「 鳩 の 足 で 震 撼 さ せ る 音 楽 」    ー シ ュ ウ ベ ル ト の 文 化 史 的 考 察 2 ー               v・Y・C・M  

「近代の人々は、個々の文明の価値を評価するにあたって、たとえば“進歩”とか“発明品”とかを基準にハナシを始めるが、そうなるとギリシャ人はたいへん不利な立場に立つことになる。エジプト人やバビロニア人は、すでに何千年も前から非常に勤勉な人々であって、技術的、機械的ないし化学的にきわめて高度な種類の功績を挙げたことを実証しており、これはかれらがその日暮らしの生活を始める以前のことであった。『物質的な面に関しては、ギリシャ人たちもまた、挙げる価値のある発明品はただの一つも残してはいない』、とヘルワルドは述べている。『それどころか、かれらの思想界や形式(美)の世界においても、きわめて強力な近東からの影響を、まったく免れることはできなかったのである』。
 この後の主張に対しては、ギリシャ人たちこそまさに、あらゆるものにかれらのデザインを与えたにすぎないのだ、と反論することができる。しかし先の“進歩”に関しては 、二つのことを言っておかなくてはならない。先ず第一は、生活面での物質的な豊かさや洗練があってはじめて、精神的な進歩が到来し、一方、貧困が消滅するとともに、粗野な風習も消える、という考えは誤りであることを証明できる、ということである。あちこちで才能に恵まれた人種にあっては、たとえ物質的な文化は非常に質素なものであり、ヘルワルドが高く評価して、贅沢とは念入りに区別して考える“快適さ(コムフォート)”がまったく欠けている場合でも、一つの民族の魂に依存しているすべてが、それだけでもすでに、きわめて高度で豊かな美を啓示しており、たとえばナウジカアの物語などは、魂の美しさと優しさという点で、それを越えるものは何一つないほどである。 。ところがその反対に、生活面での物質的な豊かさや洗練というものは、野蛮な行為に対する歯止めにはけしてならないのである。物質的な豊かさや洗練とともに成り上がった階級は、しばしば贅沢な見せかけでうわべをつくろったまま、ますます粗野で下品となり、下層の階級はどうかといえば、これはもうおハナシにもならない。そしてさらに、物質的な豊かさの追求は、地球の表面を利用し尽くし、資源を採り尽くすという結果をももたらし、都会人の増加と同時に賤民化をも招来せしめるのであり、これはすなわち 、没落へ向かってひしめきあうすべてを意味するものであって、没落とは、世界がまたしても、まだ開発されていない自然の力を利用して“リフレッシュ”すること、つまり一つの新たな“野蛮化”を模索するという状態を指すのである」。
 これは今から百年前に、バーゼルの文化史学者ヤーコブ・ブルックハルトが、その「ギリシャ文化史」の中で述べている文章であるが、一世紀を隔てたわれわれが読んでも、少しも新鮮さを失わないばかりでなく、まさにこの「千年紀末」にこそふさわしい内容そのものだ、といってもいいコトバである。オウムの連中の「野蛮な行為」によって汚染されてしまった「ハルマゲドン」、この「世界の終末」を意味する状態を予言する言葉の一つ、と考えてもけして見当はずれとは言えない高度な洞察である。例によってシューベルトの音楽に引き寄せて解釈して見るなら、「魂の美しさと優しさという点で、 それを越えるものは何一つないほど」の「ナウジカアの物語」こそ、かれの人と作品に当たる美の典型であろう。もちろんシューベルト」は、この物語を含むホメロスの「オディッセイア」からは何一つ作曲してはいないが、「物質的には非常に質素で」、それこそ「快適さ」とはほど遠いわずか31年の生涯を送った人であり、おまけにその貧苦の中から天国の花のように咲き誇る無数の名曲を生み出したのである。これだけでもすでに、「物質的な豊かさや洗練」というものが、芸術作品の創造とは本質的に無関係だ、ということが明らかであるが、発禁処分や検閲といった圧制ばかりが「文化の敵」ではない、というこの指摘にはまことに鋭いものがある。「カネがすべてのすべて」という信仰箇条を奉じて、ひたすら物質的な繁栄と快適な生活のみを追い続けて来た、ある時代のある国の国民から見ると、このような洞察こそまさに干天の慈雨、または砂漠の中のオアシスの役割を果たす「天の恵み」として歓迎すべきものだと思うのだが、国民の大多数にとっては相変わらず、馬の耳に聞こえる念仏のようなものだろう。
