イ短調──ハ長調──そして再びイ短調 

 

昨年の5月の例会で、今日と同じ大原さんのピアノ演奏でしたが、私たちはピアノソナタ第14番・イ短調を聞きました。そのとき私は、シューベルトのピアノソナタは、まるで日記のようだというお話しをしました。14番のイ短調は、自分が梅毒に罹ったことを知った直後の、激しい感情の振幅が、まるで日記の中の文章のように、赤裸々に表れていると。そこには逼迫した感情の移り動きが、鮮明に、リアリティをもって描写され、私たちの心に迫ってきます。不安、悲しみ、苦悩、後悔、怒り、そういった感情を、抑えれば抑えるほど湧き出てくる様子を実に克明に、まるで自動筆記であるかのように、描写しています。

このソナタを書き上げた2ヵ月後にシューベルトは「私の祈り」という詩を書くのですが、その詩の最後の二連を読んでみましょう。

私の祈り(Mein Gebet

 

見よ!途方も無い苦悩の餌食となって、

塵の中に無惨な姿で横たわる私の人生、

その責め苦の道が、

永遠の破滅へと近づきつつある。

 

殺せ、この私を殺せ!

レテ(忘却)の河に全てを突き落とせ、

その上で、育み給え、全能の神よ、

純粋で力強い存在をひとつ。

 

もう一度全てを白紙に戻して、再生したいという願い。しかし無論、後戻りは出来ません。再生が可能であるとすれば、それは芸術の世界、音楽の中でしかあり得ないのです。事実、彼はその道を選びます。シューベルトはこの時、嘗て16歳のシューベルトに向って「君は音楽のために生きるように、それが君を幸福にするだろう。」という、あの詩人ケルナーの励ましの言葉を思い出していたに違いありません。病気に押しつぶされそうになる自分との戦いは、シューベルトの中での作曲の意味合いを変えていきます。作曲は、これまでのように、ただ心に浮かぶ旋律を、自動筆記のように音符にすることだけではすまなくなってきています。作曲を通じて人生の再生を実現するためには、そこに、独立したひとつの世界を構築しなくてはなりません。単なる自己告白から、表現の世界へのそれは第一歩でした。不治の病を自ら引き受けること、そこに自分の道を見出そう。先ほどの詩の最後の一行、「純粋で、力強い存在をひとつ」、それが意味するものは、再生すべき彼の人生であると同時に、彼がこれから創造していくべき音楽をも意味していたのです。それから2年、ようやく彼はピアノソナタに取り掛かります。彼はまず思い切って人生を肯定的に捉えようとしたのではないでしょうか。調性にハ長調を選びます。2楽章まで完成しますが、未完に終わります。それとオーバーラップするかのように、彼はイ短調を選びます。これは明らかに原点への回帰です。第1楽章では、2年前のあの極限状況で掴んだテーマを彼は展開していきます。同じイ短調で。そして2楽章にはハ長調を選びます。ここにはこの時点でたどり着いたひとつの境地、ようやく得られた一時の心の平穏の主題が、見事に変奏されていきます。この変奏曲は、このソナタのハイライトではないでしょうか。そして3楽章に至っては、スケルツォが登場します。「諧謔」を音楽化するほどに、シューベルトの心には余裕があったようです。今では、彼は、生々しく自分の内面をさらけ出すのではなく、それらを一旦客観化して、ひとつの表現、作品にまで昇華していくことが出来るようになっていました。14番のイ短調と聴き比べてみるとお分かりいただけると思うのですが、ここには、シューベルトが再生を期して作り上げた、ひとつの独立した世界が存在します。このソナタは、当時としては定番だった四楽章の構成になっています。そのような意味もこめてのことでしょう、シューベルトはこのソナタの出版された譜面にこう書いています。「大ソナタ第1番」と。

それでは、イ短調のピアノソナタをお聞きください。

ピアノ演奏は、大原亜子さんです。

 

               (演  奏)

 

如何でしたでしょうか。

このソナタの第2楽章、変奏曲を、シューベルトは作曲して間もない旅先で、自ら演奏しました。大好評だったようです。そのときの様子をシューベルトはこのように手紙の中で書いています。

 

