シューベルトの手紙を読んで見ましょう。

 

閣下、

  もし、閣下に対するこの上ない尊敬の念を、閣下の詩に作曲したこれらの作品を献呈することでお示しすることが出来ますれば、そして万一、私ごとき者のために、閣下のご承認が得られるようなことがありますれば、私はこの願いが幸いにも叶ったことを、私の生涯最高に幸せな出来事として讃え続けるでありましょう。

                深甚なる尊敬の念を込めて

                    フランツ・シューベルト 敬白

 

この小包は、616日に届きました。その日のゲーテの日記にはこう書いてあります。

「ベルリンのフェリックスから小包、四重奏曲。ウィーンのシューバルトから小包、私のリートの楽曲」これはゲーテの文章の中でシューベルトについて書かれている唯一のものであり、しかも名前を間違えています。シューバルトは、1770年代には民謡風の歌曲の作曲家として有名だったので、ゲーテには馴染みの名前だったせいなのか、或いは秘書の発音のせいだったのか、いずれにせよ綴りを間違えているのです。そして2日後の18日には、ゲーテから長い感謝状が、16歳のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディのもとに送られました。しかし、シューベルトには、返事がありませんでした。

無理もないこととも思えます。この時、既に75歳になっていたゲーテにとって、12歳の頃からゲーテの家に出入りしていたメンデルスゾーン、自分のためにバッハからベートーヴェンまで、見事なピアノの演奏を聞かせてくれる少年は、孫みたいに可愛かったことでしょう。片や、見ず知らずの音楽家、同じ日に二つの小包が届くとは、シューベルトにとって不運な偶然だったと言わねばなりません。

そしてまた、奇妙なことに、この小包がゲーテのところへ届く前の、66日に、すでにゲーテへの献辞の入った譜面がディアベリ社から出版されていました。献呈ということが、次第に形式的なものになりつつあったのでしょうか。シューベルトにとっても、ゲーテにとっても、献呈はひとつの儀礼的な挨拶でしかなかったのかもしれません。

 こうして、私たちシューベルト・ファンにとっては、残念なことに、ふたりの絆は見える形では残されませんでした。二人はすれ違ったままその生涯を終えるのですが、しかし、ドイツ歌曲と言う作品の形で私たちが手にしているものには、明らかに両者の絆を感じとることができます。今日は、その、云わば「目に見えぬ絆」を追い求めながら、ゲーテ・ソングを楽しみたいと思います。

 

さて、最初の三曲は、愛の喜びと苦しみを歌った歌です。

一曲目「クレールヒェンの歌」は、「エグモント」と言う芝居の中で、ヒロインのクレールヒェンが、恋人エグモント伯爵への気持ちを歌い上げる、挿入歌として書かれたものです。皆さんご存知の、ベートーヴェンの「エグモント序曲」は、この芝居のために書かれたものです。

 

 

 

クレールヒェンの歌 喜多尾道冬訳

 

喜びにあふれ、

悲しみに満ち、

思いがつのって        

心は不安に 揺れ動き、 

千々に乱れるばかり。             

天にものぼる歓喜と

死ぬほどの苦悩との間で、

恋するものの心だけが、

真の至福を生きるのです。

 

この詩を今日は、歌い手の飯野さんご自身で、歌う詩、邦詩にしていただきました。

日本語でシューベルトの歌曲を、というのがわたしたちシューベルト協会の特色のひとつなのですが、飯野さんの邦詩は、言ってみれば、これが本邦初演ということになります。

 

二曲目「哀しみの喜び」。これもまた、叶わぬ恋を歌った、とても短い曲です。

 

悲哀のよろこび  山口四郎訳 

 

()てはならぬ ()はならぬ

永遠の愛の涙よ!

ああ、半ば()た瞳にばかりは

この世は何と荒涼とした 死んだものに映るのだろう!

