綾 の 鼓 ま た は 恋 の 物 狂 い
     ー ー シ ュ ー ベ ル ト と 妄 執 の 世 界 ー ー
              v.Y・C・M
 前回は「シューベルトの怨霊」というタイトルで、かれの音楽の「魔性」を取り上げたが、これに引き続き今回は、かれの音楽によって余す所なく繰り広げられる「妄執の世界」」を取り上げて語りたい、と思う。
この列島の優れた文化人であって「余執・妄執を残しつつ死んだ五人」に代わって、今回登場するのはたった一人であるが、この列島の中世が生んだ最も偉大な「綜合芸術家」である一人の人物に焦点を当てて、ハナシを進めたい。かれの名は世阿弥元清(1363〜1443)という。一般に「能楽の大成者」として歴史に残るこの人物と、われらがシューベルトとの関わりは、梅原猛氏の著書にはからずも以下の記述を発見したことから発生したものである。
「かくて、妄執の霊に、そのもっとも内的なおどりをおどらすことにより、世阿弥はこの妄執の霊のカタルシスを行なっているかに見える。妄執の霊に思い切った乱舞を許すこと、、それによって、妄執の霊はなぐさめられ、わが魂の内面に巣くう妄執の霊たちもなぐさめられるのではないだろうか。このような劇を、もとより、人間の劇とよぶことはできない。それは、おどろくべき非人間の劇である。人間、完全な意味の人間は、そこには登場しないのである。こういう超人間的特質とともに、その劇が現実主義的な劇ではないことは、もはや明らかであろう。そこでは、多く死者が主人公なのである。それは現実が夢幻の、生が死の視点から眺められているのである。世阿弥は、死の眼というべき奇妙な眼をもった人生観察者であったように思われる。かれは、人間の生を、死という空間の中で見た。死という永遠の沈黙の空間にとじこめるとき、人間の生はいかなる相貌をおびるか。そのとき人間の生は、いくらかの妄執の魂に見えたのだ。なんと多くの人間が満たされぬ妄執に苦しめられていることか。ある男は、修羅の巷をさまよい、ある女は愛情の妄想にとりつかれ、ある老人はしがない人生の嘆きをなげく。どれもこれも、救われない魂のあつまりではないか。世阿弥は、死の相のもとに、一切の生きとし生けるものを見た。そのとき、生きとし生けるものは、苦悩の言葉を語ったのである。生とは、かれにとって、妄執の煩悩に苦しめられるひとときの幻想にほかならなかった。かれは、このひとときの幻想に悩まされる人間どもの魂の代弁者となった。闇の中で聞いたさまざまな叫び声を、かれは霊どもにかわって歌い舞った。私は世阿弥のなかに魂の魔術師を感じる。かれほど人間の魂の底にある闇の衝動の諸相に通じていた人はあるまい。人間の魂の底にはさまざまな暗い霊が住んでいる。その暗い霊どもの語る言葉や身ぶりのすみずみまで、世阿弥は知りつくしている。そして世阿弥により、こうした不幸な霊たちは、じつに雄弁に秘められた言葉を語り、じつに美しくこの暗いおどりをおどるのである」(「地獄の思想」・昭和四十二年刊より)。                               

