冬の旅の世界・フィナーレ

第19曲 : 「まぼろし」 第22曲 : 「勇気」
第20曲 : 「道しるべ」 第23曲 : 「並んだ太陽」
第21曲 : 「宿屋」 第24曲(終曲): 「門つ”けのオルガン弾き」

第19曲 : 「まぼろし」

原詩の大意 :

一筋の光が親しげに、私の前で踊っている

私はその後に続いてあちこちと進む

楽しみながら、見とれながら

この旅人を誘ってくれないかと

ああ、私のように惨めな人間は

色鮮やかな罠に好んで身を委ねる

氷と夜の闇と戦慄の後ろに

明るく暖かな家があるという罠に

おまけに愛する人さえいるという罠に

まぼろしだけが私の宝なのだから!

 

音楽データ :

イ長調、6/8拍子、43小節。テンポはEtwas geschwind (少し速めに)と指定されている。最初の5小節は前奏、最後の3小節が後奏。全体がp(ピアノ)で演奏されるようにという伴奏の指定がある。弾むような前奏に続いて「光の群れが踊る」という歌い出しが来るが、この浮き立つようなメロデイーはきわめて控えめなもので、この明るさも本来は闇夜のまぼろしの仕業だ、という正体を最初から暗示しているかのようだ。「行く道はまだ遠い」と同じ音型をくりかえした後、「さすらいの果てまで」で、同じリズムでありながら旋律線(メロデイーライン)が心持ち跳ね上がるが、それほど極端ではない。1小節だけ間を置いて、「ああ、ツキがないなら」の所では、まるで惨めな現実に直面した悲しさを直叙するように、「せめて騙してほしい」 とヒーローは悲しいホンネの不協和な叫びを上げる。そして、「氷と闇の向こうに」、とまるで彼岸の至福の世界に憧れるように、半音階で次第にズリ上がって行くメロデイーを奏でたすぐ後に、最初と同じ浮き立つような音型が帰ってきて、「暖かな家がある」、しかも「待つ女(ひと)さえいる」、と幻の幸福を歌い上げるのである。そして最後は、「さすらいの果てまで」の時と同じ、甘美な夢を振り返るような音型で、「まぼろしの仕業で」、とヒーローは幸福の正体を自ら曝露する。いわゆる「炉辺の幸福」というものは、「夢見る人」であることをやめたこのヒーローにとって、まるで現実をかけはなれた遠い世界であって、まぼろし、つまり幻想の力を借りないかぎり、けして手の届かないものだ、ということを、かれ自身あまりにも知り尽くしているからである。なお、この曲はシューベルトのオペラ:「アルフォンスとエストレラ」(D732)の中のアリア(第11番:D732-11)を、ほとんどそのまま転用したものである。ほかにもよくあるこういうケースについて、アインシュタインは、「それはうぬぼれでもマンネリでもなくて、そのメロデイーがどんなに美しくどんなに優れているかということを、自分で素朴に自覚していた結果である」、と正当にも指摘している。

 

「まぼろし」(「冬の旅」第十九曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

光の群れが踊る

あとについて進もう

行く道はまだ遠い

さすらいの果てまで

ああ、ツキがないなら

せめて、騙してほしい

氷と闇の向こうに

暖かな家がある

待つ人さえいると

まぼろしの仕業で

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

一条(ひとすじ)の光と見紛う幸福(しあはせ)を氷れる夜に震へつつ夢見る

 

第20曲 : 「道しるべ」

原詩の大意 :

なぜ私はほかの旅人の行く道を避けて

雪に埋もれた岩間の、隠れた小道を探すのだろうか?

雪に埋もれた岩間の、隠れた小道ばかりを?

人を避けなければならぬようなことは

何一つした覚えはないのに

人を避けなければならぬようなことは、何一つ

何という愚かな願いが

私を砂漠へと駆り立てて行くことだろう

ただひたすら砂漠の中へと !?