()てはならぬ ()てはならぬ

幸うすい愛の涙よ

 

涙のない眼で見る現実は、あまりにも寂寞として、耐え難い。

いっそ涙で現実の姿が 見分けがつかなくなったほうがいい。

涙こそ、愛することの喜びのしるしだ。

そういったような意味あいでしょうか。

 

三曲目、「ミニョンの歌:ただ憧れを知る人のみ」、これは「ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代」と言う小説の中の挿入歌です。謎めいたミニョンという少女と竪琴弾きが、負傷したヴィルヘルムを介護しながら歌う、元の詩は二重唱として書かれたものでした。シューベルトは二重唱も作曲していますが、今日はソプラノ・ソロのものを歌っていただきます。消え去った美しい貴婦人へのヴィルヘルムの思いを歌いながら、ミニョンは実は自分のヴィルヘルムへの思いを重ねあわせて歌っているのです。

 

ミニョン  山口四郎訳 

 

あこがれを知る人だけが、

わたしの悲しみを知ってくれる!

喜びのすべてに離れ、

ただひとりわたしは

大空の彼方を見やる。

ああ、わたしを知り

わたしを愛してくれるひとは、

遠いところへ行ってしまった。

眼はくるめく、

臓腑(はらわた)は燃えるようだ。

あこがれを知る人だけが、

わたしの悲しみを知ってくれる!

 

以上三つのゲーテの詩を読みましたが、今回、プログラムには、なるべく原詩の雰囲気が伝わるように、あえて訳詩を載せました。でも、歌をお聞きになる時は、これを見ないで、日本語で歌われる歌をそのまま味わってみてください。因みに、歌われる歌詞、一曲目のクレールヒェンの邦詩は、飯野さんのものですが、そのほかの邦詩は、ご存知実吉晴夫さんのものです。

それでは、「クレールヒェンの歌」「哀しみの喜び」「ミニョンの歌:ただ憧れを知る人のみ」の三曲をお聞き頂きましょう。ソプラノ、飯野幸子さん、ピアノ、阪本田鶴子さん、お願いします。

 

             ( 演   奏 )

 

(ドイツ語の詩を日本人が鑑賞する際には、プログラムにあるような、訳詩を読む方法と、こうやって、歌われる歌として聴く方法とが、ありますが、この二つの方法を併用して、ゲーテの詩を味わってみるというのも、本日の趣向のひとつです。)

さて、シューベルトの歌曲は、全部で600曲あまりあると言われていますが、詩人別で集計しますと、そのトップテンは、プログラムをご覧下さい、ご覧のようなリストになります。ゲーテの80曲は抜きん出ています。しかもその作曲の日付を追って行きますと、それもご覧のように、生涯に亘っていることがお分かりになると思います。シューベルトの歌曲、リートについて話す時、ゲーテの詩を抜きにすることは出来ないゆえんです。

 さて、シューベルトのリートが、ゲーテの詩に付けられたものが一番多かったのには、何かわけがあったのでしょうか。ここにヒントになる二つの資料があります。ひとつは、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーと言う、シューベルトが20歳の頃に親しくしていた友達の証言です。ヒュッテンブレンナーが、出来あがったばかりのシューベルトのリートを褒めると、作曲家はこう言ったそうです。

「そう、これはいい詩だ。こういう場合にはすぐ、気の利いた音楽が浮かんでくるんだ。メロディが湧き出てきて、それは本当に楽しい。悪い詩からは、何も出て来はしない。悩まされるだけで、無味乾燥な代物しか出て来ない。僕は、今までずい分たくさん、人から押し付けられた詩を、突き返してきたよ。」

作曲をするのに「いい詩」というのは、無論、ゲーテの詩のことだけを言っているわけではないでしょうが、一番数の多いゲーテの詩は、シューベルトにとって、間違いなく「いい詩」だったでしょう。

もうひとつの資料は、ゲーテの詩です。リーナという女性に贈った詩という体裁になっていますが、もしかすると、リーナとは読者のことで、ゲーテ詩集の結びの詩、という意図で書かれたものかもしれません。事実、ゲーテ詩集の最後に置かれています。

「リーナに」からその一節。

 

      弦を響かせなさい(弦楽器の弦です。ハープのことでしょうか?)