一読して、「これこそまさにシューベルトその人に当てはまる表現以外のなにものでもない」、と直感した私は、いつかこのことをシューベルトの作品を分析する機会に発表しようと考えて、長年の間構想を暖めていたのである。むろん私は「能」にも「謡い」にもあまり詳しくない人間で、現に世阿弥の作品の上演されたものを直接舞台で見たことすらない、まったくの門外漢である。にもかかわらず、「人麿とシューベルト」、さらに「屈原とシューベルト」という等式を創造した余勢を駆って、今ここにまた「世阿弥とシューベルト」という等式を付け加えることになったのは、この梅原氏の文章に触発されて、時と所の別を乗り越えて、偉大な芸術家の本質に肉薄する大きな手掛かりを見出だしたからなのである。「死の相のもとに一切の生きとし生けるものを見る」。これこそシューベルトの音楽を一言で形容した言葉としても、まことに適切な表現ではないか。「偉大な芸術家はつねに死の問題と対決した」、とアインシュタインはいう。世阿弥も、そしてもちろんシューベルトも、つねに死の問題を生涯のテーマとして追求している。二人の“生涯”、つまり実人生の長さを比較すると、ほぼ正確に五十年の開きがある。シューベルトが31年しか生きなかったのに対して、世阿弥の生涯は81年の長きにわたっている。しかし、「死の相のもとに一切の生きとし生けるものを見た」、という一点において二人には何の相異もないのだ。
「死とは何か」、ということを哲学的に、あるいは宗教的に追究することは本稿の目的ではない。ここで追究したいのは、この二人の偉大な芸術家が、このテーマを追求した結果、、それがいかなる作品となって結実したか、ということである。梅原氏が「地獄の思想」の中で取り上げているのは、数十に及ぶ世阿弥の「能狂言」、すなわち偉大な「綜合芸術の舞台作品」のうち、「蝉丸」と「綾の鼓または恋の物狂い」というたった二作であるが、、ここではとくにその後者を取り上げて見ることにする。
「ここにおいて、きわめて奇妙な個性をもった人間が日本文学に登場してきたといっていい。価値の反逆者という人間、マイナスの価値を徹底することによって、かえって現存する価値の最大の批判者であるような人間、こういう不気味な人間が、世阿弥によって、初めて文学の主人公となったのである。これ以外にも、世阿弥には、狂人の、あるいはにせ狂人の劇が多い。そして、狂人は、ほとんど、あまりにも純潔すぎる魂の持ち主である。あまりにも純潔すぎる魂ゆえに、かれらは狂人となったのである。この純粋さの過剰のために狂人となった非人間に、純粋さの不足のために狂人にならなかった常人を対立させることにより、かえって正気な世俗的な人間のもっているズルサが暴露され、世界のウソが断罪されるのである」(「地獄の思想」より)。
この、史上無数の狂気の闇に消えた天才という名の“不気味な人間たち”に共通な性格を形容した言葉は、当然シューベルトその人にも当てはまる。むろんかれの死は「狂気の果て」ではなかったが、かれの代表作「冬の旅」の最後を飾る「門づけのオルガン弾き(Leierman)」を評して、アインシュタインはいみじくも「狂気の境目に佇む意識」、と形容しているのだ。かれもまた「狂人と紙一重の天才」であったことは間違いない。    