道しるべが立って街の方を指さしている

でも私は奇妙なことにさすらいを続ける

休みなく憩いを求めて(繰り返し)

一本の道しるべが立っている

目の前にじっと立って動かない

この道しかない、この道を行くしかない

誰も帰って来た者のない

この道を行くしかないのだ

一本の道しるべが(以下繰り返し)

 

音楽データ :

ト短調、2/4拍子、83小節。テンポは Maessig (ほどほどに)と指定されている。最初の5小節が前奏、最後の2小節が後奏。リズムは最初から最後まで一貫して、とぼとぼと歩み続けるヒーローの歩みを刻む。速すぎもせず、遅すぎもせず、ただとぼとぼと道をたどる旅人の歩みを。前奏に続いて歌い出されるヒーローの「人の行く道を故なく避けて、隠れたこの道を探し続ける」というセリフは、かれの生きざまというか人生行路そのものをズバリと言い表わしている。「やましいことなど何もないのに」という所から突然長調に変わるが、これは晴れやかな良心を表現するとともに、悲痛な孤独感の表白でもある。とくに後半部分 「愚かな願いに身を蝕まれる」から後はまさに、”天才”という名の非社会人・非常識人間(私の用語でいうなら「宇宙人」)の、この世というかこの社会で味わわなければならない悲惨な運命を、画き尽くし表現し尽くして余すところがない。ここはいわばシューベルトの絶唱である。「それが運命(さだめ)か」という沈痛な呟きのあと、歌詞は何と6小節も中断する。そして、無言でとぼとぼと歩みを進めるヒーローの孤独な足音を、ピアノが淡々としたリズムで描写してから、再び短調に戻って、冒頭と同じメロデイーで 「道しるべはみな街を指してる」、と歌い始める。さらに、「私一人だけ道を外れて、休む暇もなく憩いを」求め続けるのだ。この「憩い」とは、普通の意味の”休息”や”休憩”ではないことは、誰にもたやすく分かるだろう。宗教的に表現するとすれば、それは天国で神の懐に抱かれる魂の平安といったものになるだろうが、いずれにしてもこの世では実現不可能な「異次元」の憩いである。1小節置いてその先からは、まるで”経文”か”呪符”のように単調な(上下動のない)メロデイーが 「行く手を指さす一筋の道」と呟き、三度上がって「この道しかない」と歌い、またさらに三度上がって「この道を行こう」と決意にみちて叫び、最後に「帰らない道を」と、不気味な終末の予言のように宣告する。そしてこの過程(プロセス)をもう一度繰り返して全曲を終わるが、最後にもう一度繰り返される「帰らぬ道を」という所は、まるでこれから狂気か痴呆の闇に沈もうとする人の、遺言か辞世の句のように響く。しかし、シューベルトの冬の旅はまだ終わらないのである。

 

「道しるべ」(「冬の旅」第二十曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

人の行く道を故なく避けて

隠れたこの道を探し続ける

雪に埋もれた岩間の道を求める

やましいことなど何もないのに

人を避けてる

愚かな願いに身を蝕まれる

それが運命(さだめ)か

道しるべはみな町を指してる

私一人だけ道を外れて

休む暇もなく求め続ける

憩いを

行く手を指さす一筋の道

この道しかない、この道を行こう

帰らない道を

行く手を指さす一筋の道

この道を行こう、帰らない道を

帰らぬ道を

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

人の行く楽しげな道を一人避け帰らぬ運命(さだめ)の旅路をたどる

 

第21曲 : 「宿屋」

原詩の大意 :

死者たちの眠る墓場の上へ

道すがらふとたどり着いた

こここそ最後のやすらぎの地だと

心に固く誓った私

墓石を覆う緑の花輪は

歓迎のしるしに違いない

疲れた旅人を涼しい宿屋へ

招くしるしに違いない

この家には空いた部屋がないのか?

もう立ってはいられないほど疲れ

死ぬほど重い手傷を負っているのに

ああ、憐れみを知らぬ宿屋の主人よ

この私を追い出すつもりなのか?

それならそれで仕方がない

忠実な杖に従って、果てしない旅を続けるまでだ

それなら先へ進むしかない

果てしない旅をまた続けよう

忠実な杖を伴(とも)として

 

*音楽データ :