      弦を響かせなさい

それから、この詩集に目を向けてください、

      読んではいけません!つねに歌うことです!

      そうすれば、どのページも、あなたのものとなるでしょう

 

ゲーテは、ここで明らかに、詩は読むものではなく、歌うものだと信じています。彼が自分の詩集をリーダー、リートの複数の形なんですが、そう呼んでいたことからも明らかです。詩人は歌われることを願いながら詩を書き、音楽家は、「いい詩」から歌曲を生み出す。ゲーテは歌われることを前提に詩を書き、シューベルトは、その詩から多くの歌曲を生み出していた。ここには、明らかに一本の絆があります。ゲーテの詩のもつ音楽性とシューベルトの歌曲のもつ音楽性の間を結ぶ「目に見えぬ絆」、さて、その絆とは一体何なのでしょうか。その謎を考えながら、ここでまた、ゲーテ・ソングをお聞き頂きましょう。

次の5曲は、先ほどご紹介した、最初の小包、戻ってきた小包の中に入っていた13曲の歌曲の中から選びました。シューベルト17歳から19歳の作品です。

1曲目「御者クロノスへ」

これは「若きヴェルテルの悩み」が出版され、一躍、時代の寵児になった25歳のゲーテが、郵便馬車の中で書き上げた詩だと言われています。人生を、馬車の旅に見立て、時間の神クロノスを、疾駆する馬車の御者に見立てて、白髪になるまで、とろとろと生き延びるのではなく、たとえ短くても、青春の真っ只中を、死に向かって思う存分駆け抜けぬけるのだという、威勢のいい、青春だけが持っている傲岸とも言える真情を歌っています。我々の世代にはちょっとまぶしいような詩であります。シューベルトは、曲のテンポを変えることなく、車窓の風景の変化や場面の転換、馬車が坂を駆け登る勢い、山頂での開かれた世界など、ピアノ伴奏が例によって見事に描写していきます。このピアノによる描写もお楽しみください。

2曲目は「狩人の夕べの歌U」

ここでいう狩人は、狩猟をする狩人というよりは、愛の狩人ですね。ゲーテはこれに友人の作曲家が曲付けした歌を歌う歌手に、こんな注文をつけたそうです。「13番、と、24番は違ったグループで、互いに異なった性格を持っている。そこを歌い分けなくてはいけない」と。確かに、第1節と3節には愛の攻撃的で男性的な激しさが感じられ、第2節と4節は愛の優しさとか静けさが漂います。しかし、有節歌曲の同じメロディを歌い分けるというゲーテの注文は、ちょっと無理がないでしょうか。

無論このエピソードを知るはずもないシューベルトですが、彼は3番をカットして有節歌曲、同じメロディを1番、2番という風に繰り返す形式のことですが、有節歌曲として作曲しています。有節歌曲としての統一感という意味では、これは利口なやり方だったかもしれません。

3曲目は「羊飼いの嘆きの歌」

ゲーテは、あるパーティで耳にした民謡のメロディがとても気に入りました。その曲に合わせて作詩したのがこれです。メロディから詩が生まれた例です。読んで見ましょう。

     羊飼いの嘆きの歌  山口四郎訳

 

あの山の上に、

ぼくは何度

杖にもたれて立っては

谷を見下ろしたことだろう。

 

のろのろ草を喰む羊の群れは、

番犬がみんな見てくれる。

ぼくはその後について

ぼんやり山をおりた。

 

牧場には一面に

きれいな花が咲いていた。

誰に贈るともなく、

そんな花を摘んだりもした。

 

烈しい通り雨が来て

ぼくは樹陰に身を避けた。

向こうの家の戸は閉まったままだ──

やっぱり すべては夢だったのだ。

 

あの家の上には

美しい虹が立ってはいる!