これから取り上げようとする「綾の鼓または恋の物狂い」という作品は、原作そのものをそのまま披露するという形ではなく、梅原氏の簡にして要を得たストーリーの要約を手掛かりにしつつ、題材になっているテーマを、広く人間一般の問題として考察するという形で追究したい、と思う。この作品のテーマを、梅原氏は「老人の邪恋」という非情なコトバで言い表わしているが、私の言葉というか、現代のホットな問題をも含む言い方に直せば、これは「老いたるストーカー」の物語にほかならない。粗筋はこうである。
「昔ある国の王さまの宮殿で、庭を掃除する役目をしている老人がいた。かれは、宮殿に仕える一人の若く美しい女官の姿を一目見て、たちまち恋のとりこになってしまった。かれが恋い慕っていることを伝え聞いたその女官は、たとえ身分は違い年が違っても、恋に上下はない。あなたの心に嘘偽りのないことを証明してくれたら、一夜の契りを結んであげてもいい、と言い、宮殿の池のほとりに生えている桂の木の枝に鼓をかけて、この鼓が鳴って、その音が王さまの部屋まで響いたら、あなたの望みどおりになりましょう、と約束した。老人はそれを聞いて、たちまち一心不乱に鼓を打ち始めた。しかし、どんなに必死で打ち続けても鼓はけっして音を鳴らすことはなかった。なぜなら、それは女官の衣装の綾で包んだ鼓だったからである。しかし、かれはそんなことは無視して、来る日も来る日も鼓を打ち続けた。雨の日も風の日も休みなく、渾身の力をこめて・・・。ある日ついにかれは力尽き絶望して、池に身を投げて死んでしまった。老人が死んだことを聞いた女官は、、初めは“あら可哀相に”と言っただけだった。ところがしばらくすると、突然かの女は“池の中から鼓の音が聞こえて来る”、と言い始めた。この幻覚に悩まされて苦しむうちに、かの女は次第に精神に異常を来すようになり、毎日池の中へ吸い寄せられるように近付いては、あらぬことをわめき散らすのだった。するとある日のこと、ほんとうに池の中から老人の霊が悪鬼の姿となって現われ、かの女の後ろ髪をつかんで引きずり回し、、手にした笞でかの女を打って、“綾の鼓を打って見ろ!打って見ろ!”、と何度も繰り返し叫び続けた。かの女はその責め苦にたえかねて悲鳴を上げ続けるが、霊はけして許そうとしない。こうして老人の霊は、かの女を散々責め立てた末に大蛇の姿に変身し、紅蓮の炎を巻き起こして池を包んだかと思うと、“恨めしや、恨めしや”、と叫びながら姿を消して行ったのである」。
アメリカのある学者によると、「性差別(セクシズム)と人種差別(レイシズム)の二つが、20世紀までの人類の課題であったとすると、21世紀の人類が解決しなければならない課題は、健康差別(ヘルシズム)と年齢差別(エイジズム)の二つであろう」、という。この劇「綾の鼓」はまさに、このうちの「エイジズム(年齢差別)」の問題を真っ正面から取り上げている作品だ、と言うことができる。人口の比率からして、まもなく65才以上の老人の数は20才未満の人口を大幅に上回る、と予測されている。“老いてますます盛ん””、と言えば聞こえはいいが、捌け口を失った性欲をもてあます人たちが増える一方だとすると、われわれの世代としては他人ごとではすまされない大問題がここにある、と言わざるを得ない。老人の人口が増えるということは、「老いたるストーカー」の出現する確率もまた増大する、ということにほかならないからだ。これは何も男女を問わない。  さて、この世紀末の流行りのコトバ「ストーカー」であるが、英語の原義からすると「狩人が獲物を狙って抜き足で近付く」、という程度のことである。「狩人」というのは一つの職業であるが、たとえばシューベルトの歌に登場する狩人は、必ずしも動物だけを獲物にするばかりではなく、時にはというよりたいていは、人間、それも異性の人間を獲物にする存在なのである。その一つの例として、ここでゲーテの詩による「狩人の夕べの歌(Jaegers Abendlied)」という小品を聞いて頂こう。

*「狩人の夕べの歌」(D368)

この歌詞にある「月よりも遠い君」、これこそまさに「綾の鼓」の老主人公にとって若い女官の持っている意味そのものである。「年齢」という越えることのできない障壁、さらに「身分」という壁、これを乗り越えて相手を自分のものにする、ということは、かれにとって実に、「綾の鼓」の音を鳴らすことに匹敵する、至難の技というよりも一つの完全な不可能事なのである。狩人(ストーカー)にとっても、庭掃きの老人にとっても、かの女は「月よりも遠い存在」なのであった。たとえどんなに近くに住んでいても・・・。
この「月」よりも、否何万光年もかなたの遥かな星よりも遠いかの女が、万一、いや億一、自分を恋人として受け入れてくれたら・・・。このはかない希望だけを唯一の生き甲斐として、老人は絶望的な努力を続ける。この、傍から見れば滑稽な、しかし本人にとって見れば命がけの悲劇を象徴する曲が、シューベルトにもある。それは「ハープとの別れ(Abschied von der Harfe)」というリードで、鳴らない「鼓」ではなくて、鳴らない「ハープ」を歌った悲しい曲である。

*「ハープとの別れ」(D406)

