シューベルト最期の20日間と

                弦楽五重奏曲・ハ長調

 

今から180年前の11月19日に、シューベルトはその31年の生涯を閉じました。

死の前日、彼の病状は急速に悪化し、幻覚症状が現われるようになり、自分が見知らぬ部屋か場所にいて、必死に脱出しようと、ベッドから出ようともがき苦しむようになりますが、いっとき静かな時を迎えることになります。その日の夕刻、シューベルトは兄のフェルディナントをベッドの脇に呼んで弱々しげに話しかけます。「フェルディナント!僕の口のそばに耳を貸して。僕は一体どうしちまったんだ。」フェルディナントは、彼の心を静めようとして「みんな、お前が良くなるのを心待ちにしているよ。それに医者も、ちゃんと言うことを聞いたら、もうすぐ回復すると保証している」と言って力づけます。二、三時間後、医者のヴェーリング博士が訪ねてきた時、シューベルトは彼をじっと見つめると、弱々しく片手で壁を掴むようにして、ゆっくり、そして真剣にこう言った。「これが、これが僕の最期なんだ。」そしてシューベルトはその翌日19日の午後3時に、息をひきとることになります。

ドイツの著名な作家、トーマス・マンはその長編小説「ブッデンブローク家の人々」の最後の章で、明らかに、このシューベルトの最期の状況を再現して見せています。この小説は、18世紀から19世紀のリューベックという町の、ある商家、商人の家ですね、ブッデンブローク家の4代に亘る繁栄と没落を描いた小説で、いわば家族の歴史を扱った大河小説なのですが、従って、そこには何人もの人々の臨終の場面が描かれていくことになります。五代目のブッデンブローク家の当主になる筈であった15歳の少年、ヨハン・ブッデンブロークは、音楽の才能に恵まれた、いわば天才少年として描かれているのですが、この小説の最後のところで、彼は腸チフスにかかって亡くなります。そのシーンを描くにあたってトーマス・マンは、明らかにシューベルトのこのシーンを下敷きにしてイメージしていると思われます。そこのところをちょっと読んでみましょう。

 

腸チフスの場合、次のような経過をたどる:

 熱が最高潮に達したとき、生命の声が病人を呼ぶ。遠い夢の中を彷徨っているような彼を呼び起こす、それもはっきりした声で。厳しく有無を言わさぬ呼び声が、闇と冷気と平安に導くあの遠い小道を通って精神にたどりつく。彼は生命の呼び声を聞く、彼がずっと後ろの方に残してきた、既に忘れてしまっていたあの遠い光景に帰って来るようにと言う、はっきりとした、生々しく、嘲るような呼び出しが聞こえる。そしてそこでは、義務を果たさなかったことへの恥の感情のようなものがこみ上げてくるかもしれない。ある種の活力、勇気、そして希望のようなものが甦ってくるかもしれない。ずっと後ろの方に置いてきたと思っていた、心を掻き立て、カラフルで、それでいて冷酷なあの生活というものと、自分自身との間に未だ絆が存在することを認めるかもしれない。その時は、遠い小道をどれほど遠くまで彷徨って来ていたとしても、彼は帰って来る――そして生き返る。しかし、もし生命の声を聞いたとき彼が身震いするなら、もしあの消えた光景を思い起こし、あの元気な呼び声の声音を思い起こして、彼が首を横に振ったり、或いは、開かれた逃げ道に飛んでゆくために、その声をかわそうと後ろに手を伸ばすなら――そのときには、間違いなく病人は死ぬ。

 

シューベルトの死因には諸説あるのですが、直接的な原因は腸チフスだったと言うのが、20世紀の研究家たちのおおかたの意見のようです。トーマス・マンの文章は、病人の側からの描写になっていますが、生死の分かれ目にいたシューベルトにとって、フェルディナントの声や、ヴェーリング博士の話しかける声は、きっとこのように聞こえていたでしょうし、壁の方に伸ばす手の動きは、確かにその声から身をかわそうとする動きであったように思われます。

 