だがあの娘は行ってしまったのだ、

遠い 遠い他郷(くに)へ。

 

遠い 遠い他郷へだ、

あるいは海の向こうかも知れぬ。

駆けて行け、駆けて行け 羊たちよ!

羊飼いの胸は悲しいのだ。

 

山から、羊を追いながら下りて来る羊飼い、通り雨と虹の向こうに

過ぎ去った恋を偲びます。シューベルトの音楽は、この時間経過と山を下りる羊の群れの動きまで、目に見えるように表現してくれます。

4曲目「恋人の近くで」

これもまた、ゲーテは、友人のツェルターが、フレデリケ・ブルンの詩に作曲したものを、あるパーティで聞いて、いたくメロディが気に入りました。そこで、ブルンの詩を押しのけて作詩したのが、この詩と言うわけです。これまた、ゲーテが歌われる詩を望んでいた、その良い例だと思います。

「どんなにあなたが遠くにいようとも、あなたは、わたしの近くにいる。」この思いは、シューベルトの単調で美しいメロディに乗って繰り返されることで、一層わたしたちの共感を呼ぶことになります。心の奥に届いてくるようです。

自分自身も幸せな初恋の真っ只中だった、18歳のシューベルトだったからこそ生まれた佳作です。

5曲目は「魔王」です。シュパウンの手紙に中にあったピアニストへの注文、「指使いの早い、表現力のあるひと」というのは、譜面の束の中に、この曲が入っていたからだと言われています。連続する三連符は、ピアニスト泣かせです。シューベルト自身も実は八分音符で弾いていたようです。

それではこの5曲、さっそく、畑さんに歌っていただきましょう。ピアノは渡辺治子さんです。

 

             ( 演     奏 )

 

さて、このシューベルトのバラード「魔王」が、今まさに生まれるというところに立ち会った、という証言があります。そこから、共通の絆とは何か、本日の例会のテーマ「目に見えぬ絆」が、いよいよ見えてくると思うのですが、その話に行く前に15分ほど休憩いたします。

 

           ( 休    憩 )

 

ゲーテに譜面と手紙を送った、あのシュパウンが書いた回想記の中に、こんなくだりがあります。

1815年のある午後のこと、私はマイアーホーファーと一緒に、当時ヒンメルプフォルトグルントの父の家に住んでいたシューベルトのところへ行った。シューベルトは、ちょうど本を手に持って、『魔王』を大きな声で読みながら、非常に興奮しているところだった。彼は何度も本を手に、行ったり来たりしていたが、突然椅子に座ったかと思うと、あっという間に書ける限りの速さで、すばらしいバラードが楽譜に書かれていた。シューベルトの家にピアノが無かったので、我々は楽譜を持ってコンヴィクトへ走って行き、そこでその晩のうちに『魔王』が歌われ、感激をもって受け入れられた。」

 

ここで注目したいのは、作曲するのにかかった時間ではありません。そんなに素早くできたかどうかについては、異論もあります。私が注目したいのは、詩の朗唱を繰り返していくうちに、歌が、メロディが生まれてくるところです。朗唱すると自然に生まれてくるメロディ。このことは、シューベルトの音楽が生まれてくる秘密の仕掛けを垣間見せてくれているようです。朗唱することから、シューベルトは何を感じ、それがメロディを生み出したのでしょう。

 

ここでドイツの詩というものについて、見ておきましょう。

ドイツ語の詩のきまりは、三つあります。

ひとつは、音節の数、日本の詩と同じですね。七五調とか、五七五とか日本人にとってもお馴染みのものです。二つ目は、脚韻というものです。それぞれの行の最後の音を、規則的に一致させる。韻を踏むというのは、英語の詩などで、皆さん耳にされたことがあると思います。さて三つ目は、これがドイツ詩の特長とも言えると思うのですが、アクセントの強弱が生み出すリズミカルな調子です。韻律と言います。音の強弱が織り成すリズム感のことです。日本語には、これはありません。この縛りをつけると日本語では詩が書けなくなるでしょう。ただひとつだけ、それに近いものがあるので、それをご紹介して、ここで言う韻律の感じをつかんで頂こうと思います。