ヘ長調、4/4拍子、31小節・テンポは Sehr langsam (非常にゆっくり)と指定されている。最初の4小節が前奏。最後の3小節が後奏。ゆっくりとした4小節の前奏に続いて、「死者たちの眠る墓にきた」、とヒーローが虚ろな声で歌い出す。そして「ここで眠ろうと足をとめ」る。1小節措(お)いてかれは「草葉の蔭で死者が招く」と歌い、まるで「疲れた人よここに憩え」と死者たちが、自分を墓の中へと招いているかのように感じる。ところがさらに1小節が過ぎると、「この宿屋には空き部屋がない」ことが分かってしまうのだ。かれは「倒れるほど疲れているのに」。このセリフが長調のメロデイーで歌われることが、この状況の悲惨さとヒーローの悲痛な絶望感をより一層際立たせる、まことに見事な効果を上げている。そしてヒーローは「つれない死者よ、追い出すのか?」、と宿屋の主人に見立てた死者たちに恨みごとを述べるが、すかさず「それなら旅を続けるまで」だ、と悲壮な決心を固める。「果てない旅をまた続けよう」という最後のことばは、「また続けよう」の部分だけが長調で、死ぬことさえも許されないヒーローにとって、旅の杖だけが忠実な伴(とも)を象徴する唯一の頼りであることを、さりげなく表現して静かに曲を閉じる。長調と短調との何度も繰り返される微妙な交換によって、一つ一つのコトバの重みを忠実に再現する手法が、ここほど見事に生かされている例は少ない。われわれマニアは、まるでシューベルトが詩の一語一句に向かって、香を焚きながら作曲して行ったような感じさえ受ける。まるで詩人の息つ”かいまでも一つ一つ吸収して、それを音によってさらにかぐわしい天国の香りへと高めたような感じである。こんなことが出来た人は、音楽の全歴史を通じて、シューベルトの前にも後にも誰一人いない、とマニアとしての私は断言する。

 

「宿屋」(「冬の旅」第二十一曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

死者たちの眠る墓に来た

ここで眠ろうと足を止めた

草葉の蔭で死者が招く

疲れた人よ、ここに憩え

この宿には空き部屋がない?

倒れるほど疲れてるのに

つれない死者よ、追い出すのか?

それなら旅を続けるまで

果てない旅をまた続けよう

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

墓すらもわれを拒みぬいざやまた杖を片手に旅を続けむ

 

第22曲 : 「勇気」

原詩の大意 :

雪が顔へ降りかかったら、

払い落とせばいい

胸のハートが高鳴れば

明るく楽しく歌を歌おう

心の叫びに耳を貸さず

耳を塞いでしまえばいい

嘆きの声など無視しよう

愚痴を言うのは愚か者だけ

楽しく世間に飛び込んで

雨にも風にも撃たれよう

神がこの世にいないなら

オレたち自身が神々だ

楽しく世間に(以下繰り返し)。

 

*音楽データ :

第一作は : イ短調、2/4拍子、30小節(うち1小節〜18小節までが2連)。テンポは Maessig ,kraeftig (ほどほどの速さで、力強く)。第二作は : ト短調、2/4 拍子、64小節。テンポは Ziemlich geschwind ,doch kraeftig (やや速めに、でも力強く) と指定されている。最初の4小節が前奏、最後の4小節は後奏。まるで進軍歌のような前奏に続いて、ヒーローは「吹雪が襲えば払って進もう」と歌い始める。雪の塊が落ちてくるような2小節のピアノの後、歌はさらに「歌いたくなれば、明るく歌おう」とムリに明るく叫ぶ。これがいかにムリな叫びかということを、「明るく歌おう」という所のメロデイーと、それに続く間奏のメロデイーとの進行によって、曲自体が早くも曝露してしまっている。俗に言う「カラ元気」というやつで、悲しく苦しく、しかも単調な雪の進軍の耐え難さを、ムリに打ち消そうとヤケになって、明るい歌を歌いながら行進する、多分撤退か敗走でもする時の一団を思い浮かべてもらえば、このムードがよく理解できると思う。雪崩のような間奏に続いて、曲はここまでの音型をもう一度くりかえして、「泣き言などには耳を貸さない。嘆きの声など無視して進もう」、とヒーローは歌を続ける。後半はト長調へ転調して、さらに一層「作られた明るさ」を強調する。ここは二連二部形式になっていて、「陽気にこの世の嵐を」というセリフが二度繰り返されるが、一度目と二度目とで微妙にメロデイーを変化させつつ、「神がいないならオレたちこそ神」という空しい強がりを再度繰り返して終わる。アインシュタインは「ハンガリア風の仮面」と称しているが、この陽気な明るさが、空しい空騒ぎに過ぎないという苦々しい真実を、誰よりもよく知っているのは、このヒーロー自身と、そして作曲者シューベルトその人である。