かれがはかない恋に絶望して、池に身を投げて死ぬまでが「前場」だとすれば、かれの死を伝え聞いて、次第に精神に異常を来す女官と悪霊となった老人との、凄まじい格闘というかカラミを描いたのが「後場」である。「舞台」ではじっさいに「霊」が登場してかの女を責め苛むのだが、これをたとえば現代風のホラーとして描くとすれば、「霊」は他人には姿が見えない存在で、かの女が他人には見えない幻を相手に一人芝居の葛藤を演ずる、、というふうに演出することもできるであろう。いわば、かの女の心の中に潜在的に存在する「罪の意識」が、老人の「妄執」を悪鬼として現実化(レアリゼ)させ、物質化(マテリアリゼ)させるのである。この劇のストーリーが、現実にあったことを題材にしているかどうかは、必ずしも明らかではないが、もしも作者の現実に体験したことが、何らかの影を落としているとしたら、この「老ストーカー」は世阿弥自身の妄執の所産であり、標的となる女性は実際にいた女官の一人だったかも知れない。室町時代、将軍足利義満の寵愛をほしいままにしていたとはいえ、一介の「能役者」」であったかれにとって、宮廷に仕える女官といえば、やはり「手の届かぬ存在」であったことは容易に想像される。ましてそれが、仮に「皇族の女性」であったりしたら、より一層遠い存在であったに違いない。さらに、それが単に「身分の相違」だけではなく、「年齢の厚い壁」にも阻まれていたとしたら、かれの恋が成就する見込みは、限りなく0に近いものであったに違いないのである。そして、この限りなく0に近い可能性を、あたかもそれが必ずしも0ではないかのごとく、何かの機会に女は何気なく仄めかしたのではないだろうか。それがかれの妄執に、いわば火に油を注ぐ結果をもたらし、この悲劇の結末を導くこととなったのだろう。これは「老ストーカー」の悲劇であると同時に、ほんの出来心か遊び心から、この老人のはかない恋が報われるかも知れないという、偽りの希望を与えてしまった「標的」としてのかの女の悲劇でもある、という二重の悲劇性を余す所なく表現した名作なのだ。さらに言えば、これはけして室町時代という遠い昔の悲劇ではなくて、この現代にもいつでも起こり得る悲劇だ、ということを忘れないでほしい。私自身は残念ながら未経験だし、今後も経験する可能性はないと思うが、現代のテレビタレントにしろ、ニュースキャスターやスポーツ選手にしろ、いわゆる人気のある「有名人」だったら、いつでもどこにいても、相手がだれであれ、この「標的」としての悲劇の主人公になる可能性は非常に高いだろう。。いや、なにも「有名人」」ではなくても若い男女だったら、「ストーカー」の標的になる不安と恐怖を逃れることの出来ない人は無数にいるだろう。このような、現代にも充分に通ずる悲劇のクライマックスを、シューベルトの魔性を余す所なく語っている名曲とともに味わってもらいたい、と思う。

*「地獄から来た群衆(D583)