(阪田寛男の「ねこふんじゃった」による強弱のリズムの解説)

この詩では、強弱弱強弱の繰り返しがリズム感を作っていますね。こんなことは日本の詩では珍しい、というか中々出来ない。しかも、わたしたちはこの詩を普通に読むことが難しいほどに、思わずあのメロディが出てきてしまう。実はこの詩はピアノ曲に付けて生まれた詩なのです。そこで、日本語では珍しく、ドイツ的とも言えるリズム感のある詩ができたわけです。もうひとつ読んで見ましょう。

ドイツ語では、「弱強、弱強」のリズム、「強弱、強弱」のリズム、そして「強弱弱、強弱弱」の三拍子のリズム、この三種類を基本にして、詩のリズムが作られていきます。

これは私の仮説ですが、このリズムこそが、ゲーテとシューベルトを結んでいた目に見えぬ絆だったのではないかと思うのです。

 

「エッカーマンとの対話」という、晩年のゲーテが様々なことについて語っている、有名な本があるのですが、ある日のこと、エッカーマンはこんなことを質問しています、「この詩にある独特のものは、一体どこから来ているのでしょう、これは韻を踏んでいるからではなさそうなんですが。」ゲーテはこう答えています。「それはリズムのためだ。このリズムが、独特に働き、暗く物悲しい性格が生まれてくるのさ。しかし、リズムと言うものは、詩的な気分から自然に生まれてくるものだから、詩を書いている最中に、そんなことを考えていたら、わけが分らなくなって、気の利いた詩を書けるわけがない。」

 

いい詩の持つ、独特のリズム、ゲーテの詩は、そのリズム感のすばらしさが、まず人々の心を捉えたのだと思います。そしてまた、それがシューベルトの音楽を生み出してゆく。

リズムとメロディの関係。ゲーテの詩のリズムと、それがシューベルトの歌曲となってゆく様子は、例えば「ろくろ」と指先の関係を思わせます。「ろくろ」の速さと、その変化、そういったものが指先に伝わり、そこから或る形が生み出されてくる。ゲーテの詩の持っているリズムがシューベルトの感性に伝わり、そこから自然にメロディが生み出される。そんな気がするのです。シューベルトの作曲は、おそらく詩の朗唱から始まります。繰り返し朗唱するうちに、その詩の持つリズムが、彼の心の中の、ある器官に働きかけ、次第に、それはひとつのメロディになって現われてくるのだと思われるのです。

このことは、またの機会に、ドイツ語で詩を実際に朗唱し、その詩がメロディにのって歌われるとどうなるのか。その道の専門家を呼んで一度トライしてみたいと思っています。

 