 

「勇気」(「冬の旅」第二十二曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

吹雪が襲えば

払って進もう

歌いたくなれば

明るく歌おう

泣き言などには

耳を貸さない

嘆きの声など

無視して進もう

陽気にこの世の

嵐を衝いて進め

神がいないなら

オレたちこそ神

陽気にこの世の

嵐を乗り越え

神がいないなら

オレたちこそが神

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた):

まこと世に神も仏もないものかさらばみずから神々とならむ

 

第23曲:「並んだ太陽」

三つの太陽が空にかかっている

私はいつまでもじっと見つめた

向こうも私を、じっと見つめて動かなかった

まるで離れようとしないみたいに

ああ、かれらは私の太陽ではない!

他の人の顔を見つめるがいい

そうだ、つい先頃も三つの太陽がいた

今そのうちの二つまでが

下に落ちて沈んでしまった

もし三つ目の太陽までが

落ちて沈んでしまったら

闇の中の方がずっとましだろう

 

*音楽データ :

第一作 : イ長調、3/4拍子、33小節。テンポは Maessig (ほどほど)。第二作 : イ長調、3/4拍子、32小節。テンポは Nicht zu langsam (遅すぎないように)。最初の4小節が前奏。最後の3小節が後奏。葬送と告別を象徴するような粛々とした前奏の後、ヒーローは 「三つの陽(ひ)が照るのをいつまでも見ていた」 と歌い始める。そして、「かれらも動かず、私を見つめていた」、と同じメロデイーで繰り返すが、1小節間を置いて突然、「ああ、私の陽(ひ)ではない」、と悲しい宣告を下してしまう。この「三つの陽(ひ)」が何を表わすかについて、”愛と希望と信頼”だとか、まことしやかに語るニッポン人の解説を見たこともあるが、そんな詮索にはあまり意味がない。「太陽のように崇めた三人の女性」だと解してもいいし、「崇拝していた三人の芸術家」や「三人の親しい友人あるいは同志」だと思ってもいいだろう。いずれにせよ、このヒーローは「太陽のような何か」を三つとも失ったのである。「よその地を照らせ」 と悲痛な決別のコトバを投げかけた後、今度は三度上で同じメロデイーを歌って、「私の(新たな)太陽は二つも落ちた」、と語る。この落下と下降を象徴するかのように、伴奏はデクレシェンドからピアニシモとなり、さらにデイミヌエンドとなるが、音の高さもそれに呼応して下がって行く。そして最後の叫び 「三つ目も落ちたら」の個所は、最初の歌い出しより半音上のCis(嬰ハ)の音から始まって、出だしと全く同じ音型を繰り返して、「闇の中で憩おう」という最後の呟きで終わる。後奏は静かな湖水の波のように、まるで水底に沈んだヒーローの魂を優しく揺する、子守り歌のような音型を刻む。何かがここで沈んだのである。詩のコトバとしては川も湖も、まして、シューベルトが生涯一度も見たことのない海も登場することはないが、最初から最後までずっと通奏されるピアノの3拍子のリズムとメロデイーそのものが、水の深さと波のうねりを表現していると考えていいだろう。生身のヒーローは、恐らくその波の底に沈んでいるのだ。

 

「並んだ太陽」(「冬の旅」第二十三曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

三つの陽(ひ)が照るのを

いつまでも見ていた

かれらも動かず、私を

見つめていた

ああ、私の陽(ひ)ではない

よその地を照らせ

私の太陽は、二つも落ちた

三つ目も落ちたら

闇の中で憩おう

 

Y・C・Mの反歌:

あかねさす陽(ひ)は次々と落ち行きぬ闇の中にぞ憩いを求めむ

 

第24曲 : 「門つ”けのオルガン弾き」

原詩の大意 :

あの村外れに、門つ”けのオルガン弾きが立っている

硬直した指で、かれは必死にオルガンを廻している

裸足で氷った地面の上を、あちこちとよろめいている

でもかれの前にある皿は、いつも空のままだ(繰り返し)

誰も聞く人はいない、誰ひとり見向きもしない

この年寄りに群がるのは犬たちばかりだ

それでもかれはすべてを、なるがままにまかせている

廻す手を止めないから、オルガンはいつまでも鳴り続ける(繰り返し)

おかしな爺さんよ、一緒に来るかね?