 「特に喜ばれたのが、僕の新作のピアノソナタの変奏曲でした。僕自身が演奏したのですが、僕の演奏もまんざらではなかったようです。何人かの人たちが、あなたの手にかかると、ピアノの鍵盤がまるで歌を歌っているかのようですと言ってくれたからです。それが本当だとすると、僕にはとても嬉しい言葉でした。というのも、僕は著名なピアニストにもありがちな、あのいまいましい鍵盤を叩くような弾き方には我慢できないし、僕の耳も心も受けつけないからです。」

 

旅先で好評だったのは、偶然ではなかったようです。このソナタは、作曲されてから一年足らずの間に出版されます。これは、初めて出版されたピアノソナタです。シューベルトは自信を持っていたのでしょう。譜面の表紙には、フランス語で「大ソナタ第1番・イ短調」となっています。

プログラムの最後のページに、楽譜が出版されて間もない頃のライプチッヒの新聞評を掲載しましたが、これ大分褒めてますので、シューベルトファンとしましては、嬉しくなって載せたんですが、私の申し上げた「独立したひとつの世界」をこの記者は「幻想」だと捉えているわけです。シューベルトの狙いにあたらずとも遠からずの批評であるかもしれません。

さて次は、いよいよ、ピアノ連弾曲ですが、その前に15分ほど休憩を取りたいと思います。

 

             (休  憩)

 

18世紀の末ごろから、クラシック音楽の担い手は、それまでの貴族から、次第に裕福な市民階級に移っていきました。シューベルトの時代になると、中流家庭にも、今やピアノの一台はあって、子供たちには家庭教師がついて楽器や歌のレッスンを受けたりしていました。そんな中で、いわゆる「ハウスムジーク(家庭音楽)」というものの需要が高まり、音楽出版社もそういった譜面を欲しがりました。アマチュアでも弾けて、そのうえ魅力的な曲、そういった需要からは、歌曲やピアノの舞曲などが最も好まれました。そんな当時の状況から、ピアノ連弾の機会は、今以上にあったようです。この時代の連弾は、一台のピアノを二人で演奏するという連弾です。例えば先生と生徒の発表会のようなときなどにもよく演奏されていたでしょう。これから演奏する「ロンド・イ長調」もアルタリアというウィーンの音楽出版社からの依頼で作曲したものです。

それでは早速演奏していただきましょう。大原さんと矢澤さんご夫妻の息の合った演奏をお楽しみください。

 

              (演  奏)

 

シューベルトの親しい友人で、画家のシュヴィントが、一枚の有名な絵を残しています。「ヨーゼフ・フォン・シュパウン邸でのシューベルティアーデ」というタイトルの絵で、ピアノを弾くシューベルト、その脇には歌手のフォーグル、その周りを囲むように、貴婦人たちやシューベルトの仲間たちが30人あまり、いつものシューベルティアーデの様子が再現されています。ところが、その中に一点、謎かけのように、あり得ないものが書き込まれています。客間の正面の壁の中央に、つまりこの絵のほぼ真ん中に、カロリーネ・エステルハーツィーの肖像画が掛かっているのです。そのシンボリックな扱いは、まるで、彼女こそシューベルトの作曲の源、インスピレーションの源、ミューズであると、そう言っているかのようです。

確かに、シューベルトが、伯爵令嬢カロリーネに恋をしていたことは、友人たちの間では、周知のことであったようです。友人のバウエルンフェルトは、1828年2月の日記にこう書いています。これはちょうどシューベルトがこの幻想曲のスケッチを書き終えたころになります。「シューベルトは、エステルハーツィー伯爵令嬢に真剣に恋しているように見える。彼のために僕は嬉しく思っている。彼は今、彼女の個人レッスンをしている。」

もう一人証人がいます。シェーンシュタイン男爵という、エステルハーツィー伯爵とも懇意な、ハイ・バリトンの歌い手で、シューベルトのリートの愛好者でもありました。彼の回顧録の中からの言葉です。

「詩的な恋の炎は、シューベルトが死ぬまで燃え続けたのです。カロリーネは、彼に対しても、彼の才能に対しても最高の尊敬の念を抱いていましたが、この恋に答えはしませんでした。多分彼女は、彼の気持ちの程度が分らなかったのです。私が「程度」と言うのは、彼が彼女を愛していたということは、シューベルトの一言、彼の一回きりの宣言によって間違いなく彼女は分っていたからです。かつて、彼女がからかって、自分には一曲も曲が捧げられていないとシューベルトをなじると、すぐさま彼はこう答えたのです。「どういうことですか、全ての曲は、あなたに捧げられているのですよ。」