それでは、ここで、歌に致しましょう。三曲お聞き頂きます。

最初の曲は「旅人の夜の歌」です。

ゲーテ、31歳の秋。旅先から、当時の恋人だったシュタイン夫人に送った手紙の中で、こう書いています。「空は本当に澄んでいて、私は今、夕日の沈むのを見守っています。その光景は壮大で、それでいて、素朴です。今、ちょうど日が沈んだところです。ここは、以前あなたへの手紙で炭焼きの煙があちこちから立ちのぼる様を描写したことのあった、その場所なのですが、今は、とても澄んでいて、静かです。」これは、チューリンゲン地方の山、ギッケルハーンの山頂にある山小屋からの風景で、ゲーテは夕日の沈むのを見ながら心に浮かんだ詩を、眠る前に、この山小屋の板壁に鉛筆で書きつけます。それが、この「旅人の夜の歌」です。これには有名な後日談があります。ゲーテ82歳の誕生日の前日、彼は再びこの山頂の山小屋を訪れます。一緒に登った森林保護官のクリスチャン・マールがそのときの様子を、こう伝えています。ゲーテは51年ぶりに、小屋の壁に書いた数行にも満たぬ詩を読んだ。涙が頬を伝った。そして、穏やかな、悲哀のこもった声で、最後の行を繰り返した。「そのとおりだ、待てしばし、(なれ)もまた憩わん、だ。」この言葉通り、あくる年の3月、ゲーテは永久(とわ)の憩いについたという話です。そして、このとても短い詩に、18歳のシューベルトはたった14小節のメロディをつけて、とても静かな、日の沈む風景と、とても平和で、安らかな心象風景の両方を歌いこんでいます。

二曲目は「姿を変える恋人」(詩を読む)あの手この手で、娘に言い寄る男心をコミックに歌った詩です。本来の詩は全部で9節ありますが、プログラムには4節だけ載せています。シューベルトはそのうちの3節に作曲しています。シューベルトのコミック・ソングをお楽しみください。

三曲目は「遠く去った人へ」残念なことに、実吉さんの邦詩が残されていないので、思い切ってわたしが挑戦して見ました。無論ゲーテの詩ですから、男の歌ですが、ソプラノやアルトの歌い手さんも良く歌います。ドイツ語には、女言葉というのはありませんから、原詩のまま歌っていますが、今日は、菱田さんに歌っていただきますので、あえて女性用の歌詞にしています。「恋人よ、われに帰れ」という歌です。

それでは演奏していただきましょう。ソプラノ、菱田浩子さん、そしてピアノ、阪本田鶴子さんのおふたりです。

 

               ( 演  奏 )

 

残念なことに、確かにゲーテとシューベルトの出会いは、二人の生存中に、目に見える形ではありませんでした。

78歳になったゲーテは、エッカーマンとの対話の中で、こんなことを言っています。

「けれども、それらの詩の中に、今なお生き残って民衆に繰り返し歌われているほどのものが、どれだけあるだろうか?──書かれて印刷されて、図書館にある。これこそまったく、ドイツ詩人一般の運命にふさわしいことだ。──わたし自身の歌にしたって、この先、はたしてどれだけが生き残っているだろう?たぶん、一つか二つなら、かわいい娘がピアノを弾きながら歌ってくれているかもしれない。それにしても、本来の民衆の間では、全く口にもされないであろう。」182753日)しかし、ゲーテの予想は当たりませんでした。東の端の、おそらくその国のことなど、知りもしなかった東洋の小さな国でも、ゲーテの詩はシューベルトのメロディに乗って歌われ続けているのですから。

19世紀には、声楽の先生として有名だったハインリッヒ・パノフカは、こういう言葉を残しています。

「ゲーテとシューベルト!おゝ、幸せな絆、ドイツの不滅の名声のために。」なるほど、このふたりの絆によって、ドイツ・リートは確立し、ゲーテの詩は、シューベルトの歌曲を通じて、ドイツ語を話さない国々にまで広まり、ドイツの名声を不滅のものとしたことは、パノフカの言うとおりでしょう。日本の中学生が、ゲーテから連想するのは,恐らく「魔王」であり、それもシューベルトの「魔王」を通じてなのです。