 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、これはマックス・ウェーバーという今世紀の碩学の名著のタイトルであるが、「ナチズム」、「ファシズム」、「スターリニズム」といった悪名高い体制ばかりでなく、この体制もまた、およそ優れた文化にとって最悪の条件を形成している、と私は断言したいのだ。ウェーバーによれば、資本主義の淵源をたどってゆけば、それは究極のところ「プロテスタンティズム」、それもスイスのジュネーブを本拠とするカルヴィン派の圧制に行き着くが、これこそ、歴史上もっとも芸術・文化に敵対する体制であったことは、もはや周知のことである。しかも このカルヴィンの思想を金科玉条とするプロテスタントの信徒こそ、現代の王者「USA」のそもそもの生みの親、建国の父たち(ピルグリムファーザース)なのである。五十年前にこの国と戦争をやって一敗地にまみれた日本人は、政治的、経済的、また軍事的にも、この国なくしては立ち行かないために、何重にもわたる抜き難いコンプレックスを、「アメリカ文明」というものに対して抱き続けて今日に至っているが、学問・芸術・文化という三点だけに絞っていえば、こんなコンプレックスにはそれこそ何の根拠もないのである。古代のギリシャ人は後にはローマ人の奴隷兼教師に成り下がり、軍事的・政治的・経済的にはほぼ完全に隷属するに至ったが、少なくとも文化的・芸術的には、自分たちの方がはるかに優越しているという意識を、一度として失なったことはない。それと同じ誇りをわれわれ列島の住民が持って悪い理由は何一つないにもかかわらず、圧倒的多数はこんな誇りはとうの昔にボロキレ同然に投げ捨ててしまって久しい。 思えばこの列島の人々は、文化的な意味で歴史上唯の一度も、「中華思想」を持ったことがないのである。千数百年にわたって大陸の文化に対する「隷属意識」、つまり底知れないコンプレックスに悩まされ続けた末、明治以来数十年にわたり「西洋」、つまりヨーロッパに対する劣等感に襲われ続け、そして「太平洋戦争」の後は、五十年間アメリカがその対象である。これを古代ローマ人の末裔であるイタリア人の場合と比較して見よう。
 私が何十年か前にドイツに留学していた頃、郵便局の貨物積み替え場で各国、それこそ地球上のあらゆる方角から来ている人たちと、「荷物の積み替え」という共同作業をすることになった。かれらの中に、いわば集団就職でやって来ているシシリアの出稼ぎ労働者たちがいた。同じ場所で働く二十人ほどのうち、この地球上に「日本」という国があることを知っていたのはたった一人、ドイツ語は勿論イタリア語の新聞が読める人間も0,時間を聞かれて腕時計(むろんアナログ式)を見せたら、「見ても分からないから、口で言ってくれ」と言った。この同じ(当時53才の)労働者が、何か国かの留学生たちと「言語の比較」というテーマで、今でいうディベートを始めた時、口のまわりに泡をとばしながら片言のドイツ語で、「世界中でイタリア語くらい美しい言葉はない。単語がすべて母音で終わっている。ドイツ語みたいにこんな醜い子音で終ったりはしない」、と誇り高く宣言したのである。「単語がみんな母音で終るのは日本語だってそうだ!」、と私も口を添えたのは言うまでもない。おそらく小学校もろくに出ていない、しかも貧しい出稼ぎ人夫でさえ、自国語に対してこれほどの文化的な誇りを抱いているのである。こういうよい意味での「中華思想」を、この列島の人々はどうして未だに持つことができないのだろうか。“オペラはイタリア語で歌うべきだ”、“シューベルトはドイツ語で歌わなくてはならない”、といった劣等感を裏返しにした特権意識に立て籠もる、この国の頑迷な「反日派非文化人」の言動を見ていると、このアル・カポネと同郷の出稼ぎ労働者・サルバトーレ氏の爪のアカでも煎じて飲ませてやりたい、としきりに思うのである。
 「絶対にありえないもの:イギリス人の哲学者、アメリカ人の音楽家、そしてニッポン人のプレイボーイ」。これはどこの国の人間が残した格言かは不明だが、きわめて公平にそれぞれの民族の弱点を突いたコトバとして、永く記憶されてしかるべき名言だと、私は思っている。すでに「失楽園」の作者・詩人ミルトン(1604〜74)は、プロテスタントの代表であるイギリスのピューリタンの信奉する神について、「私はたとえ地獄に堕ちてもこんな神さまは信じない」、と高らかに宣言している。あらゆる快楽と自然の欲求を否定して、ただひたすら“神の栄光”を称え、その“恩寵”にすがる「信仰至上主義」の倫理が、北米大陸に渡るとたちまち「飽くなき利潤の追求」を至上命令とする 「資本主義の精神」へと姿を変えてゆくのである。