「冬の旅の世界・パート2」

7:「川の上で 10:「休息
8:「回想 11:「春の夢
9:「鬼火 12:「孤独

第七曲:「川の上で

原詩の大意:

「陽気にざわめいていた、明るく荒い流れよ、

どうしてこんなに押し黙って、

別れの挨拶もしてくれないのか?

固く張り詰めた覆いに身を包み、

冷たく身動きもしないで、砂の中に横たわっている

おまえの覆いにとがった石で、孔を明けてやろう

愛する女(ひと)の名前と、日付けと時間を刻み付けよう

初めて出会ったあの日と、別れたあの日を

名前と日付けの周りには、壊れた指輪が取り巻くように

私の心よ、この小川の底に、おまえは自分の姿を見出すことができるだろうか?

たとえ熱い氷の覆いの下に、唸りをあげる渦巻きがあっても

私の心よ(以下繰り返し)」。

 

音楽的データ:

ホ短調、4/4拍子、74小節。全体のテンポは第一作目は「Maessig(ほどほどの速さ)」、第二作目は「Langsam(ゆっくり)」と指定されている。最初の4小節は前奏で、凍結した小川のへりを旅人のとぼとぼと歩くさまが、左右のピアノの交互に刻むスタッカートで描かれる。「押し黙ったまま」から「別れも言わない」という所までは、「sehr leise(きわめてかすかに)」歌うように、と指示されている。「固い氷に」から「砂に埋もれてる」までの部分は、また同じ音型のパターンが繰り返されるが、まったくの反復ではなくて微妙な変化を伴っている。そしてスタッカートの付いた16分音符8個のパッセージを経て、「厚い氷に孔を明けてやろう」から先、「ついでに壊れた指輪の恨みも」までは長調に変わっているが、これは別れたかの女との想い出を偲ぶ詩節と照応させるためである。第一曲(「お休み」)の場合と同様、ここでも長調は単純な明るさではなくて、むしろ悲痛な別離の思いをより一層強調する役割を果たしていて、私はこういうのを「悲しい長調」とか、さらにドギツく「すすり泣く長調」とでも名付けたいと思っている。Dur(長調)というのは本来「乾いた」とか「固い」という意味を表わす名称であるが、「乾いた悲しみ」というものがあるとすれば、これこそがまさにそれであり、中国の古詩を引用すると、「君看よ双眼の色、語らざれば憂い無きに似たり」、という形容が一番この中間部分のムードに近い。デイミヌエンドとなる三連音符が、左右のピアノで交互に奏でられる2小節を経て、「この川底に」から最後の「渦巻きがあるのか?」までは再びホ短調に戻るが、音楽もまた激しい渦巻きを開始して、激情のクライマックスを目指して螺旋状に高まって行き、かれの胸の底にはまだこれほど激しい情熱が渦巻いているのだ、ということを繰り返し繰り返し強調してやまない。「渦巻きがあるのか」というセリフは、そのたびに微妙にメロデイーを変化させながら、なんと五回も反復強調されているのだ!厚い氷に覆い尽くされた川の底には、すべてを押し流す激しい渦巻きが隠れているように、かれの心の奥底には、すべてを引きさらう恋の情熱が、この期に及んでもまだこんなに激しく渦巻いているのである。この「情熱のほとぼり」ともいうべきものを表わす、32分音符8個のピアノの右手は、後奏としての最後の4小節ではデクレシェンドとなって、最後は前奏と同じ歩みをスタッカートの付いたピアニシモで表現しつつ消えて行く。

 

「川の上で」(「冬の旅」第七曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

陽気にざわめく明るい川

おし黙ったまま、別れも言わない

固い衣に覆われてる

身動きもせず、砂に埋もれてる

厚い氷に、孔をあけてやろう

あの娘(こ)の名前を

刻みつけてやろう

初めて出会ったあの日のことも

ついでに壊れた指輪の恨みも

この川底に、秘密があるのか

氷の下に、熱く流れる

渦巻きがあるのか?

