ヴィルトゥオーソとシューベルト

                   

                                    杉 山 広 司

 

シューベルトが亡くなったのは、1828年11月のことですが、その年の春から夏にかけて、ウィーンの街は、「パガニーニ」一色で染まります。

3月29日、彼の最初の演奏会では、観客は決して多くはありませんでした。しかし彼の見事な演奏技術、魔法のような演奏、神秘的でカリスマ性のある、いわば「悪魔的な」彼のパーソナリティが、急激に大衆を惹きつけたようです。ドレスデンの「夕刊新聞」のウィーン駐在員は、彼の与えた衝撃をこう書いています。

 

最も素晴らしい、最も並々ならぬ音楽現象、おそらくは一千年に一度しか戻って来ない地平線上の彗星が、今、私達の城壁の中にいる。それがパガニーニだ。……街にはひとつの声しか聞こえない。「パガニーニを聞け!」という叫び声しか。この男はすでに5回のコンサートをやり、少なくとも2万8千フローリンKMの収益だ。……彼と比べると、他の演奏家たちは皆彼の影の中に入ってしまうといっても過言ではない。

 

パガニーニの妙技は街中の話題でした。聴衆は彼のヴィルトゥオーソな演奏に夢中になり、45歳のバイオリニストの魔力に、呪縛されるがままであったようです。繰り返される演奏会は毎回売切れでしたので、ウィーンは当初彼のコンサート・ツアーの一通過点という予定だったのですが、余りの評判にその滞在は、4ヶ月、14公演に延長されました。「大衆は、完全に陶酔し……パガニーニ風帽子、パガニーニ風ドレス、パガニーニ風ショール、パガニーニ風ブーツ、パガニーニ風香水、パガニーニ風手袋などなど、ショーウィンドウは、パガニーニ風で一杯だった。」と書かれています。彼のポートレートはいたる所に飾ってありましたし、彼の胸像は、ウィーンの伊達男達のステッキの頭を飾っていました。優美なお皿も、パガニーニと命名されました。そして皇帝は、「宮廷のヴィルトゥオーソ」と言う称号を彼に授与しました。

 シューベルトが死を迎えるその年のこのパガニーニ・フィーバーは、象徴的であると思われます。時代は動きつつありました。いわゆるヴィルトゥオーソの時代に移りつつありました。そしてそれはまた、古典主義からロマン派への転換期でもあったわけです。このヴィルトゥオーソという言葉ですが、これはイタリア語で、18世紀の後半では、つまりおよそモーツァルトの時代では、並々ならぬ才能の、つまり卓越した表現力を持った歌手や演奏家を賞賛する意味合いの言葉だったのですが、この辺りから、超技巧的な演奏家を意味するように変わって行ったようです。

 さてパガニーニに触発されたかのように、ピアノのパガニーニが登場します。フランツ・リストです。彼が、パガニーニの「ラ・カンパネラ(鐘)」の主題による超技巧大幻想曲で大成功を収めると、これは一つの流行になり、様々なヴィルトゥオーソ達が、オペラのアリアや耳慣れたメロディを元に、競って編曲し、自分たちのコンサートで演奏するようになります。

こういった流れの中で、シューベルトの歌曲は、もってこいの素材となります。シューベルトの死後数年後には、リストがまずピアノのための編曲をします。「魔王」「糸を紡ぐグレートヒェン」「アヴェ・マリア」といった歌曲です。さらに歌曲集もピアノ用に編曲していきます。続いて、ウィーンのバイオリニスト、レオポルト・ヤンザがシューベルトの6つの歌曲を、そしてミュンヘンを本拠地とするフルートのヴィルトゥオーソ、テオバルト・ベームが3つの歌曲を、それぞれ編曲し演奏することになります。テオバルト・ベームはその当時ヨーロッパでも五本の指に入るフルートの達人として有名な演奏家でした。

