シ ュ ー ベ ル ト の 怨 霊
      ー シ ュ ー ベ ル ト の 文 化 史 的 考 察 4ー
            v・Y・C・M

「シューベルトの怨霊」というと多少の違和感を感じる方が多いかも知れません。
「怨霊」というのは、実は「デモーニク(魔性)」というコトバを、日本の伝統的なコトバに置き換えた言い方です。“Daemonik”(魔性)というのは、もともとギリシャ語からほとんどのヨーロッパの言語になった言葉で、シューベルトの音楽の本質について、ご存じアインシュタインが「ベートーベンがパトス(激情)にみちみちているとすれば、シューベルトはデモーニク(魔性)にみちみちている」、と述べていることからも明らかなように、一見単純な明るさに貫かれていて、一部は民謡のようにポピュラーになっている、かれの歌の本質を追求してゆくと、どうしてもかれの音楽の本質には、こうした「魔性(デモーニク)」が内在している、としか考えられません。さらに、これはけしてシューベルトだけにあてはまることではなくて、古往近来(昔から東西を問わず)、すべての優れた芸術家や文化人の本質には、このような「魔性」が内在している、ということは確かで、、その実例として、この列島では昔から、優れた政治家ないし文化人であって、しかも「怨みをのんで非業の死をとげた」人たちは、その後は「怨霊」となって怨みのある相手に散々「祟り」をした末に、ついには逆に相手から「神さま」として祭られて、全国の津々浦々にある神社の祭神として鎮座まします、という結果になっていることが挙げられるのです。聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、この人々こそまさに典型的な例でしょう。。ではシューベルトの場合はどうなのか?それはこれからお話を聞いて頂いてからのお楽しみ、ということに致します。

この列島の文化史に名を残している有名な政治家ないし文化人のうちで、死後まもなく「神」として祭られることになった大物が五人あって、時代順にならべると次のようになる。

1.聖徳太子(573〜622) 2.柿本人麿(640?〜708) 3.菅原道真(845〜903).4. 平将門(?〜940).5崇徳院(1119〜1164)。

「一神教」の支配する文化圏では、「神=絶対者」と「被造物」、つまり有限な存在である人間や自然との間には「無限の質的差異」があって、人は断じて「神」にはなりえないが、この列島では、なんらかの形で政治的ないし文化的に巨大な業績を残した上、「余執・妄執を残しつつ非業の死をとげた人物」、要するに「この世に未練を残し、恨みをのんで死んでいった人物」は、死後間もなく「神」(神社の祭神)として祭られることになるのである。しかし、それには一つの前提条件が存在するのであって、それは何かというと、恨みのある相手に対して「祟り」をなす「怨霊」になって猛威を振るう、ということである。この五人のケース一つ一つについての詳細は、梅原猛氏の著書「古代幻視」ほかに譲ることにしたいが、この「怨霊」に相当するインド・ヨーロッパ系の言葉を求めると、たとえばギリシャ語の「το δαιμονιον(ト・ダイモニオン)」がある。これは英語なら「evil spirit」」、ドイツ語なら「b■ser Geist」」で、単なる「妖怪・変化・魑魅魍魎」ではなくて、恨みのある相手に対する復讐、というはっきりとした動機をそなえ、実行力をそなえた「悪霊」(デーモン)を意味している。ギリシャ神話ないしギリシャ悲劇に登場する有名な「Ερινυξ(エリーニュス)」というのが、そのもっとも具体的・典型的なイメージを伝える存在である。「母親殺し」という、「母権制」の社会では最大の罪を犯したミュケーナイの王子・オレステスにとりついて責め続けるこれらの悪霊が登場する場面は、アイスキュロスの「オレステイア(=オレステス三部作)」を飾る圧巻であるが、これは「アイスキュロスの断片」(D450))というタイトルで、そのごく一部がシューベルトのリードとして結晶している。    

「ヘブライ・キリスト教文化圏」では、「絶対者」である神以外には神格というものを一切認めないので、もしも「唯一神」以外の超自然的な存在ないしパワーがあるならば、それはすべて「悪霊」であって、その力の根源というか総主宰者として、「大魔王サタン」というこの地球に「年古く住む蛇」」が想定されている。これは「創世記第2章」に登場する「アダムとイブに善悪を知る木の実を取って食べるように誘惑した」蛇として表わされている。さらに「キリスト教の終末論」では、「ヨハネの黙示録」に出てくる「666の獣」となって、「世の終りにキリストに敵対して人類を支配する悪の権化」として預言されている。シューベルトには有名なリード「魔王」があるが、これはゲーテの原詩によれば「Erle(はんのき)」の妖精の王さま、つまりただの木のお化けであって、この「大魔王サタン」に比較するとはるかに粒の小さい存在である。しかし、曲そのものの持っているパワー、迫力という点からすれば、あながち「大魔王」ないし「666の獣」に勝るとも劣らないものがあるので、ぜひ聞いてみて頂きたい。 