思想的な系列としては、「実証主義」 、「プラグマティズム」、さらには「功利主義」、「行動主義」という一連の流れとなって結晶を遂げるが、その命題を一言で言い表すと、「行動として現われないものは、始めからないのと同じだ」、ということである。それゆえ結果として現われなかったあらゆる活動は無意味であり、どんな理想もそれを目指す努力も、「実現=成功」しない限り始めからなかったのと同じだ、ということになる。このように非合理な思想が「哲学」の名に値しない「プロテスタント神学の婢(はしため)」、ないしは「産業神学の婢(はしため)」である、ということは私の目には明らかなのだが、これをこの国の人々に納得できるように説明することは、まことに至難の技である。現在の地球で「先進国」と呼ばれるほぼ全域を、まさにこの、「時はカネなり」として芸術と文化を否定する思想が支配しているからである。
 「アメリカ人の音楽家はありえない」、という指摘には首をかしげる日本人が大部分だろう、とは当然予測できるが、20世紀を風靡した「ジャズ」や「ブルース」や「ロック」などは、すべてアフリカやカリブ海から渡って来たものであり、絶滅した(というよりもさせられた)原住民の音楽はほとんど痕跡をとどめていないし、いわゆるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の音楽としては、賛美歌とカントリーウェスタンぐらいしか“土着の音楽”として挙げられるものはない、ということを知れば、疑問は氷解するのではないか、と思う。ヨーロッパ大陸の人たちからは、アメリカ(=北米大陸)は,音楽的にはまだ未開発の地域とみなされていることは確かである。
 政治的・経済的、そして軍事的には、「南北問題」とは、“豊かで強い北”に対する “貧しい未発展の南””という図式になるだろうが、学問・芸術・文化、という視点からすれば、まさに正反対に、「豊かで満ち足りた南」に対して「貧しく粗野な北」、という図式に一変するのである。この場合の「北」には、アメリカやイギリスばかりでなく、ドイツも日本も当然含まれるのだ、ということを忘れないでほしい。
 「ニッポン人のプレイボーイ」については、互いに顔や形を見合わせて納得するほかはない、と思うので論評は差し控えたい。
 さて、シューベルトの31年の生涯と1,000曲に及ぶその作品群とを眺めてみると、この意味でどこからどこまでも「豊かで満ち足りた南」の要素に貫かれていることは明らかであり、この点でブルックハルトが「生きた模範」とした、「ギリシャ文化」の担い手たちとまったく軌を一にしている。ローマ人たちが「北の蛮族」に対する要塞として築いたヴィンドボナ、これが後には神聖ローマ帝国の首都として栄えるウィーンのそもそもの発祥であるが、このウィーンの都市貧民層、その日暮しでしかも快楽の追求だけは片時も忘れない小市民たちは、シューベルトの時代には「パイアケース(逸楽の民)」と呼ばれていたが、これこそ古代のギリシャ人たちが「理想の民」とした模範的ケースで、ホメロスがその「オディッセイア」の中で描いている、漂白者であるオディッセウス一行を歓待した「王女ナウジカア」は、まさにこの「パイアケースたち」の王女なのである。先頃世を去ったドイツの作家ミヒャエル・エンデは、これをその作品で映画化された「ネバーエンディングストーリー」の中で、「ファンタージエン(幻想の国)の王女」として描いている。夢も希望もないシラケた「現実」という灰色の世界に対立する、夢と希望と幻想に彩られた「非現実の世界」、緑豊かな異次元の楽園、これこそが ギリシャ人とシューベルトがともに理想として追求した世界にほかならない。
 「おお幻想よ!汝は人類最高の宝、汝は尽きることのない泉であって、そこから芸術家も学者も同じように、ノドをうるおす水を飲むのだ!おお、今しばらくわれらのもとにとどまれ、たとえほんのわずかの人々にしか、認識され崇拝されることがなくとも、われらを、かのいわゆる啓蒙という、肉も血もない醜いドクロから護るために!」。
 これは1824年3月29日の日記に記されたシューベルト自身の短詩(エピグラム)であるが、かれの最初の音楽作品(D番号の1)もまた「ピアノ連弾用の幻想曲」であり、かれが最初から最後まで「幻想の国(ファンタージエン)」の住人であったことは明らかである。「現実に対する幻想の勝利」、これがシューベルトの音楽の持つ真の文化史的意味なのである。
 これから聞いていただく「挨拶を贈ろう(Sei mir gegruesst)」(D741)は、リュッケルトの詩によるリードだが、この旋律のテーマは、前回ご披露した「ピアノとバイオリンのための幻想曲」(D934)のもとになっていることがお分かりいただけると思う。  