私の歌に合わせて、そのオルガンを廻す旅に出ようか?

 

*音楽データ :

イ短調、3/4拍子、64小節。テンポは Etwas langsam (ややゆっくり) と指定されている。前奏は8小節、後奏は4小節弱。タイトルの「門つ”けのオルガン弾き」というのは、現代のストリートパフォーマーに当たる存在であるが、この”演奏家”はまことに侘びしいというか貧弱な、息も絶え絶えの老人である。かれの奏でる楽器 Leier(ライアー)というのは、「手廻しオルガン」と呼ばれるもので、ヨーロッパの街角では今でも見かけることのある「門つ”け」、つまり物乞いをするための道具になっている。前奏はこの老人の奏でる「音」よりもむしろ「足取り」を絶妙に描写して、つまずくようなリズムを2小節にわたって刻んでいる。しかもこれが二度も繰り返されるのだ。さらにまた、この老人の立っているのは、街角ではなくて「村外れ」である。「村外れに門つ”けが」と「萎えた指でオルガン廻す」という二つの詩節は、よろめく足取りを表わす伴奏をはさんで、同じ音型を繰り返すが、「銭を投げる人もない」と「それでも弾く手を止めない」という二つもまた、中によろめきをはさんで、前の二つとは違うが同じ物悲しい音型を繰り返す。そして、「皿はいつも空のまま」、という悲しい結果を知らせて第一連(シュトローフェ)が終わる。4小節にわたる間奏の後、続く第二連では、「聞いてくれる人はない」と「集まるのは犬ばかり」の二つの句が、第一連とまったく同じ形で、中にピアノのよろめきをはさんで脇侍し、さらに、「それでも弾く手を止めない」と「音ばかりが鳴り響く」とが、左右対称に並んだ後、「いつまでも鳴り続ける」、という結末にたどり着く。そしてここからヒーローは、人麻呂が「石中の死人」を見て自分の分身だと思った時と同じように、このよろめきを繰り返す老人に、「おかしな爺さん、ついて来るか?」、と呼びかける。そして、この曲の悼尾を飾るとともに、この「冬の旅」全24曲をしめくくる 「歌の旅に出かけよう」 という大音声、仏教的に言えば「獅子吼(シシク)」を、大宇宙の虚空に向かって張り上げ、千万年に及ぶ不滅の足跡を刻印したのである。これこそまさに「シューベルトの金字塔」の完成であった。この曲の全体を形容する一言を求められるなら、荘子が「天籟の声」と呼び、また禅問答によく登場する「声前の一句」とか「隻手の声」というようなものがふさわしいと思う。「鳴かぬカラスの声を聞く」思い、というか、「片手で拍手をする音」というような、西田哲学でいう「絶対矛盾的自己同一性」を表わすコトバである。分かりやすく言えば、フツウの意味で現実にはけしてあり得ないばかりか、フツウなら音楽にも芸術にもけしてなり得ないものをあえて音に変え、芸術作品として千古の輝きを与えた、前人未踏であるとともに永遠に不滅の功績を称えるコトバである。さらに禅問答の口調を借りて言うなら、シューベルトの音楽によってカワラや瀬戸物のカケラでさえも光を放ち、シューベルトの音楽に比べたら、純金のネックレスも数カラットのダイヤをちりばめたテイアラでさえも、まったく輝きを失ってしまう、ということである。もしシューベルトがこの場に現われて、聞き終わった聴衆に感想を求めるとしたら、きっと例のはにかんだような笑みを浮かべて、こう言うにちがいない。

「みなさん、鳴かないカラスの声は聞こえましたか?よかったら片手で拍手をして下さい!」。

 

「門づけのオルガン弾き」(「冬の旅」第24・終曲)

W・ミュラー詩

Y・C・M邦詩

村外れに門付けが、萎えた指でオルガン回す。

銭を投げる人もない。それでも弾く手を止めない。

皿はいつも空のまま。

聞いてくれる人はない。集まるのは犬ばかり。

それでも弾く手を止めない。音ばかりが鳴り響く。

いつまでも鳴り続ける。

おかしな爺さん、ついて来るか?

歌の旅に出かけよう!

 

Y・C・Mの反歌(かへしうた)

道端に乞食(コツジキ)をする老人の琴に合はせて歌ひ継ぎ行かむ

 

ー「冬の旅の世界」おわりー

 

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