作詩者・W・ミュラーについて:by Y・C・M

原詩の作者・ウィルヘルム・ミュラー(Wilhelm・Mueller)は、1794年ドイツ東部のデッサウに生まれたロマン派の詩人で、シューベルトの「三大歌曲集」のうちの二つ(「美しい水車場の娘」と「冬の旅」)までがかれの詩になるにもかかわらず、1827年にこの世を去るまで、シューベルトの音楽をまったく知ることはなかった。通称を「ギリシャ人のミュラー」と呼ばれたが、それはかれが、英国の詩人バイロンと同様、当時オスマン・トルコ帝国からの独立を目指して戦っていたギリシャ人に感激して、義勇兵として従軍さえしたことがあったからだ、という。かれの息子のマックス・ミュラー(1823〜1900)は、のちに英国のオックスフォード大学で東洋の文献学の教授として有名になった人で、19世紀後半かれの下で何人かの日本人が、サンスクリット語のヴェーダや仏典(「般若心経」や「金剛般若経」など)を英訳する事業に携わったくらいで、日本にもまんざら縁のない人ではない。父親の詩人・ミュラーは、まだ十代の頃にベルリンに出て、ベルリン大学に入学して歴史と言語学を専攻したあと、ある文学者の主宰するサークルの一員となって次第に頭角をあらわし、77篇のロマンチックな詩を集めた「遍歴のワルトホルン吹き」という詩集の巻頭を飾る作品として、「美しい水車場の娘」を発表した。そしてこの作品の一部は、ルードウィヒ・ベルガーという作曲家の手で、シューベルトよりも前に作曲されている。一方「冬の旅」の前半12曲は、もともと1823年にライプチヒで出版された「ウラーニア」という年鑑に収められていて、これがシューベルトの注意を初めてひいた、といわれている。そして後半の12曲は、同じ「遍歴のワルトホルン吹き」の中にある24曲全体のテキストを、1827年になってシューベルトが発見し、この年にようやく作曲が開始されたのであった。ミュラーは、シューベルトがこの歌曲集を完成するより前の1827年に死んでいる。

ミュラーの詩人としての評価は、ゲーテやハイネ、あるいはリュッケルトやシラーなどの歴史的評価の定まった詩人の場合とはちがって、「もしもシューベルトがかれの詩集を二つも作曲しなかったら、恐らくとっくに忘れられてしまっただろう」、という人もあるくらいで、あまり高いとはお世辞にも言えない。けれどもこれは、何もかれの場合だけではなくて、シューベルトが作曲したほとんどあらゆる詩人の場合について言えることであって、シューベルトの音楽がなくても、われわれのような遠い異国の人間にまで名が伝わっている詩人(ゲーテとハイネの二人くらいか?)の方が、むしろ例外中の例外なのである。しかし、生前にはギリシャの独立戦争に感激して書いた「ギリシャ人たちの歌」の作者として有名で、当時まだ新人であったハイネ(シューベルトと同年生まれ)も、かれに敬意を表して、自分の「抒情的間奏曲」を献呈している。また、最後は故郷のデッサウに帰って、そこの図書館長として一生を終えたが、1824年にはワイマールを訪れてゲーテとも面会している。

「美しい水車場の娘」(D795)、そして「冬の旅」(D911)という二大歌曲集以外にも、シューベルトの絶筆とされる「岩の上の羊飼い」(D965)の一部に、ミュラーの作品「山の羊飼い」が使われている。



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