この曲についてアインシュタインは、次のように言っている。
「シラーの雄大な『地獄から来た群衆』において、テキストの反復は型通りでもなく、カンタービレでもなく、むしろ凄まじい内的な高揚である。それは朗唱法と和声法の点で、どんな同時代人も夢にも知らない超時代的な大胆さと力強さをもつリードである」。
これはけして大袈裟な賛辞ではない。これほどの迫力と破壊力のある曲は、20世紀の末になってもそう簡単には見つかるまい、と思うほどのものがあるのだ。世阿弥のこの劇をシューベルトの音楽によってドラマ化するとしたなら、「紅蓮大紅蓮の炎で池を包みながら大蛇に変身しつつ消えてゆく老主人公」という場面で、この曲をぜひ使いたいと思っている。もしも楽器で演奏するとすれば、次の「謡い」のセリフの現代語にかぶせてBGMとすることも可能である。仮にメロディーはチェロ、伴奏はピアノとしてみた。
原文
「現なきこそことわりなれ。綾の鼓は鳴るものか。鳴らぬを打てといひしことは。我がうつつなき始めなれと。夕波騒ぐ池の面に。なほうちそふる声ありて。池水の。藻屑となりし老いの波。又立ち帰る執心の恨み。恨みとも嘆きとも。いへばなかなかおろかなる。一念嗔恚の邪淫の恨み。晴れまじや晴れまじや心の雲水の。魔境の鬼と今ぞなる。小山田の苗代水は絶えずとも。心の池のいひははなさじとこそ思ひしに。などしもされば情けなく。。鳴らぬ鼓の声立てよとは。心を尽くし果てよとや。心づくしの木の間の月の。桂にかけたる綾の鼓。鳴るものか鳴らぬものか打ちて見たまへ。打てや打てと責め鼓。よせ拍子とうとう打ちたまへ打ちたまへとて。しもとを振り上げ責め奉れば。鼓は鳴らで悲しや悲しやと。叫びまします女御の御声。あらさてこりゃさてこりゃ。冥途の刹鬼あほう羅刹。冥途の刹鬼あほう羅刹の。呵責もかくやらんと。身を責め骨を砕く呵責の責めといふとも。これにはまさらじ恐ろしやさてなにと。なるべき因果ぞや。因果歴然は目のあたり。知られたり白波の池の。ほとりの桂木にかけし鼓の時もわかず。うち弱り心つきて。池水に身を投げて。波の藻屑と沈みし身の。程もなく死霊となって。女御に憑き崇って。しもとも波も。打ち叩く池の水のとうとうは。風わたり雨落ちて。紅蓮大紅蓮となって。身の毛もよだつ波の上に。鯉魚が躍る悪蛇となって。まことに冥途の鬼といふともかくやと思ひ白波の。あら恨めしや恨めしや。あら恨めしや。恨めしの女御やとて。恋の淵にぞ。入りにける」。
現代語訳
「頭の中が真っ白になって、現実と幻想の区別がつかなくなった、というのか?そうなるのも当然だ。綾でくるんだ鼓が鳴るわけがない。それを鳴らして見せろと言ったのは、ほかでもない君自身ではないか?だから私は夢中になってわれを忘れてしまったのだ。夕方の波がざわめく池の表に、まるで通奏低音のように、悲痛な叫びを添えるほかに、どうすることができるだろう?池の藻屑となって消えた老人が、また姿を現わして恨みを述べるのは、いわば当然の成り行きなのだ。恨んでも恨んでも、嘆いても嘆いても、君に焦がれる情熱の炎を、どうすることもできはしない。怒りと憎しみの塊となって、燃え尽きるまで一念を貫き通すほかはない。この心はもはや永久に晴れることはないだろう。今や執念の鬼となった私は、悪魔の世界に身を置いて、永遠の恨みを歌い続けるのだ。小さな山の田んぼの苗床を、潤す水は尽きないが、君が心をこめて口にした言葉は、よもや出任せではないだろうと、信じていたのにどうだろう。鳴らない鼓を鳴らせと言って、無駄な努力を強いたのは、オレを死なせることが目的だったのか?なんとつれない女なのだ、君は。必死の努力の甲斐もなく、木の間を洩れる月の光に、照らし出される桂の木。その木にかけた綾の鼓を、今度は君が鳴らす番だ!鳴るものか鳴らないものか、さあ打って打って打ち続けろ!死ぬまで打って打ち続けろ!男の心をもてあそんだ、今こそ報いを受けるがいい。・・・勢いに乗った老人の霊は、片手に竹の笞(ムチ)を振り上げて、髪をつかんで引き回し、さあ打って見ろ、打って見ろ、とかの女を散々に責め苛んだ。かの女は悲鳴を上げながら、打って打って打ち続けたが、綾の鼓が鳴るはずもない。ああ、もう許して下さいと、あわれな声が涸れるまで、叫び続けるほかはなかった。この凄まじい復讐は、地獄の鬼が亡者どもを、責め苛む光景に、まさるとも劣らぬものであった。地獄の鬼は罪人の皮を剥ぎ肉を削り、骨が砕けるまで鉄棒で打ち据えるというが、今この執念に燃えた老人の霊は、これにもまさる残酷劇を演じ続けて飽くことがなかったのである。かの女がこれほどまでの責め苦を受けるのも、自分自身に責任があるからだ。因果の法則には誤りがない。この報いが何よりの証拠ではないか。ほんの軽はずみの一言が、この老人を狂わせて、死ぬまで鼓を打ち続けた結果、桂の木の生える池の水に身を投げるという、悲劇を招いてしまったのだから。死人の霊は笞を手にしたまま、折からの雨や風を利用して、池のまわりに紅蓮大紅蓮の炎を巻き起こし、身の毛もよだつ波の上で、鯉のように身を躍らせて、たちまち大きな毒蛇に変身したかと思うと、恨めしや、恨めしや、恨み重なる女官め!、と叫びながら、恋の地獄の底へ消えて行ったのである」。             