 本日の例会「フルートとピアノの午後」では、まず、このフルートのヴィルトゥオーソ、テオバルト・ベームとバイオリンのレオポルト・ヤンザの編曲による、シューベルトの「白鳥の歌」からの4曲を楽しんで頂きます。それでは早速、お二人に登場して頂きましょう。

フルートの遠藤尚子さんです。ピアノの別府里加さんです。それではお願いしましょう。

シューベルトの「白鳥の歌」から、テオバルト・ベーム編曲、「漁夫の娘」「セレナーデ」「海辺で」そして、レオポルト・ヤンザ編曲「鳩の使い」

 

                     ( 演   奏 )

 

                  ハウス・ムジークとシューベルト

 

このようなヴィルトゥオーソな音楽に対して、もうひとつ、対極にあると言っていいかもしれません、この時代の音楽を豊かなものにしている土壌があります。それが、 

ハウス・ムジーク、家庭音楽です。今や音楽を楽しむのは、貴族だけではありません。いわゆる市民階級の家庭の中で、様々な小音楽会が催されていました。

ご存知のように、父親が小学校の校長だったシューベルト家では、家族で弦楽カルテットを楽しんでいました。父親がチェロ、次兄が第1バイオリン、長兄が第2バイオリン、そして休暇で寄宿学校から戻ってきたシューベルトはビオラを担当して、自ら作曲したばかりの弦楽四重奏曲を演奏して楽しんでいたぐらいです。シューベルト14歳の頃のことです。最初はシューベルト家の居間で始まった、この家族ぐるみの弦楽四重奏団は、そのうち教室を使って地域のアマチュアの弦楽合奏団になり、そこが手狭になると、裕福な商人のフリッシュリンクの屋敷でリハーサルをやるようになりました。そしてやがて管楽器が加わり、オーケストラにまで成長していきます。これが数年の間のことです。そこで活躍していた演奏家たちは、プロではなく、優れたアマチュア演奏家であり、ディレッタントたちだったのです。当時のウィーンにはこういった演奏家が3千人いたというのですから、さすが音楽の都です。

もう一つ例を挙げましょう。前回の例会で演奏された「ます」五重奏曲のことです。この曲をシューベルトが作曲した経緯を思い出してみてください。シュタイアーという、言ってみれば田舎町の裕福な鉱山会社の経営者、パウムガルトナーという音楽愛好家が、自分たちで演奏を楽しむための作品を作曲してほしいと依頼してきたのでしたね。そういう意味では、この「ます」五重奏曲こそ、「ハウス・ムジーク」、家庭音楽の傑作といって差し支えないと思います。

さて、この家庭の中で演奏される小規模な編成の音楽と言うことになると、最も人気があったのが、ピアノが一台あれば演奏できる歌曲と、もう一つ舞曲であったというのは、納得の行くことです。シューベルトの初めの頃出版された譜面の殆んどが、歌曲と舞曲だったということも、この辺の事情を示していると思われます。ウィーン会議以降、ワルツが大流行です。ウィーンは、ウィンナ・ワルツに明け暮れていた、そんな時代です。そういったダンス・パーティに招待されたシューベルトの様子を、友人のゾンライトナーは、こんな風に回想しています。

「彼は、時折親しい家庭で行われるダンス・パーティに出かけましたが、自分で踊ることは決してなく、いつもピアノに座っては、何時間でも実に美しいワルツを即興演奏するのでした。自分で気に入った曲は、それを覚えて後で思い出して記譜するために、繰り返し弾いていました。」

シューベルトには、こういった機会に即興で演奏した舞曲をまとめて舞曲集として出版されたものが、数多くあります。ハウス・ムジークとして、これらの舞曲は、ダンスのために、そしてまた娘さんたちのピアノの腕の発表の場で何度も演奏されたことでしょう。これから演奏される「創作舞曲」はシューベルト19歳から23歳ごろまでに作曲されたものをまとめた作品集です。シューマンは、シューベルトのこれらピアノの小品のことを、見事な言葉で言い表してしています。

