歌のないシューベルト・パート2

1:生(なま)演奏の意味ーこれまでの誤解を糺(ただ)すー

「演奏は何と言っても生(なま)に限る」、「機械に生(なま)の代用はできない」。これは当然のコトバだ。しかし、一体”生(なま)”とは何なのだろう。私としては、そもそも人類の文明史上、「録音」というものが始まってからこれまで、人々は「生(なま)」の魅力というものをどう理解してきたのだろうか、ということを21世紀になって改めて問題にせざるをえない。ある器楽のコンクールがあって、最後に残った3人の候補者の優劣を決める時、審査員に顔も姿も見えないようにして聞かせた時と、むき出しのまま(つまり「生(なま)で」)聞かせた場合とでは、まったく結果がちがっていた、という。つまり、顔も姿も丸見えにして、容姿や服装ばかりでなく、表情やポーズやパフォーマンス、さらにはちょっとしたしぐさや癖、こういうものも含めて初めて、名実ともに「生(なま)の演奏」なのである。それをムリヤリ”純粋に音だけ”で判断しろというのは、それは芸術というものをまったく理解できない田夫野人の要求である、というほかはない。この認識が当然の「常識」にならない限り、この国の幅広い大衆の間に、ほんとうに「クラシック音楽」というものが根付いたとは、お世辞にも言えないのである。その点では、いわゆるポップスというか流行歌やライブのアーチストのステージの方が、ずっと自然にこの道理を理解して、無理なくスターを生み出している。ピアノだろうとバイオリンだろうと、弦楽器だろうと管楽器だろうと、撥弦楽器だろうと打楽器だろうと、それを演奏する生身の人間に、聴覚以外の意味も含めて総合的に「触れる」ことがないかぎり、その演奏を評価することは絶対に不可能なのである。だから前にも言ったとおり、CD同士の比較だけで”演奏の優劣”をあげつらう”自称評論家”は、音楽というものがブタほどにも分かっていない、と言ったらブタに失礼になるので、遺伝子の数が人間の半分しかないミミズやハエほどにも、分かっているかどうか疑わしいのである。

「演奏」とはただ楽器から音を絞り出す作業ではない。生身の人間が登場してから退場するまでの挙措動作、つまりボデイーランゲージを通じて、その一挙手一投足、咳払いや息使いに至るまで、かれの発する情報や信号のすべてが「生の演奏」なのだ。それは絶対に”聴覚”だけに訴える作業ではなくて、”聴衆”の五感(ばかりか六感・八感)のすべてにわたって、そのメッセージを、その思いの丈を余す所なく伝えるために、全身で表現する作業なのである。これがあって初めて、「生の演奏」というものの真価が十分に発揮されるのだ。もしもこれがなければ、どんなに指先のテクニックが優れていようと、それこそ「超絶的技巧」の持ち主であろうと、「演奏家」と呼ばれる資格はない。ピアノもバイオリンも、けして指先だけで弾くものではないからである。もしも「魂も肉体も含めた己自身のすべてを表現する」、という芸術家としてのレゾン・デトル(存在理由)を放棄してしまったら、たとえ指の動きのスピードレースでは世界最高の記録を打建てたとしても、かれまたはかの女は、もはや演奏家であることをやめたに等しい。「演奏」は遠からず機械がすべて引き受けて、かれらに取って代わるだけだろう。20世紀末になってコンピューターがチェスの名人に勝った以上、21世紀になって機械がかれらを打ち負かすのは、それこそ時間の問題だからだ。

「生身の人間としての魅力を、演奏を通じてトコトンまで発揮しつくすこと」、これ以外に演奏家の存在価値はない、と言っていいだろう。だからたとえどんな名演奏家の演奏を録音したものであろうと、CDによってそのほんとうの魅力と迫力とを、聴衆が味わい尽くすことは永久に不可能なのである。

2:曲の魅力に迫るにはーCDとPCの比較ー

これから私が披露しようとするのは、”機械で生演奏の代わりをさせる”ことではない。それが不可能なことは、どれほど録音・再生の技術が進歩しようと、初めから分かり切っているからである。”私はレコードの方が間違わないから好きだ”、と言ったタコがいたそうだが、こういう”基準”はまったくのナンセンスである。スピードと正確さを競うだけなら、遠からずロボットが演奏家を凌駕すること請け合いだからである。今回試みようとしているのは、「生の代わり」ではなくて「CDの代わり」を自分で制作することである。つまり、世界の名演奏家の「電磁気で録音された演奏」を、「演奏家のいない演奏」によってどこまで攻略できるか、という実験である。いわば「機械同士の戦い」なのである。これによって駆逐しようとしているのは、粗忽な人が誤解しがちなように、「名(または迷)演奏家」そのものではなくて、「名演奏家の電磁気で録音された音」の、いわば独占排他的な支配であり、そのいわれのない「幻の名声」である。今回まっさきに取り上げるのが、かの有名な「未完成」、という不名誉なニックネームで呼ばれる、シューベルトの「もっともよく売れている」シンフォニーの、俗に「提示部」と呼ばれる部分である。先日3チャンネルを見ていたら、馬面の評論家が出てきて、「この曲はもう何百回も聞いていますが、この指揮者の演奏は、最初の一音を聞いただけでもう涙がこぼれました」、と臆面もなくヌケヌケと語っていた。果たしてどんな音が聞こえて来るのかと思って、テレビのスピーカーから流れる音にじっと耳を澄ましていたら、ナ、ナント、まったく何も聞こえないのだ!これはけっして私の耳が遠くなったせいでも、まわりの騒音や雑音にかき消されたせいでもない。チェロとコントラバスだけで演奏される最初の8小節は、楽譜では単にpp(ピアニシモ)と指定されているだけで、まちがっても「聞こえないほどかすかに」などとは書かれていない。ところが現実にはたいていの指揮者が、ここを極端にボリュームを絞って演奏するように、演奏者に指示しているのである。で、このことはそれなりに理に叶っていると言えなくもないのだが、それはあくまでも、「生(ライブ)」で直接聴衆に訴えかける場合に限って有効な手段なのである。それを一旦「録音」してしまった場合には、置かれるマイクの位置や性能によって、まったく聞こえないか、あるいは少なくとも、本来の「表現力」を失った、まったく色褪せた精彩のないものに変質してしまうことが多いのである。馬面の評論家は、自分が「生(ライブ)」で聞いた時に「涙を流した」のか、それともレコードで聞いた時に落涙したのかを明言しなかったが、これからテレビの視聴者に聞かせる目的で発言している以上、視聴者が聞き取れないような音を聞かせて、”涙を流すどころか何も聞こえないなんて、あんたはアホや”、と嘲笑っているとしか思えない、この狡猾なやり口について、重大な責任を免れない。大道香具師やフウゾク店、あるいはボッタクリの呼び込みにも、こんな悪質な詐欺師はいないからである。これからお聞き頂く自作の「機械による演奏」では、このような羊頭狗肉というか、看板だけ立てて中味のない詐欺商法のようなことだけは、まちがってもしないつもりだ。強度の聴覚障害者でない限り、冒頭の8小節は誰にでも聞き取れるボリュームで流すつもりだから、どうか安心してお聞き頂きたい。

→「シンフォニー D759 (通称”未完成”)の一部

 

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