ひるがえってシューベルトの31年という生涯を考えて見ると、このような「ストーカーの標的」になるような相手が、一人でもいたとはとても思えない。また、かれの描く「老人」」の映像にしても、一見した所はどうしても、この「執念の鬼」とはほど遠いものがある。。たとえばゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」に登場する「竪琴弾きの歌(Gesaenge des Harfners)」にしても、あるいはリュッケルトの詩による「老人の歌(Greisengesang)」にしろ、どうしても「執念の鬼と化した老ストーカー」のイメージにはほど遠い。「冬の旅」のクライマックスを飾る「門づけのオルガン弾き(Leierman)」でも、歌詞を見るかぎりけっして、「恨みと妄執の炎に燃え上がった悪鬼」ではないように見える。しかし、ほんとうにそうなのだろうか?まず「竪琴弾きの歌その3」(D478ー3)から聞いてみて頂こう。

*「竪琴弾きの歌3」。

この物乞いを生業にする老人は、最近の気鋭の評論家のコトバに倣って言えば、「終りなき日常を生き」ている、いかにもありふれた存在であるように見える。しかし、ゲーテの原作によれば、この老人には「燃え上がるように真っ赤な過去」があったのである。かれはかつてはイタリアの侯爵の弟で、嫂である侯爵婦人との不倫の関係から、「薄幸の美少女ミニョン」を誕生させた張本人なのであった。ミニョンの後を影のように慕ってついて歩きながら、一度として親子の名乗りを上げることもなく、娘の死を見とるという悲惨な運命までも甘受した後、いつまでも乞食を続ける老人なのである。前回にもご紹介した明治の文豪・夏目漱石には「門」という小説がある。この主人公もまた、燃えるように真っ赤な過去があったのだが、それを忘れたかのように、ひっそりと地味なサラリーマン生活を続けている。まるで「終りなき日常を生き」ているかのように。ある時過去の「妄執」」が再燃しかねない危機に陥ったかれは、迷いを静めるために禅寺の門をくぐるが、やがてそれは何の解決にもならないことを思い知らされる。そして作者はこう総括する。「かれは門をくぐる人ではなかった。くぐらずに済む人でもなかった。日暮れを待っていつまでも門前に立ち尽くす不幸な人であった」。この「竪琴弾きの老人」もまた、「日暮れを待っていつまでも門前に立ち尽くす不幸な人」以外の何者でもなかったのである。

*「老人の歌」(D778)

そして、

*「門づけのオルガン弾き」(D911ー24)

妄執の果ての爆発と沈潜、そして「狂気の境目に佇む意識」。これらの曲のいづれを取っても、シューベルトは「老いと妄執」の世界を描き尽くして余すところがないことが分かる。わずか31年の生涯で、「死」のみならず「老いと凄惨な晩年」までも音楽によって描き切ってしまったシューベルト。「若くて同時に老いていた」かれは、まさに31年で人生のすべてを「完成」してしまったのである。
では、その「完成」よりも先には何が待っているのだろうか?いうまでもなく、その先には「死後の世界」が待っている。そして、その「死後の世界」すらもかれは音楽に変えているのである。