「地上に咲いている、ちょうど一輪の花の高さを、風のように漂う天分のきらめきの数々」だ、と言っています。これらのピアノ曲は、私たちを、決して地上の遥か高みに連れて行ってくれるわけではありません。あまり高くは無いけれど、しかし花の香漂う、ちょうど一輪の花の咲いている辺りに私たちを誘ってくれる、そういった音楽だと言っているのです。中々巧い喩えだと思います。

一曲は一分前後の短いものです。とりとめもなく18曲のワルツが聞こえてきます。今日は、皆さんには蝶になってもらって、18本の花の香りを楽しんで頂きましょう。そうはいっても、あまりとりとめもなくなってもいけませんので、今日は二つの試みをします。一つは切れ目無く18曲を一気に演奏していただきます。そしてこれは別府さんにお願いして、一つの流れになるように、曲順を工夫して頂きました。

それではお願いします、別府さんどうぞ。 

ピアノのための36の創作舞曲 D365(作品9)より18曲。」

 

                      (演   奏)

 

                  テオバルト・ベームとフルート

 

小学生の頃だったか、中学生だったか、フルートは木管楽器だと教えられ、とても不満に思ったことは、皆さんはありませんでしたか?金属で出来ているのに木管とは。先生に質問したことは覚えているのですが、その答えは覚えていません。あまり説得力のある回答ではなかったと思います。納得行きませんでしたが、試験に出るので、あの時は丸暗記で済ませてしまいました。

さてフルートは、シューベルトの時代までは、間違いなく木管でした。音孔、穴は9つ開いていて、指先でじかに押さえて音を出しました。したがって当時のフルートで安定した音程を出すには、非常に高い技術が要求されました。木管フルートはとても演奏が難しい楽器であり、そしてまた、音域もまた狭かったのです。モーツァルトがフルートの曲を作曲するのに、苛立っていた話は有名です。作曲家にとっても、思うようにならない楽器、それが当時の木管フルートだったようです。

この木管フルートを金属で出来た現在のフルートにしたのが、木管フルートのヴィルトゥオーソ、テオバルト・ベームその人だったのです。彼は、木管の持つやわらかい響きを変えることなく、金属のパイプに14の音孔を開け、指ではなくペダルで音孔を押さえるベーム・システムを考案し、金属のフルートを考案します。どうしてそんな器用なことが出来たのか、そこにはベームの素性が関係しているのです。

 テオバルト・ベームがフルートを習い始めたのは、実は大分遅く、16歳の時でした。それまでの彼は、お父さんの仕事を手伝っていました。それは貴金属や装飾品を作る金銀や鉄の細工師の仕事だったのです。その特技が、この期に及んで役立ったというわけです。9本の指が全部で14の音孔を自由に使う、というよりも一度に閉じることが出来るようになったことで、広い音域と、安定したピッチが得られるようになりました。音域の狭い古い型のフルートのようにではなく、ベーム式フルートが的確なピッチの24のキーを実際にキーボード楽器のように演奏可能であることを見せたかったベームが、作曲したのが、これから演奏される「シューベルトのワルツによる変奏曲」でした。新しいフルートを考案してから4年後のことです。

この変奏曲の主題になっているシューベルトのワルツというのは、実は先ほどの創作舞曲集の中の2曲目のワルツです。と言っても、もう覚えてないよと言われるでしょう。しかし当時は大有名なワルツで、誰もが知っていて、誰言うとなく、「悲しみのワルツ」と言う名前さえついていました。日本語でこういうと、そう違和感は無いかもしれませんが、ドイツ語を直訳すると「葬送ワルツ」葬送行進曲のあの葬送です。相当ゲテな名前ですね。ある日シューベルトが友達に言ったそうです。「葬送ワルツ」なんて、いったいどこの誰が作曲したというんだい、と。

それでは、お二人に登場していただきましょう。

テオバルト・ベーム作曲、「シューベルトのワルツによる変奏曲」変イ長調 作品21

 