私たち日本人がゲーテの詩を本当に分るということは、多分不可能に近いことでしょう。ある程度ドイツ語の分る方でも、その詩の持っている本質的な美を感じとることは、快感と感じることは、とても難しいことだろうと思います。それはちょうど、芭蕉の俳句や柿本人麻呂の長歌、和歌をドイツ人が理解しにくい、たとえ日本語が分ったとしても、私たちがそこから感じとるそれぞれの心、快感、感動といったものには中々辿りつけないだろうというのと同じです。例えば芭蕉の有名な句、「(しず)かさや、岩にしみ入る蝉の声」の、この「しみ入る」という言葉から私たちが受け止めるニュアンスやその音の響き、語感といったものは、ドイツ人には中々分りにくいだろうと思います。そしてまた、私たちがドイツ詩を日本語の訳詩で読むとき、雰囲気と、意味は伝わりますが、例えばそのリズム感といったものを感じ取ることは、殆んど不可能に近いでしょう。その意味では、我々東洋人にとって、ゲーテの詩を最もその本質に近い形で鑑賞する方法は、もしかすると、邦詩で歌われるシューベルトの歌曲ではないかと思うのです。ちょっと我田引水に聞こえるかもしれませんが、確かにパノフカが言うように、ゲーテとシューベルトの目に見えない絆が、わたしたち日本人にドイツの不滅の名声を約束してきたのだと思います。

さあ、いよいよ、プログラムも最後となりました。5曲を続けて演奏していただきます。

「湖上にて」は、ゲーテ26歳のとき、友人たちに誘われてスイスを旅した際、チューリッヒ湖でのボートの中で生まれた詩だと言われています。ゲーテはこの頃、リリー・シェーネマンという16歳の少女との恋に悩んでいて、第2節に出てくる「金色(こんじき)の夢」というのは、リリーとの幸せな、しかし悩み多い日々のことを示しています。この3節の詩は、ドイツ語では、それぞれ異なったリズムで書かれていて、それがこの詩のそれぞれの節ごとの気分や情緒の違いを見事に表現しているといわれています。その変化するリズムに乗って、作曲家シューベルトは、例えば第2節で短調に転調することで表現しています。例によってピアノの伴奏もまた、シューベルトらしく、滑るボートに打ち寄せる波の音や、朝風、湖畔の様子を描写してくれます。シューベルト20歳の時の作品です。

「月に寄せてU」これはゲーテの抒情詩中の白眉だとされています。ヴァイマール公国の執務に疲れたゲーテは、郊外の清流イルム川のすぐ脇にある東屋にひきこもります。この詩の世界は、そこにあります。第1節だけ読んで見ましょう。

音もなくたなびく霧を白銀(しろがね)に光らせ

お前がまた玲瓏と谷に木立に照り渡ると、

わたしの心もまた漸くに

余すなくほどける。

すべては、この玲瓏とした月明かりのもとで繰り広げられます。月明かりのもとでの自然を描写しながら、ゲーテは自分の心のうちの葛藤、揺れ動き、そして時の流れを表現しています。シューベルトは、このゲーテの同じ詩に2度作曲を試みています。これは22歳の時の作品ですが、全編に亘って、詩人の心にさす月の光が、感じ取られます。とても好きな曲なので、今回邦詩の試みをしましたが、まだまだ稿を重ねて行かねばと思っています。

そして、「ガニュメート」「ミューズの子」「プロメテウス」の3曲は、ゲーテがギリシャ神話から材を取った詩に、シューベルトが作曲したものです。ここでは「プロメテウス」を簡単にご説明しておきましょう。ギリシャ神話に登場するプロメテウスは、自分の姿にかたどって、人類を創り出し、天上の火を盗んできて人間に与えたためにゼウスの怒りを買い、コーカサス山中の岩山につながれ、日々鷲にその内臓をついばまれるという目にあいます。しかし、長い苦しみの末、ついにヘラクレスによって解放されたという物語です。ゲーテの詩は、このプロメテウスの独白の形をとって、ゼウスに抗って、自分と同じ種族、悩み、泣き、享楽し。歓喜する人間というものを創造するのだという決意、思いの丈をぶつけます。シューベルトはこれをバスのための曲として書いたのですが、今日はテノールの畑さんが、その音域の広さを証明して見せるが如く歌い上げるのも聞き所です。

それでは、畑さん、渡辺さんお願いします。

 

             ( 演  奏 )

最近の例会へ戻る