渦巻きがあるのか?(繰り返し)

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

張り詰めし氷の下の水底に燃ゆる思いを君は知れるや

 

第八曲:「回想

原詩の大意:

「靴の底が熱く燃えるのをものともせずに、

雪と氷を踏みつけて進む

二度と息も継ぎたくない

物見の塔が見えなくなるまで

石につまずいても気にしないで

町を目指して急いで来た

カラスどもがヒョウや礫を

家の屋根から帽子めがけて

投げつける(繰り返し)

おまえの出迎えぶりは

なんと変わってしまったことか

心変わりした町よ!

キラキラ光る窓辺には

ヒバリやナイチンゲールが

競い合って鳴いていた

丸い菩提樹の樹には花が咲き

澄んだ小川が瀬音を立てていた

そして少女の二つの眼が燃えていた!ー

それがお前の命取りになったのだ

そして少女の(繰り返し)

あの日がもう一度心に戻ったら

もう一度過去を振り返りたい

もう一度よろめくこの足で

かの女の家の前に立ち止まりたい

あの日がもう一度心に(繰り返し)」。

 

音楽的データ:

ト短調、3/4拍子、69小節。テンポは「Nicht zu geschwind(速すぎないように)」、と指定されている。これはまことに意味深長な指定である。はやる心を抑えながら、かれはまた想い出の町へ戻ってきたのだから、歌詞の内容だけからすれば、かなり駆け足になっても不思議はない所だが、いざかの女が住んでいる街へ入ったとなったら、そんなにさっさと進めるはずがないからだ。別れて人妻になっている以前の恋人の家へ、一目散に駆け出せる男がいたとしたら、それははた迷惑なドンキホーテか、それともまったく恋愛の機微に通じない盲目的なストーカーだけだろう。このヒーローは幸か不幸か、もっとはるかに自己抑制のきいたシャイな若者であった。まるでシューベルト自身のように。それはともかく、最初の9小節は前奏で、心をかき乱すような不安なムードを掻き立てる。歌い出しから「カラスの投げつける礫にまみれて」までは短調で、「あの頃はすべてが輝いて」から「それが命取り」までは、またしても「悲しい長調」に変わっている。そして、「も一度あの日が心をよぎる時」で再び短調に戻り、「やり直したいな」という同じコトバで、なんとまたもや長調に変わって、そのまま一気に「あの娘(こ)の家に向かおう」、というクライマックスに到達してしまうのだ!まことに楽観的な結末だと思われるかも知れないが、この曲はそんなに単純で一筋縄でくくれるような凡作ではない。ここにはいかなるオプテイミズムも許さない、「悲しみの人・シューベルト」の峻厳なリアリズムがあるのだ。このヒーローは、はたして現実にかの女の家へ向かったのだろうか?答えは否である。現代の用語でいうなら、かれの心が「タイムワープ」して過去へ戻ったのであって、生身のかれ自身は恐らく、町へ入ったかどうかもさだかではないのである。「あの娘(こ)の家に向かおう」という最後のメロデイーを、耳を澄ましてじっと聞いて見るがいい。まるで「非現実の世界」から流れて来る「幻の声」を聞く思いがするではないか?仮にこれを「幽霊の声」として演出したとしたら、死んだヒーローの一念は、世阿弥の「綾の鼓」の老主人公の霊のように、それを聞いたかの女の精紳に異常を来たさせるだけの迫力を、十分すぎるほど具えていると言えるだろう。

 

「回想」(「冬の旅」第八曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

かかとが熱くなる氷を踏みつけ

息もつがないで走り続けるだけ

石につまつ”いても

かまわずに進む

カラスの投げつける

礫(つぶて)にまみれて

屋根から降り注ぐ

霰(あられ)にまみれて

あの頃はすべてが

輝いて見えた

キラキラ光る窓

小鳥のさえずり

リンデの樹は花咲き

小川はせせらぎ

あの娘(こ)の眼が燃えた

それが命取り

あの娘(こ)の眼が燃えた

それが命取り

も一度あの日が心をよぎる時

も一度あの娘(こ)の

家を探したいな

あの日に返れたら

やり直したいな

あの娘(こ)の家の前に

も一度立とう

あの娘(こ)の家の前に

もう一度立つのだ

あの娘(こ)の家に向かおう

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

離れいて再び三度び君が家によろめく足で向かひたくなる

 

第九曲:「鬼火」

原詩の大意:

「深い深い岩の底へと、鬼火が私を誘惑する

出口を見つけることなどは、この私には何でもない

この私には何でもない

迷い道なら慣れているから、

どんな道でも目的地に行ける

喜びだろうと、苦しみだろうと、

すべては鬼火のたわむれなのだ

山から流れ落ちる滝を潜り抜けて

私は悠然と身をくねらせる

どんな川でも最後は海に注ぐように

どんな苦しみも墓場で終わる

どんな川でも(繰り返し)」。

 

音楽データ:

ロ短調、3/8拍子、43小節。テンポは「Langsam(ゆっくり)」と指定されている。最初の4小節が前奏で、スタッカートの付いた三連音符が三つ並んだ小節が、ヒーローを地獄の方へ招く鬼火のユラユラ揺れるさまを、心憎いばかりに描き出している。かれはその鬼火の招く方向へ、悠々として身を任せるが、それは「出口は探せばたやすく分かる。探せばたやすく見つかる」ことを、手の筋のようによく知っているからである。なぜならかれはもともと「地獄の住人」だからだ。この世の「喜びも苦しみも鬼火のたわむれ」にすぎないことを、生きながら体験したかれ以上に、よく知っている人は誰もいないからだ。たとえばなしとしてではなく、ほんとうにこの世が「生き地獄」だということを、生身で体験した末に、骨身に染みて知っている人ならば、地獄へ招く鬼火を怖がるはずがない。このヒーローのように、そしてこのヒーローと心理的に一体となったシューベルトのように。これはいわゆる「東洋の悟りの世界」とは180度違う世界ではあるが、強いて一致点を求めるとするなら、「六道を能化する」使命を帯びたクシーテイガルバ(地蔵菩薩)のように、地獄の苦しみの中でうごめく亡者たちに一筋の光となって降りて行く存在、俗にいう「地獄で仏」のような存在、それがシューベルトの音楽だ、ということになる。すべての川がやがては海に注ぐように、すべての苦しみも「やがては墓場で終わる」。これは、「死者はすべて仏になる」、という東洋の死生観と重ね合わせることもできる、シューベルトの一つの諦念というか結論でもある。

 

「鬼火」(「冬の旅」第九曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

深い地の底へ鬼火が招くよ

出口は探せばたやすく分かる

探せばたやすく見つかる

迷い道は慣れたものだ

どこでも出られる

喜び、苦しみ、すべてたわむれ

すべては鬼火のたわむれ

峰を流れ落ちる川を下れば

やがては海に出られるさ

どんな悩みも終わるさ

いつかは海へと流れて

どんな苦しみも終わるさ

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

喜びもなべてこの世の苦しみもサタンの作りし鬼火のたはむれ

 

第十曲:「休息

原詩の大意:

「今私は初めて知った、

自分がこんなに疲れていることを

それは身体を横にして休んだからだ

さすらいの旅が私を捕らえて放さず

道なき道をただひたすら

よじ登ることを迫ったからだ

両足も休息を求めなかったが、

それはあまりの寒さで

立ち止まることも出来なかったからだ

背中の荷物も苦にならなかった

嵐が私の背中を押して

先へ先へと急き立てたからだ

背中の荷物も(繰り返し)

私はとある炭焼きの狭い小屋に

一時の宿りの場所を見つけた

でも手足はゆっくり休むわけには行かない

あちこちの傷が痛み出したからだ

私の心も同じように

戦いの嵐を潜り抜けて

恐れも知らず勇敢に

戦い抜いたその果てに

このやすらぎの中で初めて

古傷のうずく痛みに目覚めるのだ

熱い針に突き刺されるような痛みに

この安らぎの中で初めて(繰り返し)」。

 

音楽データ:

ハ短調(第一作はニ短調)、2/4拍子、67小節。テンポは「Maessig(ほどほどに)」、と指定されている。最初の5小節の前奏は、凍てついた山道を夢中で登って来たヒーローの重い足取りを表現する。「背中の荷物も苦にならない」という部分だけが「leise(小声で)」と指示されている。そしてすぐ後に続く「大嵐に急き立てられ」が「stark(強く)」と指示されているのと際立った対照をなしていて、それが二度も繰り返される。そして4小節の間奏のあとフェルマータで一呼吸してから、ヒーローはようやく「炭焼きの小屋にねぐらを見つける」のである。その後の後半も冒頭と同じメロデイーが繰り返されるのだが、これもまた「有節リード」ではなくて、全体がクライマックスへ向かって螺旋状に高まって行く重層構造になっている。なぜなら、前半の「大嵐に急き立てられ」たのは、単にヒーローの肉体であったのに対して、後半で「静かな休みのひとときに」目覚めさせられたものは、ヒーローにとって最も致命的(フェータル)な、心を蝕む「恋の痛み」だったからである。これに匹敵する表現を求めようとするなら、私には「万葉集巻七」の次の歌しか思い当たらない。

「巌をも行き徹るべきますらをも恋とふことは後悔いにけり」

 

「休息」(「冬の旅」第十曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

疲れを初めて知る

この安らぎ

疲れを忘れて

旅を続けた

足も止められない

あまりの寒さ

背中の荷物も

苦にならない

大嵐に急き立てられ

背負った荷物も

忘れるほど

大嵐に吹かれた日々

炭焼きの小屋に

ねぐらを見つけた

手足を伸ばすと

傷が痛み出す

嵐にもまれて

忘れた傷が

おお、この時

初めてうずき出す

熱い針に突き刺される

ああ、静かな

休みのひとときに

恋の痛みが目覚める

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

戦ひの嵐も絶えてやうやくにうずく古傷の痛みに悶える

 

第十一曲:「春の夢」

原詩の大意:

「夢に見たのは色とりどりの草花

五月に咲き誇る姿そのまま

夢に見たのは緑の草原

楽しげな鳥のさえずり

楽しげな鳥のさえずり

鶏の鳴き声がすると

私の目が覚めた

あたりは寒くて暗く

カラスどもが屋根の上で

カアカア騒いでいる

あたりは寒くて暗く(繰り返し)

でもあの窓ガラスには

花の絵が描かれている

誰が描いたか知らないが

花の絵が描かれている

君たちは夢を見る男を

笑っているだろう

真冬になっても

花の夢を見ている

こんな男のことを

夢に見たのは積年の恋

美しい乙女の姿

抱き合ってくちつ”けを交わす

喜びと幸せ

そして鶏が鳴くと

ハートも目覚める

ここでは私はたった一人

夢を追いかけるだけ

ここでは(繰り返し)

また眼を閉じても

熱いハートは

鼓動をやめない

熱いハートは

鼓動をやめない

窓の花がまた咲き出すのは

いつのことだろう?

愛する女(ひと)を腕に抱くのは

一体いつのことだろう?

愛する女(ひと)を(繰り返し)」。

 

音楽データ:

イ長調、6/8拍子、88小節。テンポは、第一作目は「etwas geschwind(やや速めに)」、第二作目は「etwas bewegt(少し感情をこめて)」、と指定し直されている。機械的な指定では十分な表現が不可能だと思われたためだろう。前奏の4小節に続く「私の見た夢」から「楽しい歌声」までの15小節、この部分に匹敵する「天国の美」を表わした音楽というものは、ヨーロッパの音楽史上まさに空前絶後、比類を絶したものであって、これ以上の「春の夢」は、この世の終わりになっても、はるか未来の「弥勒の世」に至るまで、完成も実現もされることはないだろう、と思う。それほどの美しさに満ち溢れたものである。ところがこの夢は突然「覚めて」、ヒーローはまた「寒くて暗い」朝を迎えることになってしまう。楽段(ペリオーデ)という単位で観察すると、二度繰り返されて強調される「カラス」の鳴き声までで初めて一単位なのである。いわばはじめから、「覚める」ことを予定されている「春の夢」だった、ということになるのだ。次の段落は、「langsam(ゆっくり)」と指定された28小節目にようやく開始される。「でも窓際に」から「笑っておくれ」までは、我に帰ったヒーローの「悲しい現実」に対面する自嘲と絶望を悲痛に、しかも朗々と歌い上げるが、その先はまた冒頭と同じ空前の、比類ない「夢」が回帰する。この「夢の再燃」によって、いわば「見果てぬ夢」が主人公にとって、一度や二度のものではなくて、また限られた期間のものではなくて、永続的乃至恒常的な追究の対象、言うなれば「永遠の夢」であることが明らかとなる。そしてさらにやりきれないことに、「春の夢」と同時に永劫に回帰するのは、しらけた冷たい現実と、そしてしめくくりとなる「夢よもう一度、あの娘(こ)はこの手に、いつの日か帰る」、というヒーローの悲痛な「永遠の叫び」なのだ。

