シンフォニー D759(通称”未完成”)の一部」

このロ短調のシンフォニーは通称を「未完成」と呼ばれる。これまでは第8番とされていたが成立順では7番目になる。1822.10.30執筆開始。第二楽章までと第三楽章の断片のみ残存する。

第一楽章:アレグロ・モデラート。ロ短調、3/4拍子、368小節。

第二楽章:アンダンテ。ホ長調、3/8拍子、312小節。

第三楽章:アレグロ+トリオ。ロ短調ート長調、3/4拍子、112+16小節。

このシンフォニーはベートーベンの「シンフォニー第5番:通称”運命”」と並んで、現在までの音楽史上最も有名なシンフォニーで、一般に「未完成」という綽名で知られている。なぜ「未完成」と呼ばれるかと言えば、それはただフツウのシンフォニーは第四楽章まであるのに、これは第3楽章の途中までしか書かれていないからである。間違っても「不完全で未熟なシンフォニー」、だなどと思わないでもらいたい。そういう意味で不完全で未熟な作品なら、たとえ楽章が四つあろうが八つあろうが、どんな作曲家にだってそれこそゴマンとあるのだから。ましてこれが「未完成」だから、初心者のために”入門的な教材”として最適な作品だ、などと思ったら、それこそとんでもない見当違いである。およそ「入門」としては、これほど取っつきにくく不適当な器楽の教材は、シューベルト自身の作品の中でも1、2を争うだろう。私のように「コトバでシューベルトに迫る」ことを目標にする人間にとっては、まさに「どこからもつけ入るスキのない作品」であるし、何十年も指揮者として活躍している友人でさえ、「この曲ばかりはどうやって演奏したらいいか分からない。ワケもなく緊張する作品だ」、と舌を巻いていたくらいの難曲なのである。それにもかかわらず、およそレコードというものが発明されて以来、現在(グレゴリオ暦2、001年)に至るまで、世界中でもっとも多く録音された作品は、この曲とそして前述のベートーベンの「人呼んで”運命”」の2曲である。どんな流行歌だろうとどんなスーパースターの名(迷)演だろうと、この2曲にははるかに及ばない。そしてどちらも、作曲者自身が命名したわけでもない、おかしなニックネームで知られている。ではそれほどの魅力というか「魔力」の源泉は、一体どこにあるのだろうか?

「コトバで迫る」私に対しては、先ずはともかく、アインシュタインの次のコトバが第一の手がかりを与えてくれる。

「完成した二つの楽章を考察すれば、なぜシューベルトがそれだけでやめてしまったのか、という説明が得られるだろう。人々がシューマンからあれほどたびたび引用して、『ハ長調大シンフォニー(D944)』に向けた、『天国のような永さ』という非難を、この未完成シンフォニーの二つの楽章に向ける人は誰もいなかった。シューベルトは、極度の緊張をもつ壮麗に組み立てられたソナタ形式の楽章を完成したが、集中度の点でこれに匹敵するものは、『ベートーベンの第5シンフォニー』の第1楽章だけであろう」。

ここでこの(舌を出している有名な)物理学者の従弟(いとこ)が評価の基準にしているのは、「簡潔」・「緊張」・「壮麗に組み立てられた形式」、そして「集中」である。だが、私のような宇宙人からすると、なぜこんなことが芸術作品の価値評価の絶対的な基準になるのか、ほとんど理解できない。音楽は基本的に「時間の芸術」であるから、いわば「時の流れに身をまかせる流体」であって、堅固な土台の上に築き上げられる「建築」とは、その本性上まったく異なった基準で測られなくてはならない。王宮や国会議事堂、あるいはさらにピラミッドを建てる基準で、レジャー用のボートやクルーザーを設計するバカはいない。まして宇宙空間を航行するのに、陸上を蛇行する線路も列車も、ましてやヒモカワのような”高速道路”などは一切必要はないのである。「筋斗雲」に乗って十万八千里を一飛びで往復できる孫悟空にとって、砂漠や山道をトボトボ進むための馬も、荷物を運ぶお供も必要はないのと同じである。さらには、360度四方八方へ自由に瞬間移動できる、われわれ宇宙人の乗り物であるご存知「UFO」にとって、この惑星の”交通規則”などには何の意味もないのである。思えばこの百数十年間、音楽の価値評価というものを、人々は根本的に誤った基準に基つ”いて測り続けて来たのである。だからこそこの曲に限って、他の曲に比べて飛び抜けて高い評価と人気とを捧げられて来たのだ、こう考えて初めて宇宙人にも納得が行くのである。

宇宙人の評論にふさわしく、”常識”とはややかけ離れた比喩で語ってみるが、今この国で騒がれている「諫早湾の干拓工事」や「長野県のダム建設」、これに対する住民や自然保護運動家たちの反発。これこそ21世紀からの「音楽の価値評価の根本的な見直し」を迫るさきがけと言ってもいいだろう。この二つの工事が「即刻中止」を迫られているのとまったく同じ意味で、シューベルトは「ベートーベン的な、あるいはそれ以前の音楽の、堅固で理解されやすい形式」をもつ二つの楽章を「完成」したあとで、第3楽章の「スケルツオ(これは「滑稽な楽章」という意味だ!)を書き始めてすぐに「中断」してしまったのだ。だから、シューベルトはこのシンフォニーを、アインシュタインが言うように、「いかなる意味でも完成しえなかった」のではなくて、ザックバランに言ってしまえば、「第3楽章から先はアホらしくなって」途中で中止してしまったのである。これこそ21世紀以後の地球人にとって、最も重要なキーポイントになる発見だ。第一この珠玉のような二つの楽章のあとで、スケルツォ即ち「お笑いの楽章」を続ける必要というか必然性が、一体どこにあるというのだろうか?当時も今も無理解な「音楽史上主義者」=「原理主義者」どもは、まるでハンで押したように、”シンフォニーというものは必ず四つの楽章を具えていなければならない”、という信仰というかむしろ迷信をずっと信じ続けて、ナントカの一つ覚えよろしく、いわば「旧套を墨守」しているために、この曲に”未完成”などという不名誉で屈辱的なニックネームを与えたに過ぎないのだ。この名称こそまさに、この曲に対するミスリーデイングの典型、いわば「究極のセクハラ」そのものである。ここでまたもや繰り返しになるが、宇宙人としては、江戸落語の登場人物に対するのと同じく、すべての地球人に向かってこう叫ばざるをえない。サムライに道を聞かれて数々の暴言を吐いた上、その紋所に痰を吐きかけた町人が、抜く手も見せずに首をはねられたように、この2楽章からなる「完成品」に、”未完成”などという汚名を着せるような人間は、音楽の楽園から永久に追放されるべきである、と。

「二本差しが恐くてウナギが食えるか!気の利いた奴は四本も五本も刺してらあ!」。

シンフォニーの楽章の数とウナギの串の数、これを同一視するゴキブリやハエやウジムシどもを根絶やしにしない限り、この曲をはじめとするシューベルトの無数の名曲の価値が、正当に評価される時は永遠に来ないだろう。

 

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