・「魔王」(D328)

シューベルトに限らず、歴史上名だたる大芸術家の作品には、「芸術そのものに内在する魔性」とでもいったものが存在することは、どうしても否定することの出来ない事実であるが、この「魔性」こそが洋の東西を問わず、優れた「文化人」であってしかも「余執・妄執を残したまま非業の死をとげた」人物をして、「怨霊」となって猛威を振るい、最後には「神」として崇拝の対象にさせる「魔力」の根源だ、ということが出来るのではないだろうか。この列島では「聖徳太子」から「崇徳院」にいたるそれぞれの人物が、「怨霊」」として散々祟りをした末に「神」として祭られていることは、このことの何よりの証しであると言えよう。
むろんシューベルトは、キリスト教文化圏の中で生まれ育った人であるから、この列島のように、「怨霊」という形で誰かに「祟り」をするというようなことは、フィクションとしてすらだれ一人考えつく者はないだろうが、「優れた芸術家または政治家であってしかも非業の死をとげた」、という点では列島の五人と共通の運命の持ち主なのである。従って、もしもシューベルトがこの列島に生まれ育った芸術家であったとしたら、「人麿神社」」や「天神社」が全国に何十とあるように、津々浦々にいたるまで「シューベルト神社」が建立されていたであろう。
先に述べたように、「ユダヤ教」、「キリスト教」、それに「イスラム教」という「三大一神教」の支配する文化圏では、どれほど巨大な力や才能を発揮した人であっても、人はあくまで「被造物」であって、神さまと肩を並べる存在になることはあり得ないが、ひるがえって、同じヨーロッパでもキリスト教発生以前の「古代(Antike)」に目を移して見ると、そこにはまさしく「人が神になる」、すなわち「神化(アポテオーシス)」の実例が数多く見られるのである。ヘラクレスやテセウスといった「英雄・豪傑(半神)」」はもちろんのこと、トロイア戦争の原因となった「世界一の美女・ヘレナ」のためにも壮麗な神殿が築かれて、生まれつき容貌が醜かったある女の子が、乳母に連れられてお参り(お百度)を繰り返したら、霊の力によってスパルタ一の美女に生まれ変わった、というハナシが、歴史家のヘロドトスによって伝えられている。また、とりわけ芸術の神秘性と不滅性に確信をもっていたギリシャ人にとっては、アポロン、ディオニュソス、それにオルペウスやパーンのような「芸術をつかさどる神々」は、いずれも「人として」生まれ、育ち、生きて活躍し、そして(ダイハードなアポロンをのぞいて全員)「非業の死をとげる」が、そのことによってかえって「不滅性・永遠性」を獲得する存在なのであった。
そしてまさにこのことこそ、エジプト神話のオシリスのたどる運命であるとともに、実はのちにユダヤに生まれた「救世主・イエス」のたどる運命でもあるのだ。「キリストは最高度に芸術家の態度をそなえた存在である」、と言ったのはオスカー・ワイルドであり、「ディオニュソスとイエス・キリストは兄弟だ」、と言ったのはF・ヘルダーリンである。。
私はもう何十年も前から、「屈原=人麿=シューベルト」という等式にとり馮かれているのだが、聖徳太子から崇徳院までの「怨霊の系譜」を発見した碩学の梅原猛氏でも、「屈原とシューベルトの怨霊」までは思い付かなかっただろうと思う。しかし、この三人のたどった運命を考えてみれば、この等式は絶対に存在する、と断言することができるのである。三人の生涯はほぼ千年づつの間隔をおいているが、「流竄と窮死(または刑死)」という点で、少なくともこのうちの最初の二人(屈原と人麿)の運命は共通しており、三人目のシューベルトはどうかというと、同じウィーンで誕生と死を迎えた31年の生涯は、””正業”に就こうとしないので、父親から幾度も勘当された上、友達の家を転々とタカリ歩くボヘミアン生活に終始した、ということはまさに“社会人”としての「流竄と窮死」以外の何物でもないではないか。もっとも「窮死」とは言っても、かれの経済状態は、O・E・ドイッチュの綿密な考証によれば、「けして餓死するほどひどいものではなかったことは確かである」そうだ。しかし、それなら屈原にしても人麿にしても、「餓死するほど惨めな最後」だったという証拠はどこにもないのである。それにしても、中国の戦国時代の末期に楚の都(郢)を追放されて、揚子江の南、つまり江南地方を放浪した末に、ついに汨羅の川に身を投げて死んだ大詩人・屈原と、わが日本の古代を代表する詩人・柿本人麿とは、最晩年の運命に関しては、まさに瓜二つとしか言いようがない。人麿の最後が「水死」であったということは、これまでのこの列島の正規の歴史では語られたことがなかったが、20世紀の後半(1971年)になってはじめて梅原氏の名著「水底の歌」によって明らかにされ、現在ではほぼ定説となっている。さらに、個人的な人生の最後ばかりでなく、「楚辞」という文学作品全体の中で屈原という詩人の占めている役割と、「万葉集」という作品全体の中で人麿の占めている役割もまた、極めて似たものがあるのである。二人はそれぞれの作品のまさに「ヒーロー」なのだ。