・「挨拶を贈ろう」。

 “シューベルトの冬の旅”。“シューベルトといえば冬の旅、冬の旅といえばシューベルト”というくらい、この列島のシューベルトファンには「冬の旅のファン」が多いのは事実であるが、この連作リードの作詩者はW・ミュラーという、ドイツの小都市デッサウに生まれた人で、ここはウィーンよりも数百キロも北に位置している。「菩提樹(リンデンバウム)」は、(シューベルトではなくて)このミュラーにゆかりの樹であって、市の門の前の噴水のほとりに菩提樹が立っていたのである。この詩人はドイツでは「ギリシャ人のミュラー」と呼ばれているが、それはかれが当時オスマン・トルコからの独立を目指していたギリシャの解放戦争に参加したくらいに、ギリシャ文化に心酔していたからである。イギリスの詩人バイロンもまた、この戦争に参加して戦死を遂げている。シューベルトの死の年(1828年)に完成したこの前人未踏の傑作の価値については、くだくだしく述べる必要もないと思うが、一見荒涼とした雪と氷に閉ざされた冬景色を、単に「墨絵風に」鑑賞するばかりでは、この連作のほんとうの魅力に触れたとは言えない、と思うのだ。「厚い氷の下には熱い涙」と燃える情熱の炎が、それこそたぎりかえっているからだ、「冬中の氷をとかすほどまでに」。シューベルトが生前友人たちの仲間では「unserMinnesaenger(われらが恋愛歌人)」、というニックネームで呼ばれていたということは、いろいろな機会に紹介しているが、どの一曲を取っても脈々と波打ち、泡立ち流れている「燃えたぎる恋の情熱」が、まるで南の国の火の山からほとばしる溶岩流のような「胸に燃える思い」が、天に向かって叫んでいるのを聞きのがして、悟り澄ました老僧が南画を鑑賞するような「ニル・アドミラリ(無感動)」な聞き方をしたのでは、まことにもったいないハナシである。この心象風景は、絶対に「水墨画」の世界ではなくて、むしろこの列島の古代最高の大詩人・柿本人麿の次のような「燃えたぎる恋の詩」に匹敵する世界なのだから。
 「言に出でて言わば忌忌しみ山川のたぎつ心を塞きあへにけり」
 「恋死なば恋も死ねとやはしきやし妹が目すらを見まく欲りすも」。
 「歌に生き恋を歌にした音の詩人」、シューベルトだからこそ、哀惜、痛恨といった月並みなコトバではとうてい形容し尽くせない、次の歌があるのである。  

・「春の夢」(D911-11)                         