シューベルトは25歳の時に「梅毒」を発症します。それから6年間というもの、繰り返し、繰り返し体調不良の時期がやってきました。しばらくの間体調をくずしているかと思えば、比較的良好な健康を取り戻し、再び体調をくずすといった調子が続いていました。この最後の年の8月末にも体調をくずし、「絶間無いめまいと、頭に血が上るのに」悩まされていたシューベルトは、9月になると医者の勧めで、ウィーン市郊外の兄フェルディナントの新しい家に引っ越します。そのせいかどうか、やがて健康を取り戻したかのように見えるこの9月の2、3週間の間に、シューベルトは、ピアノソナタを三曲、そして今日これから演奏される弦楽五重奏曲という傑作の数々をまるで熱に浮かされたような勢いで、完成します。その反動もあったのでしょうか、10月ごろから、シューベルトは食欲がなく、再び体調不良を訴えるようになります。

そして、10月31日、夕食に魚を食べようとして、最初の一口を食べてから、突然ナイフとフォークを皿の上に投げ出し、シューベルトはこう言ったそうです。「この魚はひどく吐き気がする、まるで毒を食べたみたいだ。」この時から、シューベルトはもうほとんど何も食べず飲まず、ただ薬を飲むだけだったと言うのです。

この日から、死に至る11月19日まで、人々の証言をもとに記録を整理してみたものが、プログラムに掲載した「シューベルト最期の20日間」です。これを見て分るように11月10日までの1週間あまり、特別な症状は現われていないように見えます。それどころか、兄の作曲したレクイエムの演奏を聴きに、徒歩で3時間もの距離を往復したりしているのです。さすがに、帰り道で、シューベルトはしきりに疲れたと訴えていたようですが。そしてその翌日、11月4日には、(プログラムの原稿では、抜けてしまってますが)友人のヨーゼフ・ランツと一緒に、対位法とフーガのレッスンを受けにゼヒターの家まで、これもまた徒歩で往復しているのです。しかし、次の週の二回目のレッスンの予約日には、もうシューベルトはベッドから出ることが出来ませんでした。又、シェーンシュタイン男爵の言っていることが、信頼できるものとすると、その週の土曜か日曜には、男爵主催の晩餐会に出席し、「いつになく明るく」「はしゃぎすぎるほど」だったようです。シェーンシュタインは、その夜のシューベルトは、かなりワインを飲んでいたと指摘しています。

このように、シューベルト自身も、又周りの人たちも、これまでと同様、梅毒によるいつもの体調不良であると、高を括っていた節があります。しかし、この時点で、彼は腸チフスに罹っていた、というのが、20世紀の研究家たちの大方の意見のようです。無論この時代にチフス菌というものはまだ発見されていませんし、そのための薬も出来ていません。したがって、たとえそれに気づいたとしても、梅毒による、そして又誤った治療法であった水銀治療による水銀中毒がもたらした体力の消耗の故に、それに打ち勝つことは出来なかっただろうと思われます。

さて、彼が病床についたのは、かかりつけの医者、リンネが往診していることからしても、おそらく11月11日だろうと思われます。この頃シュパウンが訪ねて来ます。シューベルトが譜面の校正をするように、賛美歌23番のコピーを持ってやって来たのです。シュパウンは後に、この時の様子を次のように書いています。「彼の体調は、私には決して深刻には見えなかった。彼は私の写譜をベッドの上で校正したが、私に会えたことを喜んで、こう言った。『本当に僕は全く何でもないんだ、ただ僕は消耗しきって、ベッドをすり抜けて落ちてしまいそうな気がするんだ。』…私は何の心配もせずに彼と別れて帰った。」

その23日後には、出版社から送られてきた歌曲集「冬の旅」の第2部の校正を、ベッドに座ってやっていたというのですから、シューベルトの精神的活力は全く衰えていないかのようです。

あくる日の12日に、シューベルトは友人のショーバー宛にメモを書き送っています。当時評判だったアメリカの小説家クーパーの本を届けてほしいと言う依頼です。これがいわば最後の手紙になるわけですが、この中で自分は「病気で」、ここ11日間、飲まず食わずだと書いています。この頃の彼はベッドと椅子の間を「よろよろとふらつきながら歩くことが出来た」が、栄養をつけようと何か食べても、直ぐにもどしたようです。この日、かかりつけの医者リンネも病気になったため、急遽代理としてヴェーリング博士が往診します。

そして、14日、死の5日前のこの日、シューベルトは自分の部屋でベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いたというエピソードが伝わっています。これは、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」の初演のメンバーでもあったほどの優秀なアマチュア・バイオリニスト、カール・ホルツが語り伝えている話で、それによると、彼はシューベルトからの依頼に応えて、彼の部屋で、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調・作品131を演奏したというのです。そのときシューベルトは、「気分が優れない」と訴えていたが、彼らが演奏し終わると、シューベルトはとても感動した様子で、喜びと感激のあまり、ぐったりしているので、彼らはとても心配した。それからは回復することなく、更に悪化した、と語り伝えています。確かにこの日を境に、シューベルトの病状は悪化の一途を辿り、冒頭で引用したように、幻覚を見るようになり、ベッドから出ようと暴れるようになり、従って男の看護人が必要な状態に至るわけです。