ではシューベルトは何の「ヒーロー」なのであろうか?答えは「ドイツの歌のヒーロー」である。HERO、このギリシャ語は本来は、「女神ヘラに使える戦士」という意味であったが、「英雄」という意味に使われるのは後のことで、一番基本的な意味は、「物語乃至ドラマ(それも悲劇)の主人公」ということである。リヒャルト・シュトラウスの「Heldenleben」という交響詩は、「英雄の生涯」と訳すのはマチガイで、これは「ヒーロー」」すなわち「主人公の生涯」としなければならない。つまり、かれシュトラウス自身の生涯を語るものだからである。誰だろうと自分の生涯の主人公は自分なのだから。もしもかれが「オレは英雄だ」と自慢しているだけのハナシだったら、誰もそんなものは聞こうとも思わないだろう。この意味で「ドイツリード」(このコトバは私のもっとも不愉快なものの一つである)の主人公(ヒーロー)は誰か、といえば、それこそがシューベルトなのである。なぜなら、シューベルト以前にも以後にも、かれに匹敵するような「ドイツリード」の創造者は、誰一人存在しないからである。「ドイツの歌のヒーロー」は、シューベルト以外には存在しないのだ。
この意味で、屈原と人麿の二人もまた「ヒーロー」なのである。つまり「物語乃至ドラマ(それも悲劇)の主人公」そのものなのである。要するに、その人物というか存在を欠いたらその作品そのものが成り立たなくなる、という点で二人は共通しているのである。屈原というヒーローを欠いた「楚辞」も、人麿というヒーローを欠いた「万葉集」も、ともに白けた残り滓に過ぎないものになることは請け合いである。シューベルトを欠いた「ドイツの歌」も同様であることは論を待たない。
ニーチェは「ドイツ人も歌を歌うのか?この熊たちが!?」と言っているが、シューベルトの師であるイタリア人・アントニオ・サリエリにとっては、ドイツ語の歌などというものは、その存在すら滑稽でナンセンスなものであった。「常識」、つまりその時代の大多数の“フツウの人”の感覚というものが、いかに文化と芸術の進展を妨げるブレーキになるものか、ということを雄弁に物語る事実である。「社会通念と偏見」、これこそがまさに「諸悪の根源」なのである。「オペラはイタリア語」、「シューベルトはドイツ語」というこの国独特の通念は、何十年か前の商科大学の学生が語った「ドイツ人とはアメリカの戦争映画に出てくる悪い奴ら」、というのとまったく同じ偏見そのものである。ドイツ語の歌が滑稽ではないように、スワヒリ語のシューベルトもレプチャ語のイタリアオペラも、絶対に滑稽でもナンセンスでもないのである。「日本語のシューベルト」、「日本語のイタリアオペラ」、この二つさえ未だに市民権を与えられていないこの世紀末のニッポン列島、これはまさにアニマルランド(動物の国)以外の何物でもないではないか?
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屈原と人麿の二人がともに「水死」を遂げたことは間違いない。シューベルトはどうか?最新の研究によると、かれは、これまで伝えられて来たように「性病の末期」で死んだのではなくて、その治療のために使われた「水銀の中毒」によって「非業の死」を遂げたのであった。「水」と「水銀」とは化学的には異なる物質であるが、漢字の一部が共通なだけではなくて、ヨーロッパの言語でもコトバの一部は共通している。英語のマーキュリー、、フランス語のメルキュール(水銀)はともに水星のことでもあり、ドイツ語のQuecksilber(水銀)は、「生きて動く銀」という意味で、「生命の源」である水のように、生きて活動する銀である。英語マーキュリー、フランス語メルキュールの語源は、ともにローマ神話の「盗みと商売の神・メルクリウス」、すなわちギリシャ神話のヘルメスに相当する神の名から来ている。ということは、流体ないし液体のように自由自在に活動する存在(わかりやすく言うと「ウナギのようにつかまえどころのない存在」))として考えられているのだ。経済用語で言うなら「流通を支配する神」ということである。シューベルトの時代には、性病の治療法としては「水銀軟膏の塗布」」というのが唯一の方法だったので、かれもその犠牲者、つまり「医原病」の餌食となって非業の死を遂げたのである。「水死」と一字ちがう「水銀」の中毒死であった。
さらに加えて、シューベルトには未踏の傑作「美しい水車場の娘」の最後を飾る「小川の子守歌」があって、このヒーローである若者の死こそまさに、屈原と人麿とに共通する死にざま、すなわち「水死=入水自殺」なのである。あえて言うなら、三人はともに「水の精」としての母なる大地の懐に帰ってはじめて、永遠に生きる存在になったのである。中国の「易経」には、女性ないし母性原理としての「坤(コン)」の「卦(カ)」として、「至れるかな坤元、万物資(と)りて生ず」と言ってある。いわば「水」という母の膝で永遠に憩うことによって、はじめて真のやすらぎに浸ることができたのである。
 ・「
母なる大地」(D788)。