 「光は東方から」というコトバがあるが、間違いなく「文化は南方から」来るのである 。人類最古の文明の担い手はシュメール人、バビロニア人、そしてエジプト人であるが、これらはいずれもヨーロッパよりはるか南に生活の根拠をおいていたし、さらにその後のインドやギリシャ・ローマの古典文明も、アルプスよりもはるか南の色彩豊かな自然環境に恵まれた土地に栄えた文化であることに変わりはない。シューベルトの夢と無限の憧れの対象もやはり、ゲーテの創造にかかる「ミニョン」とともに、「ふるさとは南の国、葉かげにオレンジの実る国」であった。“人類北方起源説”は、悪名高いナチスドイツが唱えたものであるが、これが破綻したのはすでに五十年以上の昔である。「金髪碧眼の野獣」が覇を唱える時代は、この20世紀までで終りにしてほしいものだ。 金髪碧眼のアカイア人とドーリス人、古代のギリシャ民族を構成するもっとも代表的な人種であるこの「征服民」は、一方はコーカサスから、もう一方は「旧ユーゴ」の一帯からエーゲ海地方へと南下して来たといわれている。しかし、かれらが征服・蹂躙したペラスゴイ人やクレタ人などの「原住民」の間には、すでに何千年にもわたって、「女神」に対する信仰を中心とする「アマゾネス(女戦士)たち」の文化が栄えていた、ということは最近の研究によってすでに明らかとなっている。地中海からエーゲ海、そしてさらに黒海沿岸地方にわたる広大な領域に、「女家長制」、「母権制」の共同社会を形成していたかれらが、「大女神」として崇拝していたのは、「ヘラ」、「アテーナー」 」、「アルテミス」、「デメーテル」、それに「アフロディーテー」の五人であるが、 そのうちでもとくに強大な力と権威とをそなえていたのが「アテーナー」、「アルテミス」、そして「アフロディーテー」であった。後にアテネ市の守護神となる「知恵と武勇の女神・アテーナー」、遊牧騎馬民族のスキタイ人たちの守り神であった「月と狩りと処女の女神・アルテミス」については、ここでは詳説しないが、ローマ名・ヴェーヌスの英語形「ビーナス」として誰知らぬ者もない「アフロディーテー」の来歴については、ここでやや詳しく語ってみたい。
 かの女は本来、バビロニア人たちには「イシュタル」、シュメール人たちには「イナンナ」と呼ばれていた、きわめて強大な超能力と権威とをそなえた「大女神」であった。 「砂漠であろうと禿山であろうと、かの女が一歩足を踏み入れると、たちまちそこは幾千幾万もの樹木や草花が生い茂り咲き誇る楽園に変わった」、といわれている。「美と愛欲を司る神」でもあるかの女は、最初の足跡を印したメソポタミアから、聖書の舞台であるカナアン地方を経て、最終的にはキプロス島に本拠を定めることになるが、ギリシャ神話では「天の父ウラノスの去勢された一物から流れる血潮が海の泡となってかの女を生んだ」、と語られている。その名前も「海の泡から生まれた」という意味をもつかの女の「誕生の瞬間」は、ルネッサンス期のボティチェリの絵画「ビーナスの誕生」としてあまりにも有名である。一方エーゲ海の小島であるメロス島から発掘されたかの女の彫像は、「ミロのビーナス」と呼ばれる片腕の半分しかない姿だが、奇しくもホメロスの「イーリアス」によると、史上初の「ミスコン」でかの女を優勝させた王子パリスの故郷・トロイアの軍勢に加勢したかの女は、侵略するアカイア方の英雄アキレスと一騎打ちを演じて、片腕に負傷までしているのである。かの女は「ケストス」という魔法の帯を締めていて、この魔力でどんな男もとりこにすることが出来る、といわれているが、例の有名な「ミスコン」のときには、これを外すことを条件に参加して、それでも見事に優勝の栄冠(黄金のリンゴ)を獲得している。かの女の愛する植物はバラとミルテ(天人花)、そしてかの女のお使い姫としての動物は、白鳥と鳩である。
 「パリスの審判」として有名なこの「史上初のミスコン」事件について、かの女自身の証言を聞こう。
 
アフロディーテー「あの有名な『パリスの審判』というイベント、あれはけっしてただのミスコンなどではありませんでした。国の行く末、ひいては人類の行く末を左右する重大で決定的な選択だったのです。アテーナーのすすめる『知恵と武勇』、つまり「知識や情報や軍事技術』を選ぶのか、あるいはヘラのすすめる『富と力』、要するに『政治権力と経済的な繁栄』を取るのか、それともわたくしのすすめる『世界一の美女』、つまり『恋と芸術』にすべてを賭けるのか、という三択だったのですから。かれがわたくしを選んだということは、たとえ国を滅ぼす結果になろうとも、人間は『恋と芸術』を追求する情熱をけっして失うことはない、ということを悠久の未来に向かって高らかに宣言した、ということにほかなりません。わたくしを選んだトロイアの王子パリス、かれこそほんとうの男だった、といっていいでしょう」。

 さて、シューベルトの最後の歌曲集「白鳥の歌」(D957)は、題名はむろんかれの死後に出版社のハスリンガーがつけたものであるが、レルシュタープとハイネの詩による13曲の後に、「鳩の使い(Taubenpost)」というザイドルの詩による愛らしいリードが棹尾を飾っている。これと後ほど聞いて頂く「岩の上の羊飼い(DerHirt auf dem Felsen)」(D965)のどちらかが、かれの音楽作品としての絶筆であった、とされる。この不思議な蠱惑に満ちた作品こそまさに、「鳩の足で世界を震撼させる音楽」にふさわしい内容だ、と自信をもって推奨できると思う。  

・「鳩の使い(Taubenpost)」(D965-A)