さて、この時期にシューベルトは、一体何故ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きたがったのでしょうか。このハ短調の作品131は、ベートーヴェンのほぼ最後の四重奏曲と言っていいでしょう。面白いことに、晩年のベートーヴェンは、四重奏の作品に於いては、それまでの厳格なソナタ形式を捨て、様々な試みを始めているのです。そのひとつとして、このハ短調の曲は7楽章という形式を、しかも。そこでは、最晩年のベートーヴェンの到達した人生のある境地と言った世界が繰り広げられていると言われている名曲です。この曲は前の年に出版はされていたのですが、この時点ではまだ公開演奏されていませんでした。シューベルトは自分の死を意識していたのでしょうか。いわば最後の晩餐ならぬ、最後のプライベート・コンサートに、尊敬するベートーヴェンを選んだと言うことでしょうか。そうだったのかもしれません。しかし、もしそうだとすると、初演もされていない曲を、いきなり演奏依頼されたカルテットの演奏家たちはさぞ困ったことでしょう。いくら優秀なカルテットだとしても2、3日で合わせられるとは思えません。もしかすると、これを最初に依頼したのは、実はもっと前、自分の弦楽五重奏曲の試演をやった頃のことではなかったのか。

これはあくまで想像ですが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いていたこの時、シューベルトの心のうちには、同時に、最近完成したばかりの自作の弦楽五重奏曲が、鳴り響いていたのではないか、自作がどこまであの尊敬するベートーヴェンの域に迫っているのか、それを確かめたかったのではないか、私は、そんな思いを馳せてみたくなるのです。それほど、この弦楽五重奏曲・ハ長調は、シューベルトにとっても自信作であった筈です。演奏の終わった後、喜びと感激の余りぐったりとしたシューベルト。そこには、自分の五重奏曲に対する確信がもたらした喜び、そして感激があったはずだと、私には思えるし、思いたいのです。

実際私は、この二つの曲を続けて聴いてみたことがあります。驚くほど、そこに表現されている世界は似ているのです。曲が似ているのではありません。二人が描こうとしているその世界が似ていると言いたいのです。

年を取るということは、必ずしも悪いことばかりではありません。年を取るとかえって、無駄なものがそぎ落とされ、純粋に、深いところで喜び、悲しみ、そして感じることが出来るようになります。作曲家も同じだと思います。ベートーヴェンも、複雑な構造をしたソナタ形式を捨て、深いところで感じられる情感を、実にシンプルな形式で織り成すようになり、その結果、4楽章では足りなくなり、7楽章になっていた、というのが、実はあの嬰ハ短調の四重奏曲だったのだと思われます。シューベルトが描いている世界もまた、そのように実にシンプルな表現になっています。シューベルトはまだ若いではないかと言われるかもしれません。しかし、年数のことを言っているのではありません。シューベルトは、短くとも充分に生きていたのです。そして充分年を取っていたと言っていいでしょう。だからこそ、晩年のベートーヴェンの音楽に匹敵する傑作をシューベルトは31歳で作曲することが出来たのです。

 

私たちの年頃になりますと、死は、もうそこまで来ていると感じることがあります。仲間うちの話しにも、自分の葬式には、あの曲をかけてほしいといった話がでたりします。しかし、最近私は、死んだ後の葬式より、最後の晩餐ならぬ、この最後の私的コンサートというのはいいなと思うようになっています。皆さんなら、そのとき何を聞きたいと思われるでしょうか。

冒頭で引用したトーマス・マンは、シューベルトのこの弦楽五重奏曲について、「これは、人が死の床で聞きたいと思う音楽だ」と言っています。確かに、奇しくもシューベルト最後の傑作となったこの作品は、ハ長調と言う調性が示しているように、シューベルトが、自分のそれまでの人生を、限りなく肯定的にとらえて、描いている音楽だと思われます。そのような意味で、これは、トーマス・マンが言うように、最後のコンサートの第一候補であるかもしれません。

 

それでは、早速演奏していただきましょう。

コリーナ・ヴェルディの皆さん、お願いします。

                  (演    奏)


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