ここで、東洋のもっとも神秘的な思想家として、老子の言葉を挙げてみたい。その「道徳経第8章」にはこういう一節がある。

「上善は水のごとし、水は万物を利して争わず、衆人の悪む処に處る。故に道に幾し」。

現代語
「最高の善とは水のようなものだ。水はあらゆるものの利益となって、けして争わず、みんなが嫌がるところにとどまって、動こうとしない。だから水は宇宙の根本にもっとも近い存在なのだ」。
 

・「水の上で歌う」(D774)。
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「屈原・人麿とシューベルト」、これはどちらも私個人の愛着というか敬愛の対象であるということを離れて、「人」としても「芸術家」としてもその本質においてまさに共通の運命を担っているというほかないものであって、一見してそう思われるような、私個人の趣味による恣意的な取合わせではない、と確信している。まず「人麿とシューベルト」であるが、これはもう数年も前から「ロザムンデの音楽」と「万葉集」の物語とを組み合わせた音楽ドラマとして、私家版の台本が完成している。これがそもそも一つの構想として私の中に胚胎したのは、この私自身が「流竄と窮死」の危機、つまり「ホームレスの一歩手前」のような状態で放浪生活を続けている途中で、三冊の本と巡り合ったことと、それから、はからずもこの国の二番目の皇子の婚約が成立したというニュースを突然耳にした、、という二つのことがきっかけとなったのである。この三冊の本というのは、梅原猛氏の「水底の歌」(1971年刊)、篠原央憲氏の「柿本人麻呂の謎」(1980年刊)、そして石原秀晃氏の「秘恋の歌聖・柿本人麿」(1988年刊)である。むろんこのうちの二冊は、それぞれの初版が出てから何年も経ってからはじめて私の目に触れたわけであるが、梅原氏の「人麿の流竄刑死説」、篠原氏の「『あめつちことば』と『いろはうた』は人麻呂の残した暗号である」という説、そして石原氏の「人麿と持統女帝とは実は秘密の恋人同士だった」という画期的な新説、この三者とシューベルトの「幻の楽劇・ロザムンデ」とが合体して、私の「楽劇万葉集・ロザムンデ」が生まれたのであった。これは、二度ほど「コンサート形式」で上演した後、奈良県橿原市の主催する「藤原京創都千三百年記念祭」(1994年)に、古都の跡地で公演する予定で準備していたのだが、大震災その他によって中止のやむなきに至ったものである。要するに、未だに日の目を見ない作品であるが、「やろうとしていたことや、準備していたことは、実際に実現したことと同様に重要である」、というブルックハルトの名言が真理であるなら、ここに記すことはけして無意味なことではないと思う。今後の私の夢と希望としては、ヒロインである「王妃サーラ」、歴史上の人物としては「持統帝」とおくりなされる「ウノノサララ(鵜野讃良645〜702)」の千三百年忌にあたる、紀元2002年には公演を実現できるのではないかと期待している。そしてさらに、ヒーローである人麿の千三百年忌にあたる2008年には、この作品のドイツ語版を、ウィーンで上演して「逆輸出」することまでを考えている。これを「幻想」とか「誇大妄想」とか、言いたい人には自由に言わせておけばよい。般若心経によれば、「色即是空・空即是色(現実は幻想で幻想こそが現実)」なのであるから。

→「ロザムンデ・ア・ラ・万葉集」を参照。

ではここで、この作品の中で使われる二つの曲を聞いて頂きたい。最初は「陽は沈む」であるが、これはシューベルトの「幻の楽劇・ロザムンデ」(ヘルミーナ・フォン・シェジー台本)の音楽のうち「バレエ音楽第1番」の末尾、管弦楽によって演奏される絶妙なメロディーに、私が勝手に歌詞をつけたもので、はじめて歌ったある女優が、「演歌みたいですね」」という感想をもらしたイワク付きのシロモノである。じっさいこれは演歌としてカラオケに入っていてもおかしくない作品であるが、不幸にして未だに「カラオケ大全集」に登録される栄に浴していないのである。 

・「陽は沈む」(D797ー2)