 「もしもこれらの『超時代的な楽曲』が、作者不明のまま残されていたとしたら、おそらく1820年代ではなくて、1900年の年代をつけられたことだろうーーーもっとも1900年代に、シューベルトのような自由な音楽家がいたとしたらのハナシであるが」。これはご存じ音楽学者アインシュタインの名言の一つであるが、1900年代どころか2000年代の日付があったとしても、けして不思議ではないくらい、かれの曲は「超時代的」なのである。

「リヒャルト・ワーグナーの所信によると、かれの作品の多くの特性は、かれ個人の天才が生み出したオリジナルな獲得形質であるかのようにみなされているが、冷静な光に照らしてみると、明らかに伝統的な手法と密接に関連していることが分かる。したがって、かれの音楽は自分が思っているほど斬新ではなかったのである。たとえばかれの『トリスタン和音』といわれるものの場合もそうである。これは今日一般に、音楽の歴史の上で画期的な一歩を表わすものであり、古い楽想の終末と新しい楽想の始まりを意味するものとされている。けれどもごく最近では、すでにワーグナーよりずっと以前に、“ロマン派”の和声法がいくつかの法則性を自家薬籠中のものにしており、これは“現代の”作曲技法と比べて見ても、けして古臭く感じられることはない、ということがしばしば強調されている。この『トリスタン和音』と近親関係にある音楽表現は、すでにシューベルトの劇音楽『魔法のハープ』(D644)の比較的長大なメロドラマの中でも見られるものであり、これは同時にまたライトモチーフ(主導楽句)としての機能をも果たしているのである。あのメロドラマをコンサート用に編曲するという作業を続けるうちに、私はこの事実に突き当たったのである」。

これは1 9 9 2年にスイスのチューリヒに在住するシュポーアという音楽学者が、「IFSI(国際フランツ・シューベルト研究所)」の機関紙に寄せた論文の冒頭であるが、豊富な譜例を挙げて実証してゆく説論には説得力がある。ここでは→実例を挙げて演奏して見るという作業は省略するが、かれの曲が(このメロドラマばかりではなく)「前代未聞のいかばかり新しい音楽であるか・・ロマンチックの全体を飛び越えて、何と現代的であるか、何と超時代的であるか!」(アインシュタイン)ということは、かれの音楽を傾聴した人なら誰でも納得することができるはずである。私の確信によれば、「かれの音楽は未来の音楽」なのであるから。
 同じくアインシュタインが「これは、あの記念すべき一八五九年の夏の壮大なオーケストラによる『愛の死』(
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」)よりもはるかまえの『愛の死』である」、と絶賛しているリード 「消滅(Aufloesung)」(D807)を、この「現代性と超時代性」を証明する一例としてお聞き頂こう。  

・「消滅(Aufloesung)」(D807)                