*「ハデスへの旅」(D526)

「ハデス」というのはギリシャ神話の冥府の王の名前で、天空を支配するゼウス、海原を支配するポセイドンに対して、地の底の支配者として君臨する神である。ローマ名では「プルートー」で、これはこの太陽系9番目の惑星「冥王星」の名となっている。この曲についてはアインシュタインが、「シューベルトの救いのなさ、慰めのなさに驚愕せざるを得ない」」、とまで言っているのだが、果たしてそれで言い尽くせる内容であろうか?私にはどうしてもそうは思えない。中間の部分の音楽をじっと聞いてみて頂きたい。歌詞の内容だけからはとても予想できない、軽やかで明るい踊りのような曲想ではないか?「歌もなく友もいない」あの世の世界を、この亡者はまるで水を得た魚のように生き生きと跳ね回っている、としかいいようがないではないか?ニーチェには、「オリーブ山の日だまりの中で、、孤独を唯一の友として、最後の勝利をかみしめる」、という詩があるが、これこそこの歌のモチーフであると断言してよい。「弦楽四重奏曲・死と乙女」の終楽章が一つの「死の舞踏」であるのと同じ意味で、これはまさに「シューベルトの死に対する勝利」を表わす曲である。これと同質の「孤独の勝利と喜び」。これを表わす曲をもう一つ聞いて頂こう。。

*「孤独(Einsamkeit)」(D620)の最後の部分。

さて、これまで老人の歌ばかりが続いて来たので、いささか食傷気味だと思う方のために、
、もっと若い恋人同士が「黄泉(よみ)の国」で再会を果たす、という歌を聞いて口直しをしてもらいたい、と思う。題名は「オルペウス(Orpheus)」で、冥府へ旅立ってしまった新妻を求めて、ただ一人地獄へ降りて行く音楽の神さまが主人公である。「孤高の勝利に酔いしれる」プライドも限りなく貴重だが、永遠の伴侶を求めて、たとえ地獄の闇の果てまででも旅を続ける明るい楽天的な執念は、芸術家としてそれこそかけがえのない美質だ、と、時には「老いたるストーカー」にもなり得る楽観論者の私は信じるからである。

*「オルペウス」(D474)

では今夕の最後を飾る曲として「エリュシオン(Elysium)」をご紹介したいと思う。これはシラーのテキストによるかなり長大なリード(301小節)であるが、D584として完成するまでに、シューベルトは、全部で六連ある原詩のうちの五連を、それぞれ三重唱として別々に作曲しているのである。1813年の4月15日の日付のある第一連(D51)から始まって、D53,54,57,58,そして60にいたる五曲が同じ年のうちに完成している。これはアントニオ・サリエリによる作曲のレッスンと関わりがあるらしく、ここで参考までにご紹介する第五曲「まことの恋人の腕に(Hier umarmen sich getraeue Gatten)」(十月三日完成)は、一部はモーツァルトの「魔法の笛(Zauberfloete)」を思わせる愛らしい音型が使われている。この、シューベルトらしさがすでに朋芽として兆している曲から、リードとして壮大な完成を見せている「エリュシオン(D584)」(1817年9月)までの道程は、普通の凡庸な作曲家だったら、まさに“千里の道”というほかはない隔たりに思われるだろう。この距離をシューベルトは、たった四年間で飛び越えてしまったのである。まさに「筋斗雲に乗って十万八千里を一跳びする孫悟空」を思わせる。

*「まことの恋人の腕に」(D60)

*「エリュシオン」(D584)

さらに蛇足として「しめくくりの言葉」を付け加えるとしたら、次のように言いたい。

「ファウストの全体が『天国からこの世を通って地獄の底まで』というモチーフに貫かれているとすれば、シューベルトの音楽は『地獄の底からこの世を通って天国へ導く』というモチーフに貫かれている」。

  F i n i s   e t   f i n e
  コ   レ   デ   オ   シ   マ   イ




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