「冬の旅」について:

“シューベルトの冬の旅”。“シューベルトといえば冬の旅、冬の旅といえばシューベルト”というくらい、この列島のシューベルトファンには「冬の旅のファン」が多いのは事実であるが、この連作リードの作詩者はW・ミュラーという、ドイツ東部の小都市デッサウに生まれた人で、ここはウィーンよりも数百キロも北に位置している。「菩提樹(リンデンバウム)」は、(シューベルトではなくて)このミュラーにゆかりの樹であって、市の門の前の噴水のほとりに菩提樹が立っていたのである。この詩人はドイツでは「ギリシャ人のミュラー」と呼ばれているが、それはかれが当時オスマン・トルコからの独立を目指していたギリシャの解放戦争に義勇兵として参加したくらいに、ギリシャ文化に心酔していたからである。イギリスの詩人バイロンもまた、この戦争に参加して戦死を遂げている。シューベルトの死の年(1828年)に完成したこの前人未踏の傑作の価値については、くだくだしく述べる必要もないと思うが、一見荒涼とした雪と氷に閉ざされた冬景色を、単に「墨絵風に」鑑賞するばかりでは、この連作のほんとうの魅力に触れたとは言えない、と思うのだ。「厚い氷の下には熱い涙」と燃える情熱の炎が、それこそたぎりかえっているからだ、「冬中の氷をとかすほどまでに」。シューベルトが生前友人たちの仲間では「unser Minnesaenger(われらが恋愛歌人)」、というニックネームで呼ばれていたということは、いろいろな機会に紹介しているが、どの一曲を取っても脈々と波打ち、泡立ち流れている「燃えたぎる恋の情熱」が、まるで南の国の火の山からほとばしる溶岩流のような「胸に燃える思い」が、天に向かって叫んでいるのを聞きのがして、悟り澄ました老僧が南画を鑑賞するような「ニル・アドミラリ(無感動)」な聞き方をしたのでは、まことにもったいないハナシである。この心象風景は、絶対に「水墨画」の世界ではなくて、むしろこの列島の古代最高の大詩人・柿本人麿の次のような「燃えたぎる恋の詩」に匹敵する世界なのだから。
 「言に出でて言わば忌忌しみ山川のたぎつ心を塞きあへにけり」
 「恋死なば恋も死ねとやはしきやし妹が目すらを見まく欲りすも」。
「歌に生き恋を歌にした音の詩人」、シューベルトだからこそ、哀惜、痛恨といった月並みなコトバではとうてい形容し尽くせない、24曲の歌があるのである。これらを味わい尽くし歌い尽くしてその神髄に触れたいと思うなら、「ニル・アドミラリ(無感動)」になるのではなく、「ムルトウム・アドミラリ(最高の情熱に燃えて)」いなければならないのだ。

この空前絶後の作品に関するエピソードとしては、友人のJ・シュパウンによって伝えられた、次の供述(ステートメント)が広く知られている。

「シューベルトはこの曲の構想中、あるいは書き下ろし中は、大変落ち込んでいて、人に会うのを避けていた。その理由を打ち明けるように迫られると、かれは”君たちもいずれ分かるようになるさ”、と答えた。その少しあとでかれは私を、ショーバーの家へ行こうと誘ったが、”あそこで凄まじいリードの連作を歌って聞かせるから”、と言った。”僕は、君たちがそれを聞いて何て言うか知りたいんだよ。ほかのどのリードよりも、今度のリードは僕の胸をかきむしったのだから”。そしてかれの演奏を、われわれ友人たちは黙って聞いていた。そして誰もほんとうの所はよく分からなかった。”どうかね?”、とかれは目顔で尋ねた。しばらくの沈黙を破って、ショーバーがやっとこう言った。”その中でほんとに気に入ったのは菩提樹だけだね”。”いや、かまわないさ”、とフランツは静かに言った。”でもぼくには、これらのリードがほかのどんなリードよりも気に入っているんだ。いつか君たちもそうなるよ。・・・そうなるよ・・・”」。