 

「春の夢」(「冬の旅」第11曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

私の見た夢、花咲く春の日

緑の草原に、さえずる小鳥あまた

楽しい歌声。

にわとりが鳴き、ふと目が覚める

寒くて暗い、カラスが鳴いてる

寒くて暗い、カラスが鳴いてる。

でも窓際に花が描かれて

旅人の目を休ませている

夢を見る男を、笑っておくれ

笑っておくれ。

私の見た夢、美しい乙女

くちつ”けを交わす、楽しい毎日

しあわせな春の毎日。

にわとりが鳴く、ふと目が覚める

私は一人、夢を見るだけ

私は一人、夢を見るだけ。

また目を閉じても、胸ははずむ

また目を閉じても、胸ははずむ

夢よもう一度、あの娘(こ)はこの手に

いつの日か帰る・・・。

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

「春の夜の夢幻と於母影を腕に抱きて今日も目覚める」

 

第十二曲:「孤独」

原詩の大意:

「一筋の黒雲が

晴れた大気の中を

行くように

樅の樹の梢に

淀む風が吹きかかるように

私は通りを歩いて行く

重たい足を引きずりながら

明るく楽しげな生活の営みを

一人眺めて挨拶もなく

ああ、空気がこんなに穏やかで

世界がこんなに平和だとは!

まだ嵐が吹きすさんでいた頃

私はこんなにみじめではなかった

ああ、空気がこんなに穏やかで

世界がこんなに平和だとは!

まだ嵐が吹きすさんでいた頃

私はこんなに、こんなに

みじめではなかった!」。

 

音楽データ:

ロ短調、2/4拍子、48小節。テンポは「Langsam(ゆっくり)」となっている。最初の5小節の前奏は、左右のピアノが交互に、スタッカートの付いた歩行のリズムを刻んでいる。ヒーローは町の大通りを歩いている。「楽しげな人々をかきわけながら」。人がほんとうに「孤独」を感じるのは、無人島に一人で暮らす時でもなければ、誰かさんのために”世界を敵に回した”時でもないし、あるいは最近流行の”自宅に引きこもり”状態に陥った時でもない。この主人公のように、「楽しげな人々をかきわけながら」知る人もない雑踏の中を一人歩く時なのだ。しかも「風も途絶えて、この世は平和」な時に限るのである。この曲の中盤でピアノが、トレモロの付いた六度と七度のトリルをフォルテで奏し、歌唱声部がこのセリフを絶叫する時、この「孤独感」はまさに最高の昂まりを見せるのだ。そしてさらに追い討ちをかけるように、ピアノは両手で三連音符を立て続けに8回つ”つ、二度にわたって階段状に駆け上がるが、これに合わせて歌は「嵐が来れば、みじめさは消え去る」、と不協和なメロデイーを叫びつつ曲全体を閉じるのである。この列島の五十数年という、”平和と繁栄と、そしてお笑い”に包まれた時代に対する、一つの巨大な”アンチテーゼ”ではなく「巨大な不協和音」というようなものがあるとすれば、この曲こそまさにそれだろう。百年以上前にニーチェは「ツアラトウストラ」の中で、

「オリーブ山の日だまりで、一人最後の勝利に酔っている」、

とうそぶいたが、これを20世紀の詩人G・ベンは「これこそニーチェの勝利だ」と評している。これと同じ意味で私は、この曲に対してこういう賛辞を捧げたいと思っている。

「これこそシューベルトの勝利だ」

と。

 

「孤独」(「冬の旅」第12曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

一筋の黒雲が空を行くように

樅の木の梢に淀む風のように

私は道を行く、杖を引きながら

楽しげな人々をかきわけながら

風も途絶えて、この世は平和だ!

嵐が吹けば、みじめさは消え去る

風も途絶えて、この世は平和だ!

嵐が来れば、みじめさは消え去る

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

吹きすさぶ嵐の消えぬ世なりせばかかるみじめさに遭わざりしものを

 

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