                      (演   奏)

 

さて、今日は、ヨーロッパ音楽の原動力、いわば車の両輪としての、ヴィルトゥオーソな音楽とハウス・ムジークについて見て来ましたけれど、いよいよシューベルト自身のヴィルトゥオーソな音楽について、考えてみたいのですが、それは休憩の後と言うことに致します。

 

                  シューベルトとヴィルトゥオーソ

 

シューベルトの音楽は、明らかにハウス・ムジークの土壌の中から芽生えたものだと思いますが、当然のことながら、優れた演奏家たちとの付き合いが深まる中で、ヴィルトゥオーソな音楽に対する関心も生まれてきます。これから演奏される「しぼめる花の主題による、序奏と変奏曲」は、1824年1月、シューベルト26歳の時の作品で、

フルートのヴィルトゥオーソ、フェルディナント・ボーグナーの依頼で作曲されたと言われています。まだ高度の演奏技術の要求される、木管フルートの時代ですので、そしてまた、シューベルトの得意な楽器でもありませんでしたので、そういった意味では、

シューベルトにとって初めてのヴィルトゥオーソな音楽への試みと言えるかもしれません。

冒頭で、シューベルトの生涯最後の年の、パガニーニ・フィーバーについてふれましたが、実はこの年、1828年3月26日にシューベルトは、自作コンサート、自分の作品だけのコンサートを開催していました。そして、その3日後の、3月29日の土曜日にパガニーニの第1回目のコンサートが、王宮の「舞踏の間」であり、どうもシューベルトはこのコンサートに行っているようなのです。というのも、54日のパガニーニの4回目のコンサートのとき、彼は大枚5フローリンもする特別席のチケットを二枚買って友人のバウエルンフェルトに一緒に行こうと誘ったとき、この話題沸騰のイタリア人のコンサートに行くのはシューベルトにとって、二度目のことだったのは確かなのです。シューベルトは遠慮しているバイエルンフェルトにこう言っているのです。「僕はもう彼の演奏を一度聴いたことがあるんだ。……ねえ、あれだけのものには、もう二度とお目にかかれないと思うよ。それに、今僕にはお金は充分あるんだ。さあ、行こうよ。」(お金が充分あったのは確かで、自作のコンサートが大盛況で、シューベルトの懐は確かに暖かかったのです)さてシューベルトと一緒にコンサートへ出かけたバウエルンフェルトは、この日の事を日記にこう書いています。「そこで、僕たちはこの悪魔的で、天上的なバイオリニストの演奏を聴いたのだ。……彼の悪魔的な技巧に完璧に驚天動地。……コンサートの後、いつものとおり居酒屋でおごってもらい、興奮が消えずいつもより多く、ボトルを一本空けた。」そしてシューベルトは、アンゼルム・ヒュッテンブレンナー宛の紛失した手紙のなかで、簡潔にこう書いていたようです。「アダージオでは、僕は天使が歌うのを聞いた。」

このとき、シューベルトは、直感的に次の時代、来るべき時代を予感していたのではないでしょうか。実際、晩年のシューベルトは、ウィーンのヴィルトゥオーソ達、ピアノのボークレット、バイオリンのシュパンツィッヒ、スラヴィーク、チェロのリンケ、ホルンのヨーゼフ・レーヴィそしておそらくはティーツェやヴァルヒャーといった歌手達と最も多くの時間を共有していましたし、これらの人々は全て、音楽を通じてシューベルトと深く関わっていました。そして、「バイオリンとピアノのための幻想曲」といったヴィルトゥオーソな音楽が、生み出された時は、シューベルトの生涯、最後の年であったということは、今更ながら、残念至極のことでした。

 

それでは最後のプログラムを演奏していただきましょう。主題は、歌曲集「美しい水車屋の娘」の中の、第18曲「しぼめる花」です。お二人どうぞ。

ピアノとフルートのための「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲 ホ短調D802 (作品160)

 

                      (演   奏)

 

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