 ブルックハルトも述べているように、古代ギリシャ人たちは、“発明・発見・技術革新 ”といった面では、後世の歴史家たちからは不利な扱いを受けているが、これから取り上げようとするシューベルトの器楽曲についても、後世の音楽史家たちからは、まことに“差別的な”取扱いを受けている、としかいいようがないのである。かれの同時代人であった年少のロベルト・シューマン(1810〜56)は、一八二八年九月の三曲のピアノ ソナタ(ハ短調・D958、イ長調・D959、変ロ長調・D960)について、「ほかの作品とちがうきわだった特徴は、案出の単純さ、輝かしい新味の自発的な断念、楽段(ペリ オーデ)から楽段へと新しい糸に結びつけてゆくことをしないで、ある一般的な楽想をくりひろげてゆくこと、などである。まるでけっして終ることがないかのように、継続はいくら長くてもかまわないかのように、次から次へと音楽と歌の流れが進んでゆき、ときたま激しい興奮によって中断されるが、たちまちまたもとの静けさにもどるのである」、とその特徴を正確に分析した上で、「これはひどく異常である」と断定している 。そしてその原因を「かれが病気だったと考える」ことによって推測しようとさえしているのだ。アインシュタインは、これについて「シューベルトは、一八二八年九月にはまだ、いつもより病気が重かったわけではない。かれを不安にしていたのは、死についての想念ではなくて、ベートーベンについての想念であった。シューベルトは、ベートーベンの作品をさらに先へ進める歴史的義務を感じたかのようである。かれがはなはだ慎重に準備したということは、この義務感と一致する事実である。三曲のソナタ全部のための自筆のスケッチが残っており、いずれもきわめて重要なものである」、と反論しているが、シューマンがこれらの作品を「異常だ」と判定しているのは、シューベルトの病気とはもちろん、シューマンの病気とも無関係で、「ピアノソナタ」も含めて一般に「ソナタの形式美」というものを、かれ以前の巨匠たちの基準で計っていることから生ずる当然の結果だ、というほかはないのである。それはどういうことかといえば、たとえばパルテノン神殿の芸術的価値をピラミッドの基準で評価したり、伊勢神宮や法隆寺の五重の塔をベルサイユ宮殿やあまつさえエッフェル塔の基準ではかったりするようなナンセンスなのである。アインシュタインですら、「「いったい一八二八年ころに、 ソナタのもっとも偉大な楽匠(マイスター)の完結した作品のことを考えないで、ピアノソナタを作曲できる人があっただろうか!」、と言っているが、これもきわめて誤解を生みやすい発言である。「ベートーベンの後でまだ何か作れる人があるだろうか」、とシューベルトは言ったし、生涯この偉大な先輩を目標として作曲活動を続けたことも事実である。しかし、実際に出来上がった作品を見れば、ベートーベンとはまったくちがった美しさにあふれたものになっていたのであり、本質的にちがう基準で評価する以外に、その芸術的価値を正当にはかることはけしてできない、それこそ唯一無二(スイゲネリス)の作品になってしまったことが明らかなのである。このアルフレート・アインシュタインの従兄弟(いとこ)で有名な物理学者・アルベルト・アインシュタインは、「光速不変の原理」というものを掲げて、「たとえ宇宙人がUFOに乗って飛んでも、この地球に到達することはけっしてできない」、という迷論に一つの根拠をあたえている。シューマンが「ひどく異常だ」と思ったシューベルトのピアノソナタこそ、このUFOや宇宙人に匹敵する「超常現象」に相当する「未来の音楽」にほかならない、と私は確信している。これから聞いて頂くのは、三大ピアノソナタのうち「ハ短調・D958」の第一楽章と、それに「イ長調・D959」のフィナーレであるが、先ずはアインシュタインの発言を傾聴して見よう。
 「これら三曲のソナタの第一楽章に好んで与えられる非難は、シューベルトが展開部を作る意志がなかったということ、それに何の価値も置かなかったということを知れば消失するのである。ハ短調ソナタにおいて、第一楽章はベートーベン的=英雄的に開始し、カンタービレな第二主題も正常な平行調であらわれて、展開部もまるでなにか劇的な対決がこれから起こるかのように始まる。ところがこの展開部は、半音階でうごめくピアニシモの部分の中に消滅してしまい、ここの部分が短いクレシェンドのうちに、強化された活発な再現部へと導くのである」。
 「展開部」というのはドイツ語では「Durchfuehrung」、直訳すれば「完遂」とか「遂行」といった意味になる。いってみれば、二つの主題を対決させることによって、「論理的・論証的に葛藤を発展させてゆく」ことが、ここの部分のもつ役割とされ、これが(シューベルト以前の)巨匠たちの完成させた「ソナタ形式」というものの通有性であって、哲学的にいえばまさに「弁証法的発展」をあらわす、音楽の形式美にとって欠かせない要素ないし契機(モーメント)なのであった。だから、この「展開部」というものに何の価値もおかないシューベルトのピアノソナタは、まさに形式を破壊する「異常な音楽」として受けとられたのである。この点で、ヘーゲルの完成した壮大な「観念論の体系」や、その弟子を名乗るマルクスの「唯物弁証法の体系」に対して、そんなものに何の価値も置かずに文化史的考察を続けるブルックハルトの著作が、「厳密な学問的な価値のないアマチュアの仕事」である、と当時の学者たちに受けとられたのと、まったく軌を一にしている。
 先頃アフリカ系のアメリカ人であるマルセリウス(?)という音楽家が、子供たちに音楽を教える番組で、この「展開部」のことを説明するときに、「phantasia」 というコトバを使っているのを偶然テレビで見たが、英語ではすでに「ファンタジー」 、つまり「幻想」をあらわす言葉が「完遂」や「遂行」に取って代わって久しい、という事実をはからずも確認することができた。「進歩発展」や「任務遂行」ではなくて、次々と際限なく「幻想」、ファンタジーの世界をくりひろげること、これこそがシューベルトを創始者とする「超現実的=超常識的」な音楽の、「重苦しい必然」に縛られた音楽に対する勝利をあらわすものでなくて何であろうか。  