この間のいわば”壷中の消息”を、アインシュタインは次のように解説している。

「シューベルトの”胸をかきむしられる気持ち”というのが、これらの歌の歌詞の内容だけに関するものだと思い込むのは、創作活動というものにあまり通じていない証拠である。もちろんこの内容はかれの心を大きく動かしたのであって、もしもそうでなかったら、かれは作曲しなかっただろう。それはかれ自身の状況と気持ちにぴったり合っていたのである。しかし、それよりもさらに深くかれの胸をかきむしったのは、その内容をいかに創造的に形成するか、という問題だったのである。事実、かれはこれらの歌の芸術的あるいは審美的価値についてしか語ってはいない。なぜなら、普通の意味で”気に入る”ということは、これらの作品の場合、ほとんど問題にもならないからである」。

シューベルトの歌は単なる詩でもなければメロデイーやリズム・ハーモニーですらなく、一つの世界であり小宇宙(ミクロコスモス)なのだから、かれの{歌}の形成にあたっては、歌詞と音楽との絶妙な駆け引きというか掛け合いにこそその生命があるのだ。だから、歌詞だけではほんの22%くらいの比重しかなく、音楽の三大要素を総動員したところで、それはせいぜい72%の重みを持つに過ぎない。これを「音」と「言葉」の比重に置き換えたとしても、この割合が大きく変動することはないだろう。だから、たとえハイネやゲーテのような大詩人の歌詞であったとしても、もしもシューベルトの音楽がなかったとしたら、この列島の人々にまでその作品が伝わることは、今よりはるかに稀でしかなかったであろう。まして「冬の旅」の作詩者であるW・ミュラーの場合は、作品だけで伝わる可能性はまずなかった、と言っていい。私自身は、どちらかといえば「音の畑」の出身ではなくて、「コトバ」で自己形成を遂げた人間なので、シューベルトにたどりついたきっかけは、この「冬の旅」に関していうなら、むしろその「歌詞」を通じてであった。しかし、もしもそれだけだったとしたら、恐らくこの作品の22%しか知らずに一生を終えたことだろう。その意味で私は、”原詩”を偏重する評論家ないし演奏家の言には、必ずしも無条件で賛成できない。もちろん、原詩の意味を理解することが必要なことは論をまたない。しかし、この作品の”原産地”を遠く離れたこの国の住民が、”原詩”そのものを母国語とする人たちと、同じレベルで味わうことができるだろうか?自らドイツ語を「第二の母国語」と称している私でさえ、”ザアアインクナーパインレースラインシテーン”、というサウンドを聞いただけで、果たしてそんなに感動できたかどうか、それはまったく疑わしい。この響きだけで”感動”するためには、やはりドイツ語がほんとうの母国語である必要があるのだ。そうでない人がいくら”原詩とその響き”を有り難がって”エラソウ”なお説教を聞かせようと、私の感覚はいささかも揺らぐことはない。かれらはたとえ、どんな肩書きや経歴を持っていようと、あくまでも「トラの威を借りるキツネ」に過ぎないのだから。

今回の私の「連続講座」をわざわざ聞いてくださる方々には、ぜひここまでは理解して頂きたい、と思っている。これは絶対に”ドイツ語講座”ではないし、”ドイツ文学の講座”でもないのだから、音楽なしで進めるのだったら、はじめから開く必要もないし、CDその他に代用させて「生の歌」を省略するのだったら、やはり開く意味はないのである。シューベルトの歌を「母国語でしかも生で聞く」体験を共有しつつ、私の拙いハナシをBGMというか肴にして楽しんで頂くために開くのである。

原詩を徹底解剖するために、ドイツ語の分析は必要であるが、一語一語を文法的に解説して行くことにはあまり重点を置きたくない、と思っている。ただ、原詩を忠実になぞって行くことは必要なので、いわゆる”逐語訳”というものを先に紹介して、それから私が「邦詩」に変えてそのまま歌えるようにした歌詞で、歌い手に実際に歌って見てもらう、という順序で進めるつもりである。

この講座をお聞き頂くことによって、これまでみなさんがイメージされていた”冬の旅”とはまったく違う「小宇宙」が開かれたら、その時初めて、この講座を開いた目的が実現した、と胸を張って言えるだろう。そうなることを衷心から祈る次第である。

2、000年1月吉日。

實吉晴夫識。

 

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