無論、この恋は叶わぬ恋でした。そのことは、シューベルト自身が一番分っていたでしょう。しかしその苦しい思いが、そのまま一曲の音楽になります。これから演奏される「幻想曲・へ短調」です。そこには、恋焦がれる想いと、それが叶えられないことでいっそう激しく燃え上がり、いわば危険な臨界点にまで達しそうな内からの欲求。そしてまた、初めて会ったあの頃の胸のときめき。そういった、カロリーネへの思いのたけが、幻想曲という自由な形式の中で、存分に表現されている、ピアノ連弾曲の傑作です。もし、ロマン派の音楽の特徴というものが、つまり古典派の音楽との相違点が、「個人的な感情の発露」であるとするなら、この幻想曲は、紛れもなくロマン派の音楽であると言うべきでしょう。

 話しはちょっと飛ぶのですが、私は以前、シューベルトの歌曲のメロディが、生まれてくる「秘密の仕掛け」について、こんな話をしたことがあります。

         

「ドイツの詩には、独特のリズムがあり、その詩の持っているリズムと、それがシューベルトの歌曲となってゆく様子は、例えば「ろくろ」と指先の関係を思わせます。「ろくろ」の速さと、その変化、そういったものが指先に伝わり、そこから或る形が生み出されてくる。例えば、ゲーテの詩の持っているリズムがシューベルトの感性に伝わり、そこから自然にメロディが生み出される。そんな気がするのです。シューベルトの作曲は、おそらく詩の朗唱から始まります。繰り返し朗唱するうちに、その詩の持つリズムが、彼の心の中の、ある器官に働きかけ、次第に、それはひとつのメロディになって現われてくるのだと思われるのです。」

と、こんな話だったのですが、これは歌曲の作曲の時の話になっているのですが、シューベルトは、歌曲の時だけではなく、もしかすると、器楽曲を作曲する時にも、そのモチーフは、ある言葉のイメージ、リズムから生まれ出てくるのではないか。実は、私は内心そういう仮説を立てていました。そしてそんな話を雑談でしていたことがありました。しかし、これを実証するのは、私のドイツ語の能力では至難の業、というかほとんど不可能に近いことだと思っていました。しかし、この話をピアニストの大原さんは覚えていてくれました。そして、この幻想曲の冒頭の主題、冒頭の五つの音符によるモチーフの謎が解けたと彼女は思ったそうです。「ど・ど・ど・ふぁー・ど」というモチーフは、最初の三つのドにはスタッカートがついていて、しかもファの前には修飾音符の短いドがついている。このモチーフの演奏の仕方に煮詰まっている時、ふと気付いたそうです。これはきっと、……と、ここで謎掛けにして演奏に入ろうかとも思ったのですが、それでは皆さんは、まるでクイズの時間になってしまって、せっかくの演奏が楽しめないということに気付きまして、ここでご披露することに致します。この五つの音を、彼女は「カロリーネ」と聞いたのです。繰り返されるこのモチーフが、名前だというのは、この曲の成り立ちからも、実に自然なことだと思われます。わたしの仮説の実証第一号だと、一番喜んだのは、この私です。そんな話をしていると、今度は矢澤さんが、モチーフはドとファだけで出来てますが、ドはC、ファはF、これはつまり、カロリーネとフランツの頭文字ですね、と、ちょっとした謎解き合戦のようになりました。

さて、シューベルトは、この幻想曲の中で、カノン(合唱で言うとあの輪唱のように、メロディを追いかけて行く手法のことです)四声のカノンを効果的に使っています。ここでは4本の手なので、四手のカノンというのでしょうか。連弾の二人、プリモとセコンドによる、このカノンは、そしてまたフィナーレでの対位法は、この幻想曲に迫力と厚みを加えていると思います。二人の両手がニア・ミスをしそうになる、体をかわしながら演奏する、そんな様子もお見逃しなく。

それでは演奏していただきましょう。カロリーネに捧げられた、ピアノ連弾のための幻想曲・ヘ短調です。

 

               (演  奏)

 

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