次は「クロンナン」であるが、これはアイルランドの伝説的な詩人・オシアンの詩を作曲したもので、原詩の主人公(ヒーロー・ヒロイン)は「シルリクとビンベーラ」という。これを私は「女帝と人麿」」の二人の「霊」が、この列島の沈没を願って歌う「愛と死による呪いの二重唱」に変えたのである。前後の部分をドラマの朗読として聞いて頂いてから、この「愛と死の二重唱」をフィナーレとして味わって頂きたい。          

・「クロンナン」(D282)              
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さて今度は「屈原」の出番であるが、この中国文化を代表する大詩人の作品を、シューベルトのどの曲と結び付けるべきか、正直に言ってまだ迷っている。私が「楚辞」をはじめて読んだのは数十年の昔だが、同じ中国でも北と南とでこれほど芸術的感覚が違うものだ、、ということをつくづく実感したものである。戦国時代末期に秦によって統一される以前に、南中国は「楚」という国によって代表される一帯であったが、ヨーロッパの学者によると、この「楚」の住民は漢民族とはちがう人種ではないか、といわれている。揚子江の南、つまり江南地方は屈原が都を追放されてさまよった地帯だが、ここにいた民族もまた漢民族とはちがう人種であったことはまちがいない。人麿が(人によっては「日本建国の父」とさえ称える)マキアベリストの政治家・藤原不比等によって都を追われ、最後は石見国の鴨山で最後を遂げたとするなら、屈原は楚の都・郢(湖北省江陵県にあった)を政敵によって追放され、最後は汨羅という川に身を投げて死ぬのだが、、どちらのケースも悲劇のヒーローの典型として、はるか後の世代まで語り継がれ歌い継がれて終わることがない。以前ご紹介したように、唐の詩人・李太白は、「屈平の詩賦は日月に懸かり、楚王の台謝は空しく山丘」(屈原の残した詩は太陽や月と同じように輝いているが、かれを追放して野垂れ死にさせた楚の王さまの墓は、ただの山や丘に変わって跡形もない)、と歌っているが、はるか後の時代のこの列島で「昭和維新(いわゆる2・26事件)」を断行しようとした「皇道派の青年将校」たちは、「汨羅の淵に波騒ぐ」という歌詞ではじまる「青年ニッポンの歌」というのを口づさんでいた、という。これこそ屈原の「怨霊」でなくて何だろう。現代の中国でもかれは「愛国の詩人・政治家」として崇拝されており、その遺跡は保存され銅像も立っているそうだ。秦の支配に対抗して楚の国の独立を守ろうとしたかれのポリシーが、時の権力者に受け入れられなかったために失脚した、というのが正史の伝えるところであるが、それだけだったらかれは何も「神」として祭られることはなかっただろう。かれの残した詩が万代ののちまで伝えられるに値する傑作だからこそ、かれはその死後二千年以上経った現在も神のように崇拝されているのである。人麿が生前に受けていた官位は「従四位下」であり、役職としては「中宮大夫」または「春宮大夫」であったろう、といわれているが、屈原は「三閭大夫」として知られている。政治家としてのかれがどれほどの手腕を発揮したか、またどれだけの支持者を得ていたかというようなことは、人麿の場合と同様、はっきりしたことは不明な部分が多い。学者によっては、かれの政治家としての活動や功績をあまり高く評価しない立場に立つ人さえあるくらいである。しかし、人麿の作品が「万葉集」の中に厳然と残っているように、屈原の作品も「楚辞」の中に不滅の輝きを放っているのだから、かれが政治家としては失敗者であり、「現実」の世界では敗残者であったとしても、それはかれの名誉にはいささかも影響を及ぼすことがないのである。
最初に聞いて頂くことにしたのは、マイルホーファーの詩による「すすんで沈む(Freiwilliges Versinken)」という曲で、これは何十年かまえにこの国の辻壮兵衛という人(どこの馬の骨かわからないが、「音楽の友」社の「世界大音楽家全集」のシューベルトの解説を担当している)が、原題のドイツ語を初歩的な滑稽な誤りによって、「沈める志願兵」としたのを見た記憶がある、。少なくともこの歌には「兵」などはどこにも出て来ないのであって、これは太陽の神・ヘリオスが自分の意志で「すすんで沈んで行く」勇姿を歌った堂々たるリードなのである。。私にとっては世界文化史上最大の芸術家としての、この三人の霊に捧げるのに実にふさわしい曲としてここに選んだものである。
人麿には有名な次の歌がある。
「あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」 