・「ピアノソナタ ハ短調D.958・第1楽章

続いて聞いて頂くのは、「ピアノソナタ・イ長調・D959」のフィナーレであるが、これはアインシュタインが「これら三曲のフィナーレの王冠をなすものだ」、と激賞している部分である。 かれは「リード・春に(Im Fruehling)との関連は、疑う余地はない」、と語っているが、聞いた感触としてはむしろ、「緑の中の歌(Lied im Gruenen)」との近親関係が目立つ。総じてシューベルトの器楽曲は、歌を離れてはけして成り立たない、といっていいほど、「歌のこころ」から発生した作品ばかりで占められているのだから、器楽の演奏者としても、「あたかも楽器が歌声のように響く」ように演奏することが切実に求められるのだ。機械的・金属的で“速く正確な”演奏は、それだけではシューベルトの曲にふさわしいとはとてもいえないのである。かれ自身がその手紙の中で、このことを強調しているように、「ピアノの鍵盤が両手の魔力にかかって、まるで歌声のように」なる弾き方こそが理想である。ピアニストに限らず「歌を忘れた演奏家」は、いつの時代だろうと、シューベルトの曲は断念した方がいいのである。このことを強調したからといって、けして誤解してほしくないのだが、いまだに根強く「シューベルトはリードの王さま」だ、という偏狭な見方が音楽界に残っていることを、見過ごしにすることは許されない、ということである。かれの生前の野心は、けして「リードの王さま」になることではなくて、オペラによる成功とともに、シンフォニーや器楽曲の分野でも、完成度の高い作品を数多く残すことだったのだから。このフィナーレを聞いて頂けば、器楽作品の完成度が、声楽作品の完成度に劣るというような偏見が、いかに根拠のないものであるかが、だれにでもたやすく見て取れると思うのだ。アインシュタインは、このフィナーレを「音楽三昧(Musizieren)の極致」とも評している。 

・「ピアノソナタ イ長調D959・第四楽章

 さて、今宵の催しの「フィナーレ」として、シューベルトの絶筆とされるものの一つである「岩の上の羊飼い(Der Hirt auf dem Felsen)」を取り上げるが、これは当時有名だったソプラノ歌手・アンナ・ミルダーのために書いたといわれ、シューベルトの死後一八三〇年になってからようやく、当時はハンザ同盟都市として栄えた港町・リガで、ミルダーによって初演された作品である。クラリネットのオブリガートのついた華麗な曲で、歌詞は一部はW・ミュラー、一部はH・フォン・シェジーの作になる。この曲にちなんで、もう一人のギリシャの女神に登場してもらうことにするが、それは「月と狩りと処女の守り神・アルテミス」である。  

ア ル テ ミ ス「(登場)わたくしの名はアルテミス、月と狩りと処女の守り神として知られています。みなさまにはもしかしたら、ローマ人たちの呼び名・ディアナを英語読みにした『ダイアナ』の方が、馴染みが深いかもしれません。つい先日この名前の有名な美女が一人、突然この星の外へ旅立ってしまいましたが、かの女の死についてわたくしの見解を述べるのは、やや時期尚早かあるいは場違いだと言われそうなので、残念ですがまたの機会にゆずりたいと思います。一般のギリシャ神話、つまりオリンポスの公式な神話では、わたくしは太陽の神・アポロンの双子の姉または妹として、エーゲ海のデロス島で生まれたことになっていますが、これは間違いです。本来わたくしは、現在はウクライナのクリミア半島、当時はタウリスと呼ばれていた一帯の遊牧騎馬民族・スキタイ人たちに信仰されていた月と狩りの守り神でした。また、“処女神”というのもわたくしの一面しかとらえていません。もともとわたくしには、“処女”の相のほかに、“妻”としての面も“母親”としての面もあり、『三面相の月の女神』というのが わたくしのほんとうの姿なのです。だから当然わたくしには恋人があります。それは羊飼いの神さま・パアンで、南の方のアルカディアというのどかな田園地帯がかれのすみかです。動物の世話と昼寝が何より好き、という呑気な男で、もしも昼寝の邪魔をされると、突然大声を出して脅かすので、そこから“パニック”という言葉が生まれたほどです。羊の皮をかぶったかれと、わたくしはアルカディアの田園の中で、初めて抱き合いましたが、わたくしはむろん、かれもその時が初めての体験でした。これから聞いていただく『岩の上の羊飼い』という歌は、かれとわたくしのロマンスを象徴するシューベルトのたった一つの作品だと思って、わたくしが自分で選びました。どうぞ聞いてください 」。
  
・「岩の上の羊飼い」(D965)

    ーー幕ーー





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