・「すすんで沈む」(D700)
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ではここでいよいよ屈原の残した世界に冠たる名詩を、原文のまま紹介することにしよう。
。原文のまま
「東皇太一。
 吉日兮辰良 穆将愉兮上皇。撫長剣兮玉珥、樛鏘鳴兮琳琅。瑤席兮玉真、盖将把兮瓊芳 、薫肴蒸兮蘭籍、奠桂酒兮椒漿。揚枹兮拊鼓、疏緩節兮安歌、陳竿瑟兮浩倡、霊偃蹇兮 好服、芳菲菲兮滿堂、五音紛兮繁會、君欣欣兮楽康」。
 伝来の漢文体の訳
 「東皇太一(トウコウタイイツ)。
 吉日の辰良(キチジツのシンリョウ)、穆(ツツシ)みて将(マサ)に上皇を愉(タノシマ)しめんとす。長剣の玉珥(ギョクジ)を撫(ブ)すれば、樛鏘(キュウソウ)として琳琅(リンロウ)鳴る。瑤席(ヨウセキ)には玉真(ギョクチン)あり、瓊芳(カホウ)を盖(アワ)せ将(モ)ち把(ト)る。薫肴(クンコウ)を蘭籍(ランシャ)に蒸(スス)め、桂酒(ケイシュ)と椒漿(ショウショウ)とを奠(ソナ)える。枹(フウ)を揚(ア)げて鼓(ツヅミ)を拊(ウ)ち、疏緩(ソカン)なる節(フシ)を安らかに歌う。竿(カン)と瑟(シツ)とを陳(ツラ)ねて浩倡(コウショウ)すれば、霊は偃蹇(エンケン)として好服(コウフク)し、芳は菲菲(ヒヒ)として堂に満ち、五音は紛として繁く會し、君は欣欣(キンキン)として楽(ガク)に康(ヤス)んず」。 

現代語訳
 「東皇太一(トウコウタイイツ)さま。今日のよい日によい時を選び、私たちは身を清めてつつましく、天の神さまに鳴り物のお供えをして、愉快に遊んで頂きたいと思います。長い剣(つるぎ)の鍔(つば)に通した飾り玉を、手で掻き鳴らして奏でると、カランコロンと帯玉が鳴ります。玉座の前の祭壇には、水晶の球(たま)が安置してあり、全員色とりどりの花を手に持って、歌い踊り舞いを舞います。桂の枝を浸したお酒、 香りのよい草を浸したおかゆ、これをお供(そな)えとして祭壇に捧げます。撥(バチ)を振り上げて太鼓を打ち鳴らし、はじめはゆるやかなメロディーをソフトに歌い上げます。三十六孔の笙の笛と二十五弦の琴を並べて合奏し、歌い手が大きな声で高らかに歌を歌うと、神さまの霊がつられて姿を現わし、おいしそうにお供えを召し上がりながら、にこにこと微笑んでいらっしゃる。よい香りがホール一杯にひろがり、五つの和音が複雑に絡まりあって絶妙なハーモニーを形成して、それを聞くあなたは、思わず知らず音楽三昧の境地に達して、喜びの声を上げ始めます」。
明治の文豪・夏目漱石の処女作「我が輩は猫である」の中に、この詩の一節が出て来て、確か寒月君という登場人物がバイオリンを山の上で弾いた時に、その形容として、作者の分身の一人が「琳琅樛鏘として鳴るじゃないか!」と叫ぶ場面があった。楚辞の原文に照らして見ると、、これはバイオリンの音色よりもマリンバとかハープとか、あるいはグロッケンシュピールというような、打楽器か撥弦楽器にふさわしい音のように思う。そこでこの詩に寄せる曲として、「憂愁(Wehmut)」というリードを選んでみた。これはザリス=ゼービスという人の詩に作曲されたもので、シューベルトらしさが音の末まで漂っている名曲である。 

・「憂愁」(D404)
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それでは最後に、かれシューベルトが「今まで僕の作った曲の中で一番よく出来た」と明言している傑作をご紹介しよう。マイルホーファーの詩による「孤独」である。410小節からなる長大な哲学的リードだが、これこそ屈原と人麿の霊に捧げるに最もふさわしい曲だ、と確信をもっておすすめする。                        

・「孤独(Einsamkeit)」(D620)。
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ある禅僧によれば、古来「色訳」というものがあって、原文を自分自身、われとわが身に引き寄せて訳すことだ、という。以下にご紹介するのは、私自身がはるか昔にわれとわが身に引き寄せて訳した「楚辞」の一節である。原文は繁雑になるので省略する。

「どうにも鬱憤の晴らしようがないので、なにもかもそっくりブチまけて、私の本心を語ろう。いい加減な気持ちで口に出しているかどうか、天の神さまに裁きをつけてもらうから・・・。まことを尽くして君に訴えたつもりなのに、かえって嫌われてノケモノにされてしまった。うわべを取り繕ったりキレイ事をならべたりしなかったから、みんなに背く悪者にされてしまった。聡明な君だけは分かってくれると信じて・・・。言葉と行動とは切り離せないし、心と外見とは分けることができないのだ。だから上に立つ者は、下の者のことを一番よく理解しているはずで、その何よりの証拠が、君と私のケースなのだと信じていた・・・。自分よりも君のことを真っ先に考える、それが当然の道だと思っていた。ああ、それがみんなに憎まれる原因だったのだ。君だけを思って他人を無視した。それがあらゆる人を敵にまわす結果を招いたのだ・・・。ただひたすらこの思いだけに専念して、ほかを顧みる余裕がなかった。ああ、それでは長続きするはずもなかったのだ。君に親しむことだけに努めてほかのことは考えなかった。これは災いを招く近道以外の何物でもない・・・。君を思っている点では、私以上の人間は誰一人いない。だからうっかり自分の賤しく貧しい身分も忘れて、君の役に立つことだけがすべてだと思い込んで、あげくは君自身にまで嫌われる結果になってしまった・・・。君に忠実な片腕だということが、なぜ罰を受ける原因なのだろう?まったく思いもかけな いことだった。私のやり方は、たしかに他の有象無象たちとはちがっている。これもまた無数の人に嘲笑われる所以(ゆえん)であった・・・。突如ひどい目に遭い悪口を言われ、言い訳をする方法さえない。この思いを外へ向けることすら出来ず、君には届かず、その上あらゆる妨害に遇って明らかにするすべがないのだ・・・。心はふさがりニッチもサッチも行かない。その上私の苦しみの実際を分かってくれる人さえいないのだ。 。このまま愚痴を言い続けても、手紙にして送るような内容にはならない。私の言い分を公式に述べようと思っても、その手段がないのだ・・・。このまま黙って引き籠もっても、私のことを分かってくれる人はいない。すすんで出て行って大声で叫んでも、私の話を聞いてくれる人などいない。失意のまま思い煩い、心のうちは悶々としたまま、 毎日を送るしかないのだ・・・。昔天に昇る夢を見たことがあって、途中まで行ったら 梯子がなくなってしまった。さまよう霊にこの夢を占わせたら、どんなに志が高くても、助ける者がいなければ実現することはできない、と言われた・・・。ついに危ない目に遇うこととなり、一人都を離れて異境に身をおく破目になってしまった。君を思うのは勝手だが、頼りにすることはできないものだよ、と人々は言う。昔から人の噂には金を溶かす力がある、というが、その通り私もこんな危機に陥ることになってしまった・・・。あつものに懲りてなますを吹く人さえいるのに、どうしてこの性分は変わらないのだろう。梯子もないのに天に昇ろうとするなんて、よほど懲りない人間に生れついているのだな・・・。昔よく、真面目にやり過ぎると怨まれるよ、と言われたが、その時はまさかと思っていた。九回も肘を折ってはじめて医者になれる、という。私は今になってその通りだと知ったよ・・・。木蘭のようなよい香りの草をすりつぶして、さらに香料を混ぜ、申椒のような香ばしい草をしらげて主食にする。ハーブや菊を植えて育て、春が来たらむすびにして食べる。これが私の隠遁生活の理想だ・・・。これでもまだ私の心情が分かってもらえないのか。それならこの詩の一編をもう一度繰り返して、まごころを明らかに示そう。私の愛情のありったけを掲げて、一人遠い異郷に住み、君をますます強く思いながら、静かに一人暮らしを続けよう」(「楚辞・九章」より)。

読者はこれを読んでどう思うだろうか?主君に見捨てられた家来が泣きごとを並べている文章だろうか?それとも最愛の恋人に振られた人間が、未練にかられて書いたラブレターだろうか?どちらだと仮定しても、ともに無理のない内容である。中国では古来一貫して前者だという解釈が行われて来た。しかし、昔私が一読した直感では、どうも後者ではないか、という疑いが頭を離れなかったのである。だから私は自分自身の手記として訳す時には、最愛のかの女にそっと伝えるラブレターとして「色訳」することにしたのだった。人麿のケースにあてはめると、もしかれが「追放」されて流竄の身になる前に女帝にあててそっと思いを伝えようとしたら、きっとこういう文章を書いたにちがいない。「主君」とはかの女以外になかったからである。「君」は恋人であると同時に「主君」でもあったからである。だから、もし屈原にこういうかの女がいたとしたら、どちらにでも解釈できるこの詩を残したとしても、何の不思議もない。強いて名をあげるとすれば、楚の懐王の王妃であった「幸姫」という女性が考えられる。千年後に天武帝の皇后であった「ウノノサララ」と、立場も運命も何から何までそっくりなのだ。
さて、それではシューベルトにとって、こういう女性が一人でもあっただろうか?ただ一人考えられるとすれば、それはカロリーネ・エステルハーチーである。R・ウィードルという人の「シューベルトの恋」という小説によると、この伯爵令嬢は死ぬまでシューベルトを敬愛していた、という。して見ると昔の名画「未完成交響楽」に描かれている話(恋物語)は、けして無根拠な想像ではなかったことになる。シューベルトは「都を追放」されたわけではないから、同じウィーンに死ぬまで住み続けたまま、かの女をずっと慕っていたとしても、それは不思議ではない。そしてかの女もまた同じウイーンに邸宅を構えていた。シューベルトが伯爵家の家庭教師という任務を解かれたあとは、恐らく公式にかの女と会うことは許されなかっただろう。しかしかれは、「Karolinentor(カロリーネ門)」」という場所に、故意か偶然かかなりの期間にわたって住んでいたのである。ここで突然古い流行歌の一節を引用するが、「五番街は近いけれど、とても遠いところ、今がとても幸せなら、寄らずにほしい。悪いけれどそんな思い察してほしい」、といういかにも舌足らずでシャイな歌詞がある。私が飲み屋で歌うことを強要されると、この「五番街」」という所を適当な地名に変えて歌う習慣なのだが、「カロリーネ門」という「近くて遠い場所」を往来するたびに、シューベルトはきっとこんな気持ちでいたのではないだろうか?USAの学者・ソロモンの唱えた「シューベルト・ホモ説」よりも、私はこの説の方にどうしても惹かれるのである。そこで、かれの作品の中でこういう気持ちを表わす曲を一曲選ぶとすれば、それは「冬の旅」の中の「あふれる涙(Wasserflut)」である。 

・「あふれる涙(Wasserflut)}(D911ー6)。              

*むすび    

シューベルトの「怨霊」という言葉でこの講演をしめくくるとすれば、エステルハーチーというハンガリーの名家がその後たどった運命を考えてみるがいい。カロリーネとシューベルトの仲を引き裂いた両親をはじめ、兄弟姉妹のすべてが三十年もしないうちにすべて死に絶えてしまったのである。子孫を一切残さないで。人麿を追放した藤原不比等の子孫は、人麿の死後五十年もしないうちに次々と死んで行った。藤原氏というと、今日でも富み栄えているように思われるかも知れないが、その命脈が保たれているのは、すべて名ばかりと言っても過言ではないのである。全国の至るところに「藤原姓」が生き残っているということは、けして不比等との血のつながりを立証するものではないのだ。この私の祖先すら「藤原朝臣」という墓を残しているのである。かれ不比等の直系の子孫はそのたびに「怨霊」」の祟りにおびえて、祖先の手で抹殺された人麿や道真や崇徳院の霊をその都度祭って、かれらの「怨霊」の祟りを避けるしかなかったのだ。ウィードルの「シューベルトの恋」には、エステルハーチー母娘の次のようなやりとりがある。
母「あんな貧乏な音楽家のことは早く忘れて、いい所へお嫁に行きなさい。あなたは何たってエステルハーチー家の令嬢なんですからね」。
娘「エステルハーチー、エステルハーチー、それが何だっていうの?もしもシューベルトがいなかったら、こんな一家があったってことなんか、百年もしないうちに誰も知らなくなってしまうわ!」。
すべてはこの娘・カロリーネのいう通りになった。まさにシューベルトの「怨霊」の勝利である。
「屈原=人麿=シューベルト」、この等式がたとえ私の頭の中の「幻想」であって、すべてが「夢の中のまた夢」であったとしても、これまでに語って来たことがムダだったとはけっして思わない。なぜなら「現実は幻想であり、幻想こそが現実(ルーパム・シューニャター・シューニャタイバ・ルーパーム)」なのだから・・・。
では今夜のほんとうの締めくくりとして、比較的ポピユラーなシューベルトの小品を捧げようと思う。それは「羊飼いの嘆きの歌」であるが、屈原のもっともポピユラーな代表作「離騒」の最後を飾る詩とともに味わって頂きたい。

「僕夫悲余馬懐兮 蜷曲顧不行 亂曰 已矣哉國無人兮 莫我知兮 又何懐乎古都 既莫 足與為美政兮 吾将従彭咸之所居」。

「僕夫(ボクフ)は悲しみ、わが馬は懐(おも)い、蜷曲(ケンキョク)として顧(かえりみ)て行かず。亂(ラン)に曰く、やんぬるかな、国に人なく、我を知るなし。また何ぞ古都を思わん。すでに與(とも)に美政を為すに足るなし。吾まさに彭咸の居る所に従わん」。

「馬子までが悲しんで立ちすくみ、私の乗った馬は故郷を思って、何度も後ろを振り返ってなかなか進もうとしない。(ここからはラプソディーになる)、ああもうダメだ。国にはだれも私を理解してくれる人物はいない。今さら故郷の古い都など懐かしんでも、何の意味もなくなった。もはやともに政治に携わるような人間もいないのだから。私は 殷の忠臣で河に身を投げた彭咸(ホウカン)、あの悲劇の主人公と同じ運命をたどるしかないだろう」。         

・「羊飼いの嘆きの歌(Schaefers Klagelied)」(D121)。

   ーFinis et Fineー
    
コ レ デ